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だから、あなたは美しい







 青空の下、白い紙飛行機が飛ぶ。木と紙とゴムとで組み立てられた小さなステルスが幾つも飛んでゆく。

 自分が作った飛行機を追って子供や大人が川原を走る。堤防から飛んだ紙飛行機は川風にうまく乗ればかなりの距離を飛ぶ。紙飛行機がどこまで飛べるか一年間考え抜いた成果が今日試されていた。

 年に一度の紙飛行機大会に子供も大人も胸躍らせていた。

 柔らかい芝生を抜けて、草むらを抜けて人々は走る。それを遠くで見て、お弁当を広げている者もいる。堅苦しい日常から解放された世界がそこにあった。

 それを遠くでせせら笑うように、男は黒塗りの高級車から降りた。スーツにネクタイ姿の護衛を引きつれ、封筒を片手に紙飛行機と戯れている者達と大分距離をおいて男は笑っていた。

 同じように、護衛を連れた男が広場のお立ち台から歩み寄った。今日の紙飛行機大会を催した市長だった。広場では少数派の軽装ではない集団は張り付いたような笑みを浮かべていた。

「今後とも良い関係でありますように」

 男は握手の後に封筒を市長に手渡す。市長は乾いた笑いでそれを受け取った。腹に一物抱えた両者の顔に影が差す。誰かの紙飛行機が反れたのだろう、その場の誰もが警戒しなかった。金属片が降ってくるまでは。

 最初に当たったのは市長が受け取った封筒。半分に割れた六角ナットが芝生に穴をあけた。次に当たったのは、驚いて顔を上げた男の肩。頭の部分が溶けて変形した釘。金属片が金属粉をまき散らしながら集団に降り注いだ。それは皮膚を破り、布を裂き、芝生に穴をあけた。

 市長が声を上げた。周りの護衛が上に覆いかぶさるように動いた時には一機の紙飛行機が川の中に落ちていた。

 惨事に気付いた者達が声を上げて駆け寄る。そして怪我をしている二人の名前を口々に叫んだ。現市長と町の建設会社社長だった。市長は選挙中に洗脳するように町中に笑顔のポスターを貼った。社長は毎日テレビのコマーシャルで笑っている。

 現市長と建設会社社長の癒着が取り立たされたのは翌日だった。証拠となる文書もデータもその場にあった封筒から発見され、血を流す姿で幾つものカメラに収められた。

 絆創膏を貼った市長の顔も載せられた新聞が出回り、興味津々に覗きこむ住人達が多かった。微笑を浮かべ新聞を読む者も少なくなかった。それは敵対していた建設会社の者や、市長の対抗馬、事件を起こした本人だった。

 事件を起こした本人はいつもと同じように店先の全社の新聞を買い、石畳で軽快な靴音を立てて出勤した。


**


 蛇口を捻って水を流し、蒸留水を珈琲メーカーに仕掛け、珈琲豆を量りとりミルで挽いた。匂いを楽しみながら挽いた豆もセットして珈琲メーカーの電源を入れた。音を立てて水が熱せられる。

 自分用の冷蔵庫からミルク、戸棚からカップと砂糖を取り出して全ての準備が整った。後は珈琲が降りるのを待つだけだ。そして飲み終わった頃になって出勤してくる従業員に今日の指示を与える、それが今日の予定であった。それ以前に、エレベーターが年中故障中のローカルな建物には一息入れる必要がある。

 予想は的中し、二杯目の珈琲と四社目の新聞を読み終わった頃に従業員二人は仲良く出勤してきた。

「おはよーございます。朝っぱらから珈琲なんてエグイもの飲んでるなんて正気ですね? 所長」

 わけの分からない正気の確かめられ方をして、多少気分を害して一日の始まりを感じる。面白味に欠けた新聞記事から視線を上げて、寝グセも直していない髪の毛をいじる女を見つけた。

「おはよう。子供には分からない大人の味を楽しんでいるんだ。だから珈琲愛好者全てを敵に回すような言い方は止めろ」

 反省した様子もなく女は口先で謝る。年端もゆかぬ子供に説教をしているような気分になる。おかしい、女は既に三十路の足音がしているはずだ。

「毎朝飽きもせずに同じ行動するよな、一二三は」

 同じく出勤してきた男は溜め息混じりに頬を掻いた。

 彼らは同居しているわけでもなく、恋仲でもない。放っておけば時計の針が重なるまで眠る一二三を起こしにわざわざ男が迎えに行っているのだ。

 かなりマメな男だ。

「ファラッドも毎朝ごくろーさまだよね。飽きもせずに私を起こしてくれる。あ、もしかして気があるなら早く言ってよね」

 例えそうであっても正面切って言えない事を簡単に言ってのける一二三が時々恐ろしくなる。それに対してその気もないのに耳まで真っ赤になるファラッドも忙しい。

 言い訳を考えて口から出そうと必死になっているが、どうしても文章として喉から先には出てこない。何度も言葉を切りながら言い繕う、知っていてそれを楽しんでいるのはまだまだ子供だ。その子供が一二三だ。

「やだなー、冗談に決まってるじゃーん。だから所長は結婚式で泣いて下さい」

 人差し指を立てて真剣なふりをする。どこまで行ってもそれは冗談でしかないのに、過呼吸で大の大人が倒れそうになっている。既に光を失った目を押さえて、ファラッドはのぼせ上っていた。

 ふらりと倒れるように身体が揺れ、三歩下がり定位置のソファーに倒れ込んだ。その隣に座りこんで何事かを吹き込む一二三はいつも楽しそうだ。本当に気があるのは一二三の方ではなかろうかと思ってしまう。ならば何年たっても進歩の無い片思いだろう。

 毎朝同じような光景。見飽きているのだがどうしようもない光景だ。

 新聞を畳んで机の上に折りたたむ。まだ読んでいない新聞を新たに広げた。音に反応した二人はそろって顔をこちらに向けた。読み始めたばかりのそれを奪い取り昨日の事件についての記事に目を走らせる。

 他の新聞を広げていると、読み終えた一二三が汚く折りたたんだ新聞を両手で返してきた。

「やっぱりバレテないんですね、流石は所長。でも釘から指紋が出たりして」

 悪戯な笑みを浮かべる一二三、その両手に花瓶を載せる。勿論、花瓶の中には花がさしてあり水も入っている。絶妙なバランスで載せられた花瓶は手が動けばすぐにでも落ちそうだ。

「前にも言っただろう。この花は嫌いなんだ、持って来るな」

 そばにある新聞を手元に引き寄せた。それから汚く折りたたまれた新聞を受け取り、立ち上がった。

「一昨日言っていた『紙と竹でも飛行機はできる』を実行したんですね。しかしそれを証明するためだけに怪我を負わせるのはどうかと思いますが」

 まだ鼻が赤い男がソファーから身を起こしながら問う。物凄く真っ当な事を言っているが、赤鼻でさまにならない。

 残っている珈琲を全てカップに注ぎ、ミルクと砂糖を投入してかき混ぜる。透ける黒に濁った白が混ざり合い、濁った茶色が出来た。それに口を付けて舌先で味わう。質問の答えを待っているとばかりにファラッドは見つめてくる。しかし、そんな事は関係ない。十分待たせて赤鼻が治まった頃に答えた。

「『紙と竹』を馬鹿にしてはいけない、それで本当に空を飛んだ者がいるのだから。その証明というのならば少し違う、ただ少しそれがきっかけになっただけだ。どんな形であれ彼らは新聞の一面に載っていた、今回は偶然にも紙飛行機大会という格好の催し物があっただけで利用されただけだ。これでも税金は払っているからね。流血は住民税の増税が気に食わなかっただけだと答えておこう」

 住民税増税に反対していた一二三が笑った拍子に花瓶を落とした。




 水に濡れた机を拭きながら一二三は頬を膨らせていた。自分が落としたのだから仕方がないと頭では分かっていても、心は反発しているようだ。その証拠に目は常に同じ人物に向けられていた。

「早く片付けを終わらせてくれ。仕事が出来ない。それはお前たちの時間をも食い潰しているのと同等だ」

 壁を背に新聞を広げて急かすだけだ。いくら無言の圧力たる視線を向けられても手伝わない。

 それを見かねたファラッドが手際よく一二三の片付けをしていく。

 多少の湿り気を残して作業は終了した。それを見届けてやっと席に座り直し、引出しを開けて封筒を机に置いた。茶色い封筒のそれはいかにも市販品といった体だった。差出人の名前も無ければ、宛て先も無い。公共の郵便機関を利用した封筒ではないようだ。

 既に封は切られ、中身が置かれた拍子に飛び出した。白い紙に黒いインクで何事か印刷されている。中の紙だけを器用に抜き取り、一二三が目を通す。

 一通り読んでからファラッドに渡した。眉を跳ね上げて、顔をしかめて、自分は面倒ですと表情と行動に表した。最後まで目を通したファラッドも溜め息混じりに紙を封筒に戻した。

 無言で訴える二人を無視して、二人の従業員に仕事を言い付ける。

「読んだ通り、既に社長は用済みらしい。癒着がばれそうだったから、ときていた仕事だ。下請けの辛さは面倒事を押し付けられる事だ」

 淡々と告げる。口を曲げて、どんな文句を言ってやろうか、いや言っても仕方がない事だと諦めている顔をしている。一二三は喋らず表情で語ろうとしているが、ファラッドは文明の力を利用して直接口に出した。

 世界を蝕み続け、謎を残す、文明の力という言葉を。

「じゃぁ昨日の件は住民税の増減に関係なく行われていたんですか。事態を悪化させたのはあんたでしょう」

 残念そうに問いかけられた。

「いや、本件と全く無関係だ。少しでも税金を払うのは嫌だ、減税されていたら花火を打ち上げていたさ。以前から計画はしていたが、昨日の件は完全に私怨だ」

 好き好んで自分が働いた給料を他人に差し出すような偽善者にはなれない。しかも、その使い道を知っているとなると余計に出したくない。市長室の椅子を革張りにする為に働いた覚えはない。だからこそ完全なる私怨だ。

 きっと税金の滞納を一度もしたことがない、優秀な納税者のファラッドはこめかみを掻いた。

 対して、腕組みをして納得していない一二三は未だに表情で語ろうとしている。言葉を忘れてしまうほど感情の起伏があったようには見受けられない。本人にしか分からない経緯があるのかも知れないが、言葉にしなければ伝わらない事も多いのだ。

「口に鍵でもしたのか。言いたい事があるなら喋れ。そうでなければ早々に準備をしろ」

 曲げていた口を開いて黙っていた反動か、言葉を連射して始めた。それは確実に繋がっている言葉だったが、あまりにも早くて聞きとることはできなかった。一二三自身もそれを自覚しているのか、一気にまくし立てた後に深呼吸をして、もう一度話した。

「見取り図もなければ銃もない? 馬鹿みたい。それでどうしろって言うわけ? 少なくとも身辺に人間を置いてるわよ。何よ、素手で一人一人首を外して落としてこいってんならもっと時間が欲しいわ」

 少ない資料の入った封筒を平手で叩きながら怒る。もっともな話だ。

 当然二人に見せる前に隅から隅までチェックしている。まるで成り行き任せの様な内容しか書いていない無駄な紙でも何度も確かめた。下請けの辛さは降りてくる仕事に文句も言えない事だ。文句が言えないなら実力で訴えるしかない。

 机の引出しをもう一度開き、同じような封筒を机に並べる。こちらは封をしていない。自分が用意したものだからだ。

「見取り図と警備の巡回と交代時間、警察の巡回時間も一応入れてある。それと一カ月程度の行動も調べてあるから見ておけ。警備の全員は無理だったが半数程度は調べがついた」

 早速手に取りソファーに座って穴が開くほど読み込んでいく。隣にファラッドも座り順次読み込んでいく。同時に情報を頭にたたき込んでいく、次に確かめる余裕があるかわからない。

 長くなると判断し、ファラッドが共有の冷蔵庫から飲み物を出し一二三と自分のカップに注いで再びソファーに座った。

 ソファーの前に置かれたローテーブルに資料を広げ、飲み物を置く場所もない。それでも口元が寂しいのか膝の上にカップを乗せた器用な体勢をしている。真似できない、したくもない芸当だ。躾がなっていない、行儀が悪いと俗に言う。

 読み終わった紙が封筒に入れていく。最後の一枚が滑り込まされた後、空になったカップは流し台に運ばれ、封筒は手元に戻った。渡した時より折れ曲がって汚れているのは仕様がない事だ。封筒を机の引き出しに仕舞った。

「所長は普通に情報屋にでもなった方が儲けると思いますよ? 技術屋とかー」

 情報の収集能力を褒められているのは分かる。しかし、職業選択の自由は本来存在しない事は更に分かっている。それ以上に自分の能力も適材適所も分かっている。その指摘は何度も受けてきた。

「残念ながら、情報屋は知り過ぎると真っ先に消される。消されるには惜しい人材だと自負しているから気にしないでくれ。次に、技術屋への転向も考えられるが、趣味は趣味だ。仕事にして嫌いになりたくない」

 深く椅子にもたれかかって嫌味を演出する。それと同時に机の下に置いた荷物に手を伸ばし、机に上げる。

 小さな四角い箱。一二三もファラッドも正面を避けて斜めから警戒しつつ見つめる。開けてやってもそれは変わらない。

「その趣味で作った物だ。持って行くといい」

 ハンカチ越しに箱から取り出して机に置く。一二三が薄手の手袋を両手にはめて、重さを確かめるようにそれを手に取る。

「趣味でこんな拳銃作るなんてのは所長だけですよ。意外と重いですねー」

 水鉄砲のような半透明のグリップを握りしめる。撃鉄を上げて感触を確かめているようだ。自身の作品が評価され利用されるのは実に愉快だ、この瞬間だけは誰にも譲りたくない。世間に知れ渡らなくて良い、歴史に名を残さない誰かでも良い、作品が有用に使われているそれだけで作った甲斐がある。

 弾が入っていないのを確かめた上で扉に向かって撃つ真似をする。その様子が如何にも新しい玩具を貰った子供だった。そして自身の作品を解説したい自分もまだ子供だ。

「強化プラスチックで作った実弾の撃てる玩具だ。ただし使い捨てだ。一発目で破損する確率もある上に二発目ではほぼ暴発する。所詮はプラスチックだ。だが金属探知器に引っ掛かり難い。考えて使うといい」

 使い捨てするなら幾らでも出回っている市販品を買えばいい。しかし金属探知器に掛かりにくい点は長所だ。子供の玩具というのは侮れない、モデルとなった水鉄砲と外見が似ているから一見してそうとは知れないだろう。ただ破損の確立があるのは否めない。金属性の拳銃でもそれはある、割り切ってもらう。

 二発目は高確率で暴発する、それは短所であり長所だ。証拠の隠滅がある意味で容易だ。それを誰が撃つのかは問題だが、自分が撃つわけではないから安心だ。使う側が考えれば済む事だ。道具に責任があることは少ない、使う側に責任があるのだが責任は道具に押し付けられがちだ。

 手袋をはめて一二三が拳銃を渡してくれるのを待っているファラッドを見かね、もう一つ同じ物を出して渡した。予備はいつでも作っておく。

 ファラッドも重さを確かめ、掌で回してみる。それをポケットに落とし込み、早撃ち勝負のように何度も出して落としてを繰り返す。一二三が正面に立ち同じ動作で速さを競う、一二三の方が速いようだ。負けじとファラッドが速度を上げた、同じように一二三も速度を上げる。

「さっさと準備にかかったらどうだ?」

 飴だけを与えているだけでは人は動かない、鞭で叩いて動くきっかけを与えてやるのも時には必要だ。

 しかし、今回の鞭には力が足りなかったようで未だ速度を競い続ける。

「君達を減給するのに全く気兼ねが無い」

 二人は拳銃をポケットに落とし込んでからこちらを向いた。それから机に齧りつく勢いで走り寄り、拳銃が入っていた箱に拳銃を押し込め蓋をした。箱を脇に抱えた。

 壁のロッカーにある私物を引っ張り出して逃げるように部屋を出た。素晴らしい捨て台詞を残して。

「理不尽な減給は駄目なんですよ!」

 やはり鞭打つ力が弱いようだ、改善しなければと思っているのだが、どうして従業員はその改善を嫌がるのだろうか。社交辞令だ、違い無い。


**


 従業員が帰ってきたのは夕方だった。

 素人には分からない綿密な計画を立てて、その道具を準備していたのだろう。合法的に準備できるような代物は限られている。非合法に準備していたのだろう、まともに切られた領収書の金額は微々たるものだった。当然ながら領収書がなければ請求はできない、領収書がない物は殆どが自腹になる。その為、給金には最初からそれが含まれている。

 素人の自分には何を買って、どう利用するのか皆目見当がつかない物も多い。特にパーティ用の声色を変えるヘリウムガスがどうして必要なのかは分からない。無駄な出費は出来るだけ控え、利用目的が明確に不明な場合は問う。

「このヘリウムはなんだ。どうして量販店の領収書なんだ」

 悪びれた様子もなく一二三は快活に答えた。

「他の物を買うブラフに買いました! ねぇねぇ、声がへんでしょ~」

 開封したヘリウムガスを吸い込んで声変わりを楽しんでいる。確かに何かに使うのだろう物も領収書に含まれていた。だが必要な物に対して不必要な物が多過ぎる。どちらが本命だったのだろうか。

「頭が変なのは知っている。当然だが不要な物は経費から落とさない」

 頭にとんがり帽子を乗せて、ケーキを切り分けながら頬を膨らせる。どこの誰の誕生日なんだ、何処で祝福する気だ。主役もいない、誰の家でもない場所で何を祝うつもりなのか理解不能だ。

 一二三に乗せられてか、ファラッドもケーキを繊細な皿に乗せて配る。甘いだけのジュースの栓を抜きガラスコップに注ぐ。幼い頃にこんな誕生日会をしてもらった事もないくせに、どうして今それをしたがるのか。自分の年齢とは合わない蝋燭をケーキに立てて喜ぶ理由が頭の何処を探しても出てこない。いつも同じ結論に辿り着く、分からなくても良いのだと。

「あんたは紅茶で良かったですね」

 ローテーブルに皿が三枚、カップが三つ、フォークが三本置かれる。早くここに来いと食器が呼んでいる。仕方なくパソコンに今日の仕事の終了を教えて席を立つ。一二三が机に置いていた緑色のとんがり帽子を頭に乗せて長いソファーに一人で座る。

「粉末の物にしてくれ。あの甘さなら丁度好いだろう。どうしてよりにもよって生クリームの乗ったケーキを買ってきた」

 目の前のデコレーションケーキに悪態をつきながら、生クリームまみれの砂糖菓子をフォークで突く。生クリームは植物性に限る、だがケーキの生クリームときたら殆どが動物性で脂肪分が多い。デコレーションケーキでは生クリームが無い部分を探す方が手間だ。

 ファラッドがインスタントの紅茶をケーキの隣に置いて、座るのを確認してから一二三も座った。ケーキに刺した蝋燭に火を灯し、ひとしきり叫んだ後に食べ物への感謝を口にした。

「いただきまーす」

 ケーキにフォークを突き刺し、抉り取り、ほじくり遊ぶように食べていく。鼻先にまで白いクリームを付けて原色のジュースを飲み干していく。

 嫌味を言う気も失せて湯気の立つ紅茶を飲む。適度に調節された市販品は誰が作っても同じ味になる様に仕組まれている、それはまるっきり嘘だ。皆が皆量を量るとは言っていない。現に適当な湯の量を入れただけの紅茶が表記されている量で作った時より格段に美味い。他人を微力なりとも働かせた味は最高だ。

 ケーキの生クリームを削ぎ落とし、スポンジの形が露わになる。砂糖菓子にはご足労願って一二三の皿に飛び込んでもらった。飾り立てた職人が目に涙を浮かべるような姿のケーキを食べながら紅茶を飲む。

 大した目的もなく一二三もファラッドも談笑する。それに時折加わりながらも領収書の件を織り交ぜる。ただ笑うよりも多少の毒が混じった方が引き締まる。それが好まれるかは別として。

「ねぇ所長。たまーにはブラフも経費で落としてくれると、こんなに楽しいんですよ~」

 さり気なくパーティの資金を出してほしいとねだってくる。それはまるで自分が今の無目的なパーティを楽しんでいると思っているようだ。気付かない内に顔は笑っていたのだろうか、それとも口元だろうか。

「駄目だ。目的を無くしたら毎日無駄な経費を出さなければならなくなる」

 顔に失敗したと書いて、一二三は照れ隠しにフォークを舐めた。

 どうしてだろう、今手にしているのは安物ではない食器なのに投げつけたくなった。投げつければ一二三は易々と避け食器は地球という魅力に引き寄せられて割れてしまう。そうでなければ誰かの手で床に触れる直前で救出されるかもしれない。前者の可能性が高い。そうと分かっていても湧き上がる衝動がある。これを何と表現したら良いのだろうか。

 仕方なしにソファーへもたれかかり、肩の力を抜く。ソファーの窪みにいつも忍ばせているプラスチックを砥いだナイフを引き抜く。下手投げで放り上げる。丁度一二三の頭上に落ちるように。

 まだ残っていた一二三のケーキがプラスチックナイフを受け止めた。嫌な顔もせずにそれで小さくなったケーキを更に小さく切った。

 やはり反射において肉体労働者に頭脳労働者は勝てないらしい。これはどうしようもない、専門の分野が違うのだから仕方がない。ただ諦めるには生まれついた時からか、育った環境が形成したのか知れない気性が許さない。

 いつか当ててやろうと何度目かの決意をした。

 ケーキも飲み物も腹に納まり、日付を跨いだ無意味なパーティは終わった。後の片付けをして、部屋を出た。

 深夜からが本業とばかりに、二人は煌々と明かりを点けている町へ向かった。二人が陰に消えたのを見届け、石畳で軽快な音を立てて帰宅した。


**


 数日間、玄人達は素人に分からない行動をして準備を進めていた。準備が出来、決行すると報告してきたのは資料を渡してから五日後だった。事後報告だけでも構わないと言っているのに、どうしても前日には報告したがる。

「だってぇ。所長、私達がいないと寂しいでしょ? 一日も居なかったらとっても寂しいですよ。兎さんは寂しくて死んでしまうんですよ~」

 プラスチックの拳銃に実弾を入れながら言う。自身の言う所長がどういう人物か知って寂しがると思っている。あまつさえ寂しくて死んでしまう心配さえしている。愚かだとは知っている、そして思った事をすぐに口にする事も。

 兎の肉は美味いな、とでも返してほしいのか道具の手入れをしている手を止めて緑の光彩をこちらに向けている。

「寂しくて死んでしまうよ。だから行かないでくれ。などと言っても留守にするんだろう、愚問だ。少しでも寂しがらないように早く帰ってくる事だな。因みに寂しさは給料の減額に比例するが気にしないでくれ」

 隣にある大きな窓の外を意味深に見つめて求める返事をくれてやった。返事の内容がいたく気に入ったらしく、顔からは血の気が引いていくのが窓ガラスに映る。

 小さなベランダと外側の非常階段、宇宙の色をした空に浮かんだ白い雲、建物群、反射するソファーとローテーブル、慌てるファラッドと一二三。窓ガラスは内と外を同時に見せる不思議な物だ。

 二人はここでの準備を早々に終えると荷物を抱えて帰った。ここでは出来ない最後の準備を行うのだろう。秘密裏に行うべきそれを、こんな見え易い所オフィス街の一角で行うつもりはないようだ。無論行わせるつもりもない。

 それに、二人がいない方が都合の良い時もある。今日がその日であり、明日もそうだ。特に明日は休日だ。特別手当を請求してみるのもいいかもしれない。

 椅子に座り、靴の裏にフェルトで出来たカバーを掛けて靴音を消す。音を立てぬように立ち上がり遮光カーテンを閉めた。音を立てぬように明日のパーティの準備をしていく。時々パソコンを動かして考えている音を立てる。

 楽しいパーティの準備は月が昇るまで続き、時計の針が重なるまで終わらなかった。明日の早朝に仕掛ける分を残して音を立てぬように椅子に座った。フェルトのカバーを外し、パソコンを休ませた。椅子を軋ませて立ち上がり珈琲を淹れる。一日の努力に少しだけご褒美、角砂糖を一つ余分に入れて甘えた。

 少ない片付けを済ませ、コンセントを一瞥して部屋を出た。




 翌日、二人は宣言通りに仕事先へ向かったらしく時間になっても出勤してこなかった。それでも朝の貴重な時間を無駄にしないように昨夜残した準備をする。

 自前の保温瓶に入れてきた珈琲を飲んで準備終了の一服をしていた時、近くの駐車場に見慣れた車が停車した。時間をおいて他の場所に三台程度の車が人間を載せてやってくるだろう。人数は二十名足らずだ。そうでなければこの部屋に入りきらない。

 斜めから部屋の窓を観察している車内の人間が見える。こんな時に防犯カメラは恐ろしいと思う。特にカメラの角度を変えられる物は場所によっては広範囲を見回せる。向こうはこちらを隠れて見張っているつもりだが、こちらにはまる見えだ。それを教えてやる義理はない。

 準備が整ったらしく車からガタイの良い男達が出てきた。先頭の男には首元に傷がある。首元に傷がある男は防犯カメラを一睨みし、集団にいる数少ない女を叱った。見られていた事に気付いたようだ。

「どんな勘をしてるのか、本当に肉体労働者は分からない」

 呟いた。思わず褒めてしまった。だからこそ肉体労働者の集団には故障中のエレベーターより長い螺旋階段がお似合だ。慣れない皮靴を履いて好きなだけ駆け昇ると良い。

 プラグに繋がった銅線を金属製のドアノブに引っ掛ける。ただ一周しているだけではショートする可能性がある、しかし途中に大きな抵抗とで消費されれば大丈夫だろう。銅線の一部はカバーの一部を外し、はだか線にしている。銅線の露出した部分がドアノブに掛かる様に調節してある。

 足元の玄関カーペットに惜しげもなく缶コーヒーを撒く。

 最後の準備が終了した。靴を履き替え、上着を着て、荷物を小さな鞄に押し込んだ。最後に先日のパーティで発生したケーキの空箱を慎重に持って出掛ける。

 別の名義で借りている隣の部屋に入る。家主に許可をとった通行手段ではない。頼んだところで壁に穴を開けてくれる親切な家主などそれ程いないだろう。見つかるまで黙っているつもりだ。ばれるつもりは毛頭ない。

 窓を開け、ベランダから非常階段に出る。次いで反対側にある非常階段に仕掛けた缶を落とす。缶は予定通りの場所に落下し非常階段を見張っていたガタイの良い男達はそちらを向いた。一人が様子を見に近寄る。缶を手に取ったのが確認できた。

 手にある面白スイッチを一つ押した。

 缶の内部が急激に膨張し裂けた。同時に内容物が飛び出す。

 男が子供のように悲鳴を上げ、缶を投げ捨て顔を拭う。酷い悪臭がするはずだ。それを聞きつけた他の見張りが持ち場を離れて駆け寄る。もう一つおまけに面白スイッチを一つ押す。

 地面の一部が跳ねあがる。それも連続して一列に跳ね上がる。叫ぶ男に近寄ろうとした男達が慌てて後退る。丁度連射の銃で撃たれそうになった気分だろう。懐に手を伸ばして物陰に隠れる。その動きは素晴らしい、だからこそ隠れられる物陰を用意したのだ。面白スイッチをもう一度押すと爆竹が物陰で炸裂した。

 慌てふためく男達を尻目に乗ってきた車に近寄る。

 残った人間も外の様子がおかしい事に気付いたのか窓を開けている。動くなと命じられているらしく車の外には出てこない。その命令に忠実な行動に免じて、投げ込む催涙弾を一つにしてやった。車の陰に隠れているとはいえ、何故気付かずにいるのか不思議でたまらない。

 車から飛び出した時になってようやく気付かれ、落胆した。持っているスタンガンで涙にむせ返る二人を失神させた。内部に置かれた高価な機材を物色する。使えそうな物を探し出し、屋外の掃除道具入れに隠した。ついでに連絡に使っている端末を一つ拝借した。

 部屋に向かった連中にはまだこちら様子は知れていないらしい。それもそうだ、向こうの連中も階段を上るのに苦労しているだろう。

 通らなければならない場所で透明な潤滑剤と白いトリモチは地味に効果的だ。今日が休日で他人に迷惑が少ない、良かったと思う。後片付けは気にしない事にしておこう。今考えると溜息が出てしまう。

 灯りを点けると破裂する電球など、ガラス片の片付けが面倒だ。こんな事ならやらなければ良かったと掃除のときには後悔する。しかし、準備をする時はとても楽しい。楽しみの方が後悔を上回っているから後悔するのだ。

 離れた場所に停まっていた他の車には缶をタイヤ近くに転がした。

 首元に傷がある男が乗ってきた車を確かめ、催涙弾を二つくれてやった。最初の車と同じ目になった。流石にそれに気付いた他の車の連中が飛び出してきた。同時に面白スイッチを押す。タイヤ近くの缶が炸裂し悪臭を撒き散らした。鼻を押さえて悶え苦しむ。どうやら運悪く鼻に入ってしまったらしい、しばらく匂いは分からない身体になるだろう。

 苦しむ連中を放置し、デザイン性の無い防毒マスクを付けて車内の椅子の下に持ってきた箱を隠した。メッセージカードを付けて。

 他の車は運転席側のドアを金属対応の瞬間接着剤を塗った。

 面白スイッチの効果を存分に堪能した。自信作には程遠いが。

 部屋へと続く非常階段を上り、易々とベランダに辿り着く。丁度部屋に男達が入ってきた所だった。

「お前は何故窓から出入りしているんだ!」

 首元に傷がある男はガラスの破片をまき散らしながら叫んだ。

「危険だから窓から出入りする。当然だろう」

 開錠しておいた窓は簡単に開き部屋の主を迎えた。それが腹立たしいのか苦難の道を通って来た男達は拳を握る。あの拳が当たればひとたまりもないだろう事は十分承知している。だから戦力を削ぐ為に色々なお遊びを仕掛けたのだ。無駄にならずに済んだ。

 首元に傷がある男はおもむろに懐へ手を入れた。取りだしたのは紙だった。

 非公式の逮捕状。面白くもない紙だった。

 それを机に叩きつけると首元に傷がある男は腕組みをした。

「面白くない冗談だ。カロル次に来るときには土産を持ってこいと何度も言っているはずだ。さもなくば、どこぞの幼女趣味の童話作家と呼ぶと」

 カロルは口端を下げて見下ろす。

「これが土産だ。お前を殺人の共犯として連行する。力ずくで、だ」

 まだ体力の余っている何人かがカロルの両脇に控える。頭脳労働者は簡単に捕まってしまいそうだ。そう簡単に捕まりたくない、最後まであがいて抵抗したい。面白スイッチをしっかりと手の内に隠す。

「ここは君達の下請けをしている。そんなに下請イジメが好きならストライキを起こすつもりだ」

 椅子に座り見上げる形となる。見下ろすカロルの表情は変わらない。しかし、その目からは本当に力ずくで連れて行く気など無いと伝わってくる。もし本当に力ずくでと思うのならば、もっと教育された連中を連れてくるはずだ。それだけの部下もいる。

 ただ形式としてやっているようにしか見えない。可笑しかった。

 それが不愉快だったのかカロルの両脇にいる連中が懐から銃を抜いた。それもまた可笑しかった。笑わせてくれたお礼に引出しからダイヤル式のスイッチを一つ机の上に出してやった。

「ここに一つ面白いスイッチがある。カーペットに電流を流すスイッチだ。面白いだろう」

 狭い部屋に大人数が詰めているだけ何人かは逃れられない。ソファーや机の上は安全だが全員が逃れられはしない。カロルが立っている場所も珈琲のシミが広がっている。

「嘘か本当か確かめてみるか? 楽しい結果だと知っているが」

 ダイヤルを回そうとした途端にカロルが奪い取った。歯ぎしりをして実に不機嫌だ。これで少しはストライキを起こさせるかどうか考えてくれるかもしれない。もしも考えてくれない場合はもう一つ面白い提案がある。その提案に乗るかどうかはカロルの勇気次第だが。

「相変わらずエゲツナイやり方しやがる」

 褒め言葉だ。何度も聞いた褒め言葉だが何度聞いても良いものだ。

「有難う。だから早く外で待機させている部下を助けてやる事だ。洗濯機にでも放り込んでやれ。早く処置しないと嗅覚が死ぬ」

 片眉を跳ね上げて左に待機している一人に目配せする。慌てて呼びかける。持ってきた端末でそれに返事をしてやる。状況が分かったようで珈琲のシミと間をとりながら窓に寄った。

 失神している者と、地べたを転げまわっている者が見えただろう。土色の顔色でカロルに耳打ちした。予想していたとばかりに鼻から息を出す。

「全員撤収」

 短く言い渡し、机に叩きつけた紙を持って背中を見せた。

 多少ざわつきながらも従う連中のうんざりした表情が楽しくて仕方がない。来た路を帰らなければならないのなら当然の反応だ。しかし、それを表情に出す事は自分が幼稚だと言っているようなものだ。

 新人の訓練にでも付き合わされた気分だ。いや、実際にそうなのだろう。他人を利用する特権は誰のものでもない。

「危険だから窓から失礼させてもらう」

 肩越しに嫌味な笑顔が見えた。首元の傷が襟で隠れるように、着心地の悪いだろう背広を直して窓を開けた。カロルを先頭に、上等で汚れた服の集団が休日の非常階段を降りて行く。ガラスの破片や潤滑剤で服が奇妙に反射する。滑稽だ。

 最後の一人が出ていった事を確認して窓を閉めた。ガラスは片側に多くの指紋を残されて曇っている。妙な光具合からして潤滑剤の付着した手で触ったようだ。これからの掃除の事を考えるととてつもなく疲れる。

 まずは机の下にあるコンセントに仕込まれた盗聴器を外して、古くて汚した電気カーペットを剥がして、階段の掃除をしなければならない。外は連中が片付けていくだろう。そうだ、隠した物も回収してこなければいけない。時間外労働には相応の報酬がなければならないのだから。




 車の周囲で悪臭がしていた。悶えて気絶しかけている者達を避難させていると付着していた悪臭の源に触れてしまい二次被害を受けた者がいた。それでも避難を終え、まだ銃口に狙われていると思っていた者も引きつれて病院に運び込む。だが、運転席が開かない。仕方なく助手席から入り込み、窓を全開にして車を走らせた。

 カロルは思った。今回の被害はまだ少なかった方だ。前回があまりにも酷過ぎたのだ。到着早々に周囲の駐車場全てに仕掛けられた殺傷能力の低い爆弾が爆破された。殺傷能力は極めて低いが士気力が非常に下がった。

 大量のマシュマロが服にこびり付き、辺りに甘い匂いをばら撒いた。熱せられて溶けたマシュマロは時間が経つと固まって、まるで大きな茸の付いた服を着ているようだった。しかも髪の毛につくと取りにくかった。その後、玄関と非常階段から回った先発部隊が電流の流された床の上で失神した。三名が心臓を一時停止させた惨事だった。その為、今回は無理をせずに非常階段を見張らせただけだった。

 足元で悪臭のする車内で苦しむ者達。前回連れてきた者達の方が優秀だった。体力不足が今後の課題だが、脱落者が数名というのは誇れる。

 不意に、カロルは足元に白い箱があるのに気付いた。ケーキを入れる白い箱だった。誰が置いていったのか直ぐに分かった。メッセージカードにはローカルなオフィスビルを戦場に変えてくれた本人の署名があった。

 箱を開けようと蓋に手を掛けた。途端に小さな爆発音がした。車は急停止し、手から箱が落ちそうになり、シートベルトに腹部を圧迫されて嗚咽を漏らす者がおり、ハンドルに頭突きをした運転手が目を走らせた。

 車内に色とりどりの紙吹雪が舞っていた。正方形に切られた赤、青、黄、銀、金色の紙があちこちに引き寄せられる。呆気に取られている間に不似合いな音楽が流れる。安っぽい機械音が今日も世界の何処かで歌われる誕生日の歌を奏でていた。Youの部分がカロルに変えられている以外は。

『お誕生日おめでとう だから今回はお手柔らかに仕掛けた』

 押しつけがましいメッセージと共に箱の中ではチョコレートとバナナの匂いが微かにしていた。



 階段の掃除を専門の業者に連絡した。最低限、業者が動ける程度の片付けのみをして非常階段に散らばったガラス片を掃き落としながら臨時収入を回収した。三回往復して気力が失せ、ファラッドに電子メールを送信する。肉体労働は専門の者に任せるに限る。餅は餅屋だ。

 電気カーペットを半分だけ剥がす。上に乗った家具を動かして残り半分を剥がして丸める。これだけでもかなりの労力だ。臨時収入以上の労働は請求の対象だ。どこの誰に当たり散らそうか、積もり積った鬱憤を晴らそうか、何を犠牲にしようか。

 いつもより砂糖を多めにした珈琲を淹れて、壁にもたれた。半分も飲み終わらない内に窓の外にロープが垂れ、顔が覗いた。上下が逆さまになった顔は中の様子を確かめると更に逆になった。寝グセのついた髪の毛を窓ガラスで確認しながら撫でつける。まだ跳ねている髪の毛を放置して窓に手をかける。

 窓には錠が掛かっている。開かない窓を掌で軽く叩いて「開けろ」と言う。互いに目は合っているが、珈琲を飲み干す程度は待ってもらう。数少ない癒しの時間を奪われる覚えはないからだ。

 ファラッドが一二三と同じように上方から帰ったが、まだ珈琲カップには中身が残っている。窓に張り付いたヤモリのような二人を正面から見据えながら珈琲を飲み干した。それから鍵を開けてやった。

「早く開けて下さいって何度も言ったじゃないですか」

 開口一番に一二三が腰に手を当ててそれらしい事を言った。だが、それは嘘だと知っている。

「『開けろ』とは言っていたようだが、『早く開けて下さい』なんて声は全く聞こえなかった。なんせ強固なガラスだ。破損すると高いから止めろ」

 音は聞こえなくても唇を読む程度の芸は出来る。日常的に会う相手で、しかも面と向かっていれば容易いものだ。特に悪口は分かりやすい。

「それより、これはどういう状態ですか。何があったのかは分かりますが、誰が来たんですか。後始末は?」

 床のフローリングが露出しているのを見てファラッドが声を低くした。今回の後始末は死体処理、自分達の仕事の処理、自分達がこれからする掃除の複数を示す。複数の質問が内在されているが、答える必要があるのは一つだけだ。

「駐車場の掃除道具入れに戦利品があるから持ってきておくこと。降りるついでにカーペットを捨ててこい、ガラス等が刺さっている。新しいカーペットが裏にあるから敷け。元々酷い顔を更に酷くしてどうする。文句があるなら君の恋人に言え、新人の教育に使うなと」

 うんざりした顔を並べられて不愉快だ。綿密な計画を立てて実行した仕事を終えて、帰った直後に面倒事を押し付けられたのだ。仕方ないとは言わない。二人は主として肉体労働の為に雇われているのだから当然だ。

 ファラッドが疲れているのはそれだけの理由ではないのだが。

「カロルを恋人と呼ぶの止めません? そんな事実も無いのにどうして火のない所に爆弾放り込むんですか? 精神的屈辱で慰謝料を請求したいですよ」

「『したい』なら出来ないんだろう。忘れるまでしない事だ。冗談なのだから気にするな、妙な反論を続けていると逆に疑われるぞ。反論しなければ肯定ととるのだが」

 可哀想なファラッドが憂さ晴らしの標的となってしまった。想像以上に鬱積している感情に内心驚いている。棘を含んだ言葉が口を開いた途端勝手に紡ぎ出されていく。別段傷つけたいわけではないのだが、それでも相手は見えない傷を増やしていく。全く気にならない。

 溜息一つ、一二三とファラッドはカーペットを担いで窓から出る。ベランダでつっかえたカーペットに拳をぶつけた。何かを思い出したのか突然ポケットを探り始め、一二三は白い封筒を出した。

「手紙来てました! 生物研究主張会って所から」

 思わず、走った。

 一二三の手から奪い取る様に手紙を受け取り開封する。中の便箋を広げて内容を確認する。上着を引っ掛けて手袋をはめる。垂れているロープに飛びついて壁を蹴る。重力に引きずり降ろされる。地面に無理矢理着地してまだ上方にいる二人に告げた。

「帰るまでに終えていたら、今日のパーティを経費でおとしてやる。美味い茶葉を用意しておけ」

 顔を見合わせる二人を置いて走った。




 帰る途中にショーウィンドに並んだケーキが目に入った。先日のパーティにあったデコレーションケーキを中央に何種類ものケーキが並んでいる。まだケーキは買っていないだろうか、他のお遊び道具を買っているだろうか、もう一つ余分なケーキがあっても食べてしまえるだろうか。想像するより行動した方が楽な時もある、今がそれだ。

 足を止めてショーウィンドを覗きこむ。一番下の段、一番左の端に追いやられた一番地味なケーキが目に入る。ドライフルーツを詰め込んだ環状の焼き菓子。それをホールで購入した。

「袋にお入れしましょうか?」

 店員が気を利かせ、持ちにくい小さな持ち手しかついてない箱を紙袋に入れた。こちらの手荷物に気付いての事だった。代金を支払い、持ちやすい紙袋の持ち手を片手に引っ掛けた。

 石畳で高らかな靴音がする。雑踏で消えるそれは陽気に聞こえない。

 非常階段で部屋に戻ると、カーペットは敷かれ外の掃除も終わっていた。入口のドアに請求書が貼りつけられ作業の終了を知らせた。請求金額が一桁間違っているのでは無いかと確認するが、

「当社はいつも迅速に、丁寧に、美しく原状回復をモットウに作業をしております。お得意様なので端数は差し引かせて頂いております。次の機会も是非当社をご利用くださいませ」

 同じ文句を繰り返すばかりだ。その宣伝広告の謳い文句は正しく、大体の日程を伝えておいたが当日に連絡して数時間で作業を完了している。

 トリモチや潤滑剤、ガラスが散乱する場所を質問もなく素早く片付けてくれる業者は多くない。しかも当日中に片付けてくれる業者は稀有だ。だから仕方なく請求金額をそのまま支払う。

 請求書からカーペットに視線を落とす。新しいカーペットは以前の踏みならされたそれと違って弾力がある。歩けば靴にそのまま跳ね返ってくる。しばらくすれば消えてしまうその感覚を楽しみながら歩きまわる。

 買ってきたケーキをローテーブルに、手荷物を机に置いて珈琲の準備にかかる。躊躇ったが給湯室の窓を少し開けた。

 黒い液体が降り、これからカップに注ごうという所で二人の話し声が耳に届いた。原状回復されたばかりの階段を使って帰った二人を出迎える。手には大きな紙袋がある。全て今夜のパーティの為だけに買ってきたのだろう、やたらと嬉しそうにドアを開けて入ってきた。

「おっかえりなさーい、とたっだいまーです。ちゃんと買い物の領収書受け取って下さいね~」

 ローテーブルに大きな紙袋を乗せてソファーに座り込む。紙袋を漁りジュースを取り出してあおる。経費で落とすと聞くといつもより高い物を買えるようだ。ワイン一歩手前のジュースを一本空にした。

「どういう風の吹きまわしか知りませんが、生物研究主張会から何があったのか教えてもらえませんか。正直、あんたの機嫌が良いのは恐ろしい」

 紙袋から食材を取り出しながらファラッドは顔をしかめる。しかしエプロン姿で給湯室に入る背中には答えられなかった。食べながら話す程度の話だ。それに多少多弁になるには酒と言う潤滑油が必要だ。仕事中は酒を飲まないと主張する二人に合わせて仕事中は飲まないことにしてあり、持ちこんでいない。酒の代わりとなるような高揚感が必要だ。

 領収書を一二三から受け取り、引出しに仕舞う。

「あ~、どうしたんですかその鉢植え。それって所長が嫌いな天使じゃないですか。宗旨替えしたんですか? あんなに嫌ってたのに、人間分かりませんね~」

 机の上の荷物に気付いた一二三がニヤニヤと笑う。何がそんなに楽しいのかは理解できないが、昨日まで嫌いだったものが今日は好きになるという現象があると信じている様子だ。

「今でもアンジェなんて出回ってる植物は大嫌いだ。全て絨毯で焼き払ってしまいたいくらいに嫌いだ」

 葉を撫でる。冷たいその葉には古い傷跡があった。無理矢理引きちぎられたような跡が茎にも残る。いつかは消えてしまうのだろうが、痛々しかった。

「その割には、優しく触れるんですね。皿を運ぶのを手伝って下さいよ」

 筋肉質の体に張り付いたエプロン。可愛らしく背中で結ばれた紐を解いてやりたくなった。誰が喜ぶ訳でもない、ただ全てが被害者になるだけだ。

 ファラッドの言う通りに給湯室から皿に盛られた料理を運ぶ。運び手が増えて短時間の内に全てをローテーブルに置き、ケーキは最後として植物の隣で机の上に保留した。

 ガラスのティーポットに紅茶が仕掛けられ、アルコール分無しと称される泡の立つ麦茶がジョッキに注がれる。気泡が付着するロゼ色をした液体も華奢なグラスに注がれる。皿の上で軽食とも思えない量が待機している。

「取りあえず意味もなくカンパーイ!」

 高々とジョッキを掲げて宣言する一二三に続く。唯一湯気の立つ紅茶で乾杯に参加し、冷ましながら飲む。

「他人の奢りだと思うととてつもなく美味しいと感じるのはなんででしょ~?」

 白い泡を口の周りに付けて嬉しそうに一二三は飲み干した。素晴らしい肺活量を持っている。それが一般人の日常生活では全く役に立たなくても自慢にはなる。今のように立て続けにジョッキで二杯を一気に飲み干せば、酒場なら称賛が貰えるだろう。

 最初の一杯は早々に飲み干したが、二杯目からは手が止まっているファラッド。食事を摘みつつも何度も視線をよこす。余程気になるらしい。繊細な男だ。視線を無視してサラダとハッシュポテトに手をつけた。ポットに残った紅茶をカップに流し込む。軽く腹に収め、機嫌が良くなり潤滑油の紅茶が効果を表し始めた。紅茶に混入した他の液体の所為かもしれない。

「たまには上機嫌にだってなる。そう睨むなファラッド」

「そこの嫌いだって言う植物と生物研究主張会、上機嫌の説明をして下さい」

 薄切りのハムでレタスを巻きながら問いかける。上機嫌の理由も気になるが、高級食材も気になるらしい。

「簡単な理由だ。この植物が手元に帰ってきたからだ。それに薬も出来た」


**


 口元の泡を手の甲で拭い、焙ったベーコンを摘む。聞く態勢に入ったようだ。質問の当事者であるファラッドもグラスに口を付けた状態で聞こうとしている。構えられる程の話でもないのだが。

「この植物は友人の作ったものだ。数少ない、いや唯一といっていいまともな人間で、住所を変える度に伝えた無二の存在だ。お前達を含めてだ。これは彼から送られてきたもので、薬を作らせる為に生物研究主張会に預けていた。この植物の自殺遺伝子を刺激して自滅するように仕向ける薬をだ」

 ベーコンを摘む手を止めて一二三は踏ん反り返った。

「ひどーい。私はまともですよ~だ。それに、その人本当に友人なんですか? 愛を語り合った恋人だったりするんじゃないんですか~」

「そうだ」

 人の目が点になる瞬間というのはある。それが今だ。一二三だけでなく、ファラッドも動きを止めた。

「嘘でしょう」

 グラスから口を離して、絞り出すようにまたファラッドが質問した。

「嘘だ」

 気が抜けたのか、ソファーにすがりつく。グラスをローテーブルに置いて安堵の溜息を洩らす。各々勝手に安心している、何故か腹が立つ。

「しかし、近い関係であったのかもしれない。恋人の定義がどんなものかは個人に依るが、語らったことはある」

 驚いた顔が二つある。驚かすのは愉快だ。腹立ちも消えた。冷めてきた紅茶を口にし、舌の回りを良くした。

「どういったお知り合いで?」

 恐る恐るファラッドが質問を重ねる。その質問を切り捨てるのは簡単だったが、答えなければ気が済まなかった。答えたかったの方が近い。

「仕事上、植物学者と自称する大学教授を調べる事になった時期があった。教授の学生が彼だった。彼の近くにいれば教授の情報が入ってくる、一時的にルームメイトをしながら見張っていた。地味で面倒で長期的な仕事だったが下請けはそれを断れない」



 植物学者で品種改良を得意としていると自負する教授の正体は直ぐに知れた。教授の下で彼が行っていた。正確には彼が品種改良に成功すると教授が自身の名で発表するというものだった。彼もそれを知っていたが気にしていなかった。作ることに興味はあっても商売には興味がなかった、根が研究者気質らしい。それに彼が大学に入ってから面倒を見ていたのがその教授なのだから尚更だろう。

 つまり、彼がいなければ教授は富を得られない。その程度の報告で満足したらしく仕事は終わった。

 仕事は終わっても彼との関係は終わらなかった。急に引っ越したのでは怪しまれる、頃合いをみて部屋を出た。部屋を出ると言い出した時の彼の残念そうな顔は今でも悲しくなる、家賃の事もあったが親しくなり過ぎていたのもある。彼は見張られていたという事実さえ知らなかっただろう。

 仕上げたレポートを見せてくれと言うと簡単に見せてくれたし、貸してほしいと言ったら直ぐに返すという条件で貸してくれた。頼んでもいないのに誤字脱字がないか見てほしいとレポートを見せてくれるようにまでなっていたからだ。

 植物の研究には時間がかかる。寿命の長い生物だからだ。彼は粘り強く植物と向き合って調べ、改良をしていった。それが彼の目標だったからだ。

「世界を平和に出来る植物を作る」

 それを実現するために彼は研究をしていた。単純に素晴らしい事だった。今も何らかの戦争に直面している全ての人間を対象に、彼は癒しを与えようとしていた。

 食糧が得られない荒れた大地、枯れた川、汚染された地区、居心地の悪い町、酸素の減少していく大気。少しでも長く生物を生かしたい、苦しみを取り除きたいと偽善者の様な事を言った。偽善者は嫌いだが、彼の言葉は偽善ではなかった。真実その為に尽力し、世界に平和をもたらせる植物を作ったのだから。

「それがこの天使ですね」

 出回っているアンジェは放射能に汚染された土地でさえも根付いた。その繁殖能力は高く、実は食せ、光合成の量も多い、且つ美しい。世界の危機を救う天使だと、教授は宣言した。

 しかし、その天使ことアンジェは娘の名前だ。発表される前に彼の実験所で死亡した教授の一人娘だ。娘の名を残したい一心でこの植物にその名前を付けたのだろう、彼はその名を付ける気はなかったのにだ。

 そして、彼はこの植物を処分すべきかさえ悩んでいた。

 ルームメイトを止めてからも彼とはずっと手紙でのやり取りをしていた。手紙で日常の下らないハズの世間話、終わらないレポート、植物の病気や機嫌の良し悪し、他の教授に誘われていること、部屋が老朽化で建て直されること、しばらく教授の自宅に居候して研究を教授の自宅で続けること等が綴られていた。幾つかは事前に調べて分かっていたが、知らないフリをして返事を書いた。文通は部屋を出てからずっと続いていた。

 この植物を作った時には字が躍っていた。まるで彼自身踊りながら書いているような、そんな文字だった。内容も植物のことばかりで将来の展望を語っていた。それに陰りが見えたのは植物が持つ能力に気付き始めた頃だ。新品の鍵が早くも錆始めている、長時間同じ部屋にいると目眩がする、試しに酸素の濃度を測ってみたらおかしな値が出た、そういったものだった。

 狭いビニールハウスの様な実験所では光合成の量が多過ぎるというのだ。それが、まだ二株の植物がやってのけた事実には驚いたらしい。

 それを彼は事細かに伝えてきた、どうしたら良いだろうかと。まだ種として確立している段階ではないかもしれない、しかしこの植物が野に放たれて増殖してしまうとどうなるのか、相談された。

 とりあえずは数を増やしすぎないように、様子をみるという事になった。そんな中で教授の娘が死亡した。よりにもよって彼の実験所、この植物がいる場所で。原因は直ぐに分かった、夜には呼吸する植物と一緒に一晩狭い実験所で過ごしたのだ、単なる植物ならなんとかなったかも知れないがこの植物相手で酸欠は免れない。

 アンジェの死は大々的に取り立たされた。教授が喚いたからだ。しかし、彼の死は小さな紙面でしかなかった。

「なんで、彼は。その、亡くなったんですか。大きな目標があるのに」

 教授が娘の死は彼の責任だと思いこんだのだろう。彼はアンジェの思い人だったから、彼自身全く気付いていなかったが。

 彼は責任をとって農薬を飲んで自殺したと教授は新聞に書かせた。金と権力に屈伏する人間もいる。彼は、確かに責任感が強かった。そして責任で自殺をしてしまうかもしれない、それが植物の件だったら。

 しかし、今から荷物を頼みに行く人間が直前に自殺するか、午後には電話をかける予定の人間が。殺されたという考えが一番シンプルだ。

 彼の訃報を聞いて訪ねた、教授を問いただすと答えてくれた。つまらない答えだった。飲み物に混ぜて出かける直前の彼に飲ませたという、本当につまらないものだった。それに誰も気付かなかった。

 自らの手で殺めたいと思ったのはあれが初めてだ。

「でも、確かその教授はまだ生きていますよね? まさか~別人とか?」

 本人に間違いはない。ただ生きた心地がしないだろうけどね、常に自分の残された寿命をカウントダウンされていれば。こめかみから小さなプラグを挿入して、頭の中に時限爆弾を仕掛けた。爆弾と共に残された時間を示す時計とをプレゼントすると呆けていた、因みに起爆装置は手元にもある。本人にもそれを知らせてある。

 個人的な、とても小さな復讐だ。




「その彼の形見が手元に戻ったから上機嫌だったという事ですか」

 独り言のような戯言を二人は真剣に聞いた。勝手に一人で語るというのも時に心を解放できる気がする。二人がこの話をどうとったのか、食事の手を止めて、唇を濡らす程度しか飲まず耳を傾けた。

「そう、とても上機嫌だ。彼が望まない植物による生物淘汰を止められる。それに、遠い未来を掌握している気分は爽快だ」

 真剣な顔をしかめてファラッドは指を立てた。

「それなんですが、確かに天使の光合成量は温暖化の対応策として植えられています。でも生物淘汰なんて一つの種がそんなこと出来るハズがない。いくら呼吸で酸素を取り込んでも光合成をする、結局は保存される」

 あんたの想像は妄想に近いのだと暗に示す。その指摘も考えている、彼はその程度を望んでいた。

「そう、単なる植物ならそれで済む。種で増えていくだけなら。ただ、その植物を増やしているのが人間という点が最大の問題だ。植物自身が繁殖していくには限界がある。しかし人間が増殖させ、植えている現状は続いている。元来の繁殖能力の高さに拍車をかけている訳だ」

 一二三が何かを言いたそうに口を開く、言葉が発生するより早く付け加える。

「更に、この植物。オリジナルのこいつは別だが、異常な適応能力を持っている。その証拠に百年は木も生えないと言われた土地に花を咲かせた、年々新しい品種が作られている。オリジナルとは似ても似つかない形のものさえあり、既に野生化している種類も確認されている」

 彼にやり過ぎだと戒めた事もあった。そうなるのだから仕方ないと彼は笑っていたが、その所為で後に悩んでしまったのでは後の祭りだ。その前に止めてやるべきだったかどうか、今でも迷う。止めた所で止まらなかっただろうが。

「でも二酸化炭素の排出量は増えてますし、森林伐採も続いてるから大丈夫でしょ~。うん、万事おっけー」

 手を広げて、大丈夫だと必死に言い聞かせているようにも見える。温暖化の原因を並べて危機は無いと訴えている。そういった考えが危機なのだが。

「その二酸化炭素の量を減らそうと、比例して植えられていくだろう。それに問題が分かるのは百年かそれ以上先になるだろう、人間が生きていれば。徐々に現れるその効果は一世代では気付けない。急激な変化には気づけるが、小さな変化は誤差として処理される。君達が死んだ後にでも生物淘汰が本格的に行われる」

 そのどれもが確率、可能性の問題だ。だが、あり得る未来の一つでもある。植物が植えられる事で確率は上がり、未来の可能性は膨れ上がっていく。気付く者は少ないだろう。気付いた所であるはずがないと、予測を捨ててしまう様な妄想に近いものだ。

 その妄想を拭えなかった彼はアンジェの死で確信した。それでも自身の目標に限りなく近いそれを捨てる事が出来なかった。だから助けを求めたのに、間に合わなかった。それが悔やまれる。生涯に残る失敗だ。

「なーんだ私達には関係ないんですか。じゃあ、いいや」

 残念そうにフォークを躍らせた。植物殲滅作戦でも考えていたのかサラダだけを平らげている。それも飽きたのか再びベーコンを摘み始める。

「そうかな。『お前は冷蔵庫から生まれてきたんだよ』と子供に刷り込むような人間が親なんだ。どこまで信用できるか」

 自嘲してしまった。ファラッドが冗談で、ほら吹きなのだと一二三に伝える。父の話は一二三も知っている。出生の刷り込み以外はまともな人間で真面目で、独身を通している。

「そうだ。冷蔵庫出身者をどこまで信用する? 因みにこのオリジナルはココに置いていくから換気には気をつけておけ。それなりに広いし空調があるから心配はないと思うが、前歴があるからな」

 実験所でアンジェを死に至らしめた時は他の植物もあり、オリジナルの他に二株あったのだが警戒をしていても損にはならないはずだ。恋に殉死したアンジェの二の舞にならないように。

 感情など本能の一部にしか過ぎないと思っていたが、二つには深い溝があると知った。教えてくれたのは父でもなく、彼でもなく、アンジェだった。アンジェの行動は嫉妬に分類されるのだろう。しかし、理性はそれを抑止していた。何がきっかけで行動に至ったのかまでは分からないが、彼も自分自身も植物も傷付けて何一つ守れなかった。

 本能では傷付けると分かっていても、感情を抑制しきれなかったのが結果だ。感情と本能は別の存在だ。

「お茶を濁した所で、最後にもう一つ質問~。これは茶化さないで下さいね」

 ケーキの箱を開けて中身を三等分に切り分けナイフで渡していく。危険な配膳を終えてから一二三はフォークでケーキを抉り取り、ドライフルーツをこぼしながら口に突っ込んだ。最後の質問と言っておきながら口にケーキを詰めて喋ろうとしない。

 唇に砂糖を付けたまま、ようやく喋り出した。

「そのアンジェじゃない名前。創作者が付けようとした名前って何ですか? その植物の本名は何なんですか。その名前で世界に平和と恐怖を巻き起こそうとしているんですよ、気になりますって」

 平和と恐怖を巻き起こす名前。確かに正しいかもしれない。前者のみの時に名付けていたから後者の意味を含まなかったはずだが。両方の意味を含めて正しいと思うのかもしれない。

「俺もそれは疑問です。どんな素敵な名前だったんですか? 世界平和を目指す名前だ。花の名前に家族の名前をつけるのもよく聞きますし」

「彼は天涯孤独だったから家族らしい家族はいない」

 いるとすれば植物だが、既存の植物の名前を付ける事はできない。

「きっと片思いの相手でしょー。流石にそれくらいはいたでしょう」

 毎日語りかけていた植物群なら知っている。心の中まで覗く事はできないが、そんな相手がいた覚えはない。

 二人が勝手な想像を膨らませていく。下手に膨れすぎた想像が崩れ落ちる前に本当の事を伝えなければいけない。それはそれで面倒事になりそうだ。

「ルームメイトの名前」

 納得の感嘆詞を吐いて、思考と行動が一時停止する。最初に笑いだしたのは一二三だった。それにつられてファラッドも笑いだした。この笑いは可笑しいからなのか、現実から逃避したいからなのか、ただの間持たせなのか分からない。

「どこの誰なんですか、その平和な人」

 何かを認めたくないらしく笑いながら抵抗する。分かると思い遠まわしに言ったのだが、分からないらしい。いや、分かりたくないらしい。

「お前らの目の前にいる至って非力で平和な人間だ」

 笑いは急停止し、目は見開き、口は真一文字に結ばれた。事実は事実として認めなければいけない。認められない場合は対象を排除することしかできない。物としてか、記憶としてかは本人の選択による。二人はそのどちらも選択しなかったようだ。

「全然まともな人種じゃないでしょ、彼は正気だったんですか。や、逆にピッタリだ天使のフリをして悪魔の如く災厄をばら撒いていく! 本性を見抜いていたんですね」

 まるで悪の化身のように仕立て上げ、それで納得していく。それ程の悪人に見られているようだ。心外だ。

「その災厄は減給という形で素早く反応できるが」

 二人が褒め称えてくれたのは直後だった。




 美しい月夜だった。満月には程遠い細身の月が石畳を照らす。冷たい冴色が雲に隠れては現れる空だった。靴音が高らかに響いた深夜、吐いた息が白くなる程冷たい。しかし胸の中は温かかった。

 一二三とファラッドを帰してから荷物をまとめて帰宅の途についた。

 部屋を振り返ると窓辺に置いた植物が月光浴している。隣で、彼が笑った気がした。

 そんなはずはない。

 小さく手を振って背を向けた。それでも気になって再び窓を見上げた。

 そこには、やはり彼の姿は無い。ただ風もないのに植物の葉が揺れていた。