誰かが願ったこと、そして潰えたこと
娘は天使のようだ、その栗毛色の髪も、空色をした零れおちそうな目も、薔薇の色をした唇も何もかもが愛らしかった。笑顔が一番で、その目に映る何もかもは美しく彩られていた、その歌声で私の心を満たしていた。私の世界の多くを占領していた、それを私も受け入れていた、他になにも要らない。地位も名声も財産も、全て私の天使の為にあった。四季を彩る花々も色を失うほどに私の全てだった、花々に色を付けたのが神ならば娘こそその神だ。
だから連れ去らないでくれ。
花に色を付けた女神ペルセポネー(又はペルセポーネ、プルセルピナ)に死の国を統べる神ハデス(又はハーデス、プルトン、プルート)がそうしたように。誰も冷たい地下に連れていかないでくれ、逝かないでくれ私の天使よ。
娘に死の門が開いたとき、私の世界は色を失った。
アンジェは可愛い子、甘い砂糖菓子と花の匂いで育ったの。彼女が生まれたとき教会の鐘が鳴り響いたの、神様の祝福を沢山浴びて生まれてきた可愛い子。
アンジェは可愛い子、薔薇が咲くお庭で駆けまわるの。彼女からは薔薇の良い香りがするの、両親の愛を一身に受けて一年中花の咲いているお庭の可愛い子。
アンジェは可愛い子、胸焦がす恋をしたの。彼女の想いはずっと心の中でくすぶっているの、心に火をつけた可愛い子。
薔薇が咲く頃に彼は家にやって来た、とても優しい目をした人。父の勤める大学の学生だった、時々家にやって来て父と一緒に温室の中で品種改良の手伝いをしていた。
花の世界では有名な父を作ったのは彼だった、彼の成果を父が自分の名で発表しているのは知っていたが黙っていた、もし彼がそのことを知って家に来なくなるのが嫌だった。ほんの少しでも一緒に薔薇の手入れをしたり、紅茶を楽しむのが今までで一番好きだった。この時がいつまでも続けばいいと流れ星に願った。
ポインセチアを飾る頃に彼は家に住むようになった、願いを叶えてくれた星と奇跡に感謝した。下宿先の改築で住む家がなくなった所に父が離れの一室を与えたのだった、元々彼のおかげで増築した離れだ、彼は知らなくても彼の家だった。彼とずっと一緒にいられる、それがその年最高のクリスマスプレゼントだった。
大学に行く時間以外はほとんど温室と離れでの品種改良ばかりしていた、以前より話す時間が減ってしまったが黙って一緒にいることを許してくれた。温室で土や花をいじってる彼は本当に楽しそうで見ていて私も嬉しかった、こんな時間がずっと続くのだと思っていた。
あんなものが出来るまで。
彼の目的は緑の平和だった。誰も餓えずに、見れば心が癒される緑を作るのが夢だと新しい緑を作る度に彼は語っていた。その素晴らしい夢が彼なら叶えられると信じて疑わなかった、新しい植物を慈しむその背中を見ていられるはずだった。その様子が変わったのは新種の緑を作っていた頃だった。
いつも慈しむようなその目が険しかった。既に温室を彼に明け渡して父は新しい大きな温室にいた、彼の様子がおかしいと言っても父はいつもの事だと言って気にも留めなかった。
それからの彼はおかしな行動をするようになった。温室の一番奥に仕切りを作りその特別室に新種の緑を置くようにした。そしてその緑を管理していた土を焼却炉に入れて燃やした。新種の緑が茎を伸ばす度に長さをいちいち測り、新しい目が出る度にメモを取り、葉が土につかないように台を高くした。
その緑に掛かりきりになり他の品種改良も観察もおろそかになっていた、常にその緑に気を配り私との会話は更に減った。食事の時間も減り昼間はずっと温室で、夜はずっと離れで作業をしていた。それ程にまでその緑のことを想い続けていた、想われている緑が憎くなった。たかが植物にそれ程の憎しみが出来るはずはないと自分に言い聞かせて爪を噛んだ。自分の心から憎しみが溢れたのはその緑が純白の花を咲かせた朝だった。
私が起きるよりも早く彼はいつも通りに温室で作業を始めていた、朝食に彼を呼びに行くのが私の朝の楽しみだった。家から温室までの短い時間だけ二人きりで並んで歩ける唯一の時間だったからだ、その時間だけ彼は私を見てくれる。その日も同じ様に胸躍らせながら温室に向かった、中に入ると彼が棒立ちになっていた。何かあったのだろうかと声をかけると鉢を持って振り向いた。目を見開いて驚きを隠せないその表情を私は初めて見た、彼の手にある鉢には花を咲かせた例の緑があった。
彼は私と歩く時間を断った。
純白の花を咲かせた植物に殺意が芽を出したのはその瞬間だった。そして、その夜に私は鋏を持って彼のいなくなった温室に向かった。
彼の剪定鋏はいつも机の引き出しに入っている、でも彼の鋏は使わない。心が痛むから。赤い自分の剪定鋏を握りしめて離れから漏れる光を避けて逃げるように走った、もしも見られていたらどうしよう。それでも構わない、そんな気がした。
温室のドアを開けて後ろ手に閉めた。月明かりで周りが薄っすらと見える、眠っている緑達を傷付けないように足元を確かめながら一番奥へと進んだ。仕切られて鍵を掛けられて、大事にされてまるで宝箱に収められているような緑。たった三株の緑、それだけが温室の一角を占領している。錆びついた鍵を開けてドアを開く、鉢に入れられて吊るされているその緑はまるで玉座に鎮座しているように蔓を下ろしていた。
あるはずのない唇から甘い吐息を出して彼を魅了している、悠々と足を組んで私を見降ろすその姿が許せなかった。正面の一番大きく育った株が一番古い株だった、左右の株はその子供と孫。三世代に渡って形質を保存してこその新種、それは成功していた。花を咲かせたのは一代目の株、蔓の一本を掴んで引っ張り鋏を当てた。震える手でしっかりと持っているつもりでも重い剪定鋏を落してしまいそうだった。本当に切ってしまうのか、彼が心血を注いで作り上げた緑を傷付けてしまうのか、本当に。本当に?
唇を噛んで目を見開いた。
目の前で純白の花が揺れていた、まるで挑発しているような揺れが決心させた。
「あんたなんか、あんたなんか」
蔓の一本を切った。次の蔓を掴んで今度は躊躇なく切った。落ちた蔓を足で踏みつけて、何度も何度も踵で踏みつける。次の蔓を引っ張って葉っぱを毟って千切る。
「あんたなんか、ただの植物じゃない」
肩で息をして鋏を持った手をダラリと下げた。酷く息苦しかった。涙が溢れてしまいそうになるほどに苦しくて、胸の奥から何かが飛び出してしまったようにどこか空虚に感じられた。
青い目から涙が零れ落ちた、がっくりと力尽きたように膝をつき鋏を落とし顔を両手で包んだ。その手からも雫が零れて遂には地に伏してしゃくり上げた、それからしばらく続いた泣き声は段々と小さくなり消えた。
後悔が胸の中で渦を巻いていた。自分がしたことに酷く後悔して、これから彼が激怒するのではないか、恐ろしい顔をしているのではないか。それとも笑って許してくれるだろうか、その方が怖かった。彼女は自力で起き上がることができなかった。
翌日、温室の中で二度と自力で起き上がれなくなったアンジェが見つかった。泣き腫らしたその顔に涙が光った。朝露に似たそれは朝露とは全く違い、あまりにも悲しい雫だった。
父親は狂ったように娘の死を嘆いた、刑事を怒鳴りつけ殺人犯を早く探し出し殺してやるのだと叫んだ。娘の葬儀にも涙で棺桶を満たしてしまうだろうと誰もが思った。
新聞にも大々的にとりだたされて連日紙面を賑わせた。それも父親が殺人犯に多額の賞金をかけたからだった、犯人が泡のように浮かんでは消えを際限なく繰り返したが誰も彼も確かな証拠がなかった。幾つもの新聞が取り上げ続けたある日、小さな記事が一社にだけ載った。
学生が農薬を飲み死亡、自殺か。有名な学者宅で研究の手伝いをしていた男子学生が昨日農薬を飲んで死んでいるのが発見された。
たった数行の新聞記事に誰も目を向けなかった。
その学生の墓に親切な学者は彼が最後に手掛けていた植物を植えて、残る株を増やし世界に発表した。
娘の名前を付けて。
終