あの時計とあの時計の間





 一つの時計は正午を指していた。一つの時計は二時半を指していた。一つの時計は六時過ぎを指していた。一つの時計は八時前を指していた。そこにある幾つもの時計はどれ一つとして同じ時刻を示していなかった。

 翠色をした石の乙女像、木目が浮かぶ三つの顔と六本の腕を持つ仏像、光を体で屈折させ奇妙な世界を内在する前衛的な動物像が立ち並んでいた。それぞれが持つ独特な存在感が入り乱れ、像が立ち並ぶそこは混沌として違う何かを呼んでいるようだった。

 時を刻む時計の音と翠の乙女に手招きをされた。

 ガラス戸を押すと、古びた鐘の音と共に開いた。

 店内は沢山の像が植物に埋もれるように乱立していた、奇妙な植物園に入った感覚がした。天井からつり下がった植物がランプに絡みつき、外から侵入した蔓がステンドグラスの窓を装飾していた。それさえも商品に見えた。

 蔦の根元を探していると一体の像が瞬きした。それに驚いて一歩下がり、足元に広がった根に引っ掛かった。危なく転びそうになった。

「大丈夫ですか?」

 その像が動いて聞いてきた。

 まるで調度品の様な人間味の薄いその像、いや人物に驚いた。店なのだから店員がいるのは当然なのだが、像に紛れて全く気が付かなかった。息をしている者としていない物とを間違ったのは初めてだった。

 手に滲んだ汗を握りしめて一つ頷いた。引っ掛かった根を見てみると窓を飾っていた蔓に繋がっていた。これほど生命力が強い植物を放っておいて構わないのかと心配したが所詮は店側の勝手だ、初めての客が言うことではない。

「何かお探しで?」

 色ガラスと緑の植物を妙な気持で眺めていると店員が聞いてきた。それに首を振って答えた。

「面白そうな店だったもので」

 まさか乙女像の一つに手招きをされた、などとは口にできず適当な言い訳をした。他に言いようがなかったのもあるが、一番適切だと思ったのは口から言葉がでた後だった。

「お暇ですか?」

 唐突にそう聞かれたので目を見開いた。確かに暇だったからこの店に入ったのだが、会って間もない客に失礼な態度だと思われた。変な店には変な店員しかいないのだろうか、そして変な客しか来ないのか。その変な客は素直に答えた。

「えぇ暇ですよ。甘いクッキーでもくれるんですか?」

 店員は少しだけ驚いて息を吐いた。予想外の反応だったらしい、相手の期待を良い方向で裏切れたようで嬉しかった。

 口元を手で隠してクスクスと笑う様子が人間らしかった、息をしている人間なのだとやっと分かった。実は像が勝手に動き出したのではないかと、昨夜観た恐怖映画の影響で妄想していた自分が可笑しかった。像だとして何故動きだしたのか、色香に酔うのなら私は魅力がない。また妙な想像を巡らせる自分の想像力に涙が出てしまいそうだった、これで小説でも書こうか。

「そうですね、クッキーとお茶でもいかがですか。丁度三時を過ぎたばかりだ」

 自分の腹時計で確認してみると三時頃だった、軽食をとるにはよい時間と空腹具合だった。良く知った知人なら喜んで申し出を受けるのだが、今日しかもついさっき会った初対面の相手、何事か心配しないではないが快く申し出を受けた。ニッコリと笑って店員は店の奥に招き入れた。



 細工が施された机の上にブローチや宝飾品がプリンカップだったガラス瓶と一緒に置かれ、小さな像や置時計も様々な机の上に置かれ好き勝手な時を刻んでいた。奇妙な空間を演出するのに一役買っていた。

 古いランプが店内を薄暗く彩り、その柔らかな光を宝石類が反射していた。急に像がなくなり、机がなくなり、広くなった途端に光が溢れた。薄暗い所から出た所為で当たり前の光が眩しかった、おもわず手で目元を隠した。それもほんの少しで目が慣れてくると光は外からのものだと知った。

 鳥籠の様に円形の天井、ガラス張りの壁面、それに纏わりつく緑。低い階段が数段あり、上がると木目が美しいテーブルと椅子が置かれていた。

 ガラス張りの壁面に人目が気になるかと思ったが階段で目線より高い位置にあり、ガラスを飾る植物のおかげで視線も気にならなかった。初めて植物の役割を知った、外界とこの店を隔てる大事な役割。わざとここまで蔓延らせているのか、育てているのか、勝手にこうなったのかいずれにしても長い時間がかかったはずだ。

「素敵な所ですね。今更ですが店の方はいいんですか?」

 店先から商品をかきわけつつ進んだので距離感は消えかけているが、それなりの距離があるはずだ。げんにここからでは入口は見えない。他に店員が見えなかったが同じように像に紛れていたのだろうか、それとも一つ一つに防犯チップでも付けているのだろうか。像を持ち出すのは難しくてもテーブルの上に乗っていた宝飾品をポケットに仕舞うのは簡単だ。

 店員はガラスの一枚を指示した。見るとちょうど入口が目に入る。それ程離れていない、椅子に座っても見える位置だ。ゆっくりとおやつの時間を楽しみながらでも店の出入り口を見張れる素晴らしい鳥籠だった。

「ここからでも入口は見えるので。それに店から持って行ける物は無いので」



 椅子をすすめて座らせると店員は来た路を帰り、何処かに消えた。何処に消えたのか目で探しても見つけられそうになく諦めた。テーブルの木目をなぞり、その先に置かれた大小のガラス玉が水と一緒にガラスの器に入っていた。魚でも居るのかと探すが見つけたのは魚の形をしたガラスだった。手をかざしても動かないそれに溜め息を吹きかけた。

 揺れる空を映す水面、早く動く雲を下を向いて眺めていると足音がした。店員がポットと籠を手に戻って来た音だった。

 テーブルに置かれたそれは鈍い金属光沢で持ち手に葡萄が巻きついていた、商品の一つの年代物ではないかと聞いてみたかったが、その値段で折角のおやつが楽しめないのは悲しいのであえて聞かない事にした。

 ポットと同じデザインのカップが籠から取り出され、次いで同じデザインの皿と赤い箱が出てきた。更に箱からは甘い香りのするクッキーが出てきた。市松模様のクッキー、名前の知らないハーブらしき葉の乗ったクッキー、四角いナッツの練り込まれたクッキー、どれも美味しそうだった。それらを適当に手で掴み出して皿に盛った。乱雑だがおかげで堅苦しさが全くない。

「アレルギーはありますか?」

 首を振って答えた。

「原因不明のアレルギーが以前一つ、健康優良児ですよ」

 眉を寄せて「分からない」と無言で顔に描いたが、正直に答えたまでだった。そもそも、初めて入った店で初対面の相手の誘いを受けるような者は、自分で言うのも可笑しいが変人に違いない。誘う方も誘う方だが、受ける自分も自分だ。余程暇でなければない状況だった。


 皿を渡され、それを受け取った。クッキーを落とさぬようにそっと机に置いた。ポットからカップに赤茶色の液体が注がれ、ソーサーの端にスプーンと角砂糖が置かれて手元に置かれた。

 嗅ぎ慣れた香りが湯気とともに立ち上っていた。ポットの端に黄色でメーカー名の書かれた紙が引っ掛かって正解を教えていた。好みのインスタント紅茶のメーカーだった、しかし黄色のラベルより赤色のラベルの方が好みだった。

「紅茶はインスタントですけど、クッキーは自家製ですよ。本当は青ラベルの紅茶が一番美味しいんですけど切らしてましてね」

「黄色も青も美味しいですね。でも赤ラベルの方が好きですよ」

 店員は破顔した。

 クッキーにもハーブらしきものを使っているから紅茶もそうかと思って警戒していたが、意外に共通の嗜好を見つけられた。共通の話題が見つかれば沈黙の時間も減るだろう。いくら図々しいといっても黙ってクッキーだけ頂いて帰るのは気が引けた、相手の暇つぶし相手になるくらいでしかお礼が出来ない、相手もそれを望んだから誘ったのだろう。そんな気がした。

 店員が席に着いてカップに口をつけた、同じように口をつける。陶器のそれと違ってカップ全体が熱く唇が震えた、息を吹きかけて冷ましそれから再び口をつけ中の紅茶を含んだ。やはり赤ラベルの方が好きだった。

 青ラベルの方が好きだと言った店員は小さく言葉をこぼした。

「やはり青ラベルの方が美味しい。これほど薄い味ではない」

 赤ラベル派は苦笑して独り言に聞こえるそれに応じた。

「黄色は薄味で匂いを楽しむのが一番ですよ。青は苦みが強くって濃いですから比べるとそうですよ。赤はその中間で程々なんですよ」

 青ラベル派は納得して熱い紅茶をまた飲んで、市松模様のクッキーを一つ齧った。同じように市松模様のクッキーを一つ手に取り齧った、ココアの甘い匂いが口内に広がった。



 インスタント紅茶の話など他愛のない会話をしていると古い鐘の音がした。店の戸を開けた時にしたあの鐘の音だった。もうそろそろ失礼するべきだろうと、席を立った。接客の邪魔をして不愉快な思いをさせたくはなかった。

 店員は残念そうに溜め息を一つついて立ち上がり、迷路のような店内を連れて行ってくれた。距離感さえ狂わせ、乱立する商品の数々に一人で歩けば迷子になってしまうだろう。迷わず最短ルートと思われる所を通る店員は流石店員と言える。その背中を追っていたが、出口の見える場所その背中が止まった。

「やぁ今日こそは彼を譲ってもらいに来たよ」

 カボチャのような格好をした男が立ちふさがっているのが見えた。服のボタンが可哀想な程努力をしているのに男の服は今にも弾け飛んでしまいそうだった。もし針で突いたら爆発し、破れた服だけを残して飛んで行ってしまうのではないかと安易な想像をした。

 腹部に溜まった脂肪を揺らしながら店員の前方を塞いでいるのだ、もう出口が見えているから商品の間を抜けて帰ることもできたがカボチャの男がそれを許してくれるとは思えなかった。関係ないのだから通してくれるかもしれないが、それは店員に失礼だとも思った。しょうがなくその場に黙って佇むしかなかった。

「これはキクモンジさん、いらっしゃいませ。鎧も一緒にご購入される決心はつきましたか」

 どこか無愛想に受け答えする店員のその表情は見えない、だが冷めた目をしているのは何となく分かった。嫌いな客なのだろう、それともよく知った客なのだろうか。こういった高そうな物を扱う店の常連なら金持ちなんだろう、だからカボチャみたいな体格をしているのだろうと勝手に決め付けて聞いていた。

「いや、彼だけで十分だ。あんな汚らしい鎧など買うわけにはいかんね」

 そういって入口近くにあった像の一つを撫でまわす。そっと撫でまわされる像を見てみると、少年とも青年とも言えない大きな瓶を担いだ白い像だった。鼻もすっきりと通って、優しく結ばれた唇が今にも動きそうだ。揺り毛の髪が首元にかかり、布を体に巻いている。

 カボチャ男はその像を撫でまわしていた、それが像の清潔さと反対に汚らわしく見えたのは単なる偏見かもしれない。動けないが今すぐにでも瓶を投げつけて走り去ってしまう幻覚に襲われたが像の台座がそれを打ち消してくれた。もしかしたら見た目は悪いがこのカボチャ男はこの像を大切にするのかもしれない、この店で飾られるより鋭い視線を浴びせられる方が良いのだろうか。そんなハズは無いと外見で判断した。

「本当に物好きですね貴方も」

 溜め息混じりに店員は言い放つが、意に介そうとしないカボチャ男は像の髪を撫でた。何故か悪寒が走った。第一印象は見た目が七割というのは間違いないと確信した。きっと比べる対象が芸術品の像だからだろう、その表情一つが醜く見えてくる。寒くない店内で腕をこすった。店員はその様子を横目に像の近くに飾られた赤い日本の鎧に手を乗せた。

「この鎧と一緒でなければ売りたくないと言っているでしょう」

 不自然が乱雑に置かれている店内で、さほど目を引かない赤の鎧だった。角のような兜が付いており、子供の日に飾られる兜より大きかった。実際に使われたかどうかは分からないが像とは違う静寂を持っていた。

 白い像と赤い鎧では飾る場所に困るだろうと初めてカボチャ男が拒絶する理由が分かった。それを承知で店員は強引に押し付けようとしているのか、カボチャ男に像を売りたくないのかそれも分かる。生理的にあの像をカボチャ男の元に置くのが嫌だった、それは店員も同じなのかもしれない。しかし、それでは店が成り立たないのではないだろうか、客を選んでいては高額な商品だけに売れないだろう。

「どうしても彼だけが手元に欲しいのだよ。不要な物は買わない主義だ」

 一般市民と自負するが、こういった芸術作品はほとんど生活に必要ないのだが、やっぱり金持ちは感覚が違うのだろうか。

 カボチャ男は懐から金ぴかの時計を取り出し、時間を確認すると鼻を鳴らして店から出て行った。それなりに忙しいらしい。カボチャ男は巨体を揺らして、流れるように走って来た黒い車に乗り込んだ。車はそのまま何処かへと走り去った。やっぱり金持ちなのだと確信して嫌な気分だった。

「嫌な所を見せました。不快な思いをされたでしょう。でもまた店を覗きに来てくれたら嬉しいです。別に何かを押し付けようなんて事じゃないですよ」

 店員は悲しそうな顔をして無理に笑っていた。

「また、暇な時に」

 寂しがり屋な店員に約束とも言えない約束をして店を出た。古びた鐘の音が送ってくれた。



 昼下がり、曇り時々晴れの天気予報は当たり珍しい日もあるものだと感心して道に迷っていた。昨日と同じ路を歩いているつもりが外国語も表記された看板ばかり目について気が滅入りそうになった。今日はスケジュールに「暇」を予定していたのに迷うのが楽しくて暇で無くなりそうだった。どこをどうやって来たのかさえ覚えていない、しょうがなく水路で鳴いている蛙の後を追って歩いた。

 不思議な世界に連れて行ってくれるのは兎か猫と決まっている、蛙ならきっと帰る路を教えてくれるだろうとくだらない事からだった。

 しかし予想外にその蛙は兎か猫が変身したものらしかった。

 勝手に時を刻む時計、今日も手招きする翠の乙女像。ガラス戸の上の古びた鐘を揺らした。

 音に気付いて店員が振り返った。口の端を上げて笑った。

「また暇だったので」

 鞄から赤ラベルと青ラベルのインスタント紅茶を出して見せると、店員は驚いて後ろにある机から紙袋を掴み上げ中身を取り出した。同じ赤ラベルと青ラベルのインスタント紅茶が出てきた。

 吹き出してしまった。

 昨日の今日で用意されていたのでは不意を突くことが出来ない、これは全て天気予報が当たった所為だ。

「今日は甘いクッキーではないのですが、構いませんか?」

 赤ラベルと青ラベルを紙袋にしまい込み、付いて来るように手招きした。足元に注意しながら店員の背中を追った。乱立する像の一つにまだ昨日の白い像を見つけて売られていない事に安心した、すぐ近くに赤い鎧もあった。不思議な組み合わせに目を送りながら薄暗い店内を歩いた。昨日と同じはずなのに違うように見えた。昨日見えた物が今日見えない、昨日見えなかった物が今日見える。

 店員の背にやっと追いつき聞いた。

「甘いクッキーじゃなければ苦い団子ですか?」

 急に店員は振り返り人差し指を器用に振った。

「いえいえ、バターとドライフルーツたっぷりのパウンドケーキです」

 体重計が最近の天敵だったがバターもドライフルーツも大好きだった。どちらも入ったパウンドケーキを断る方がダイエットより体に悪いと決めた。今無理をして好物を諦めるのは簡単だが、それを我慢し続けるのは難しかったし、明日から頑張ればそれでいいと思っていた。

「お好きですか?」

 頷いた。



 真中がポックリと割れたパウンドケーキの外側は茶色いが中は卵色をして黄色かった。切るとドライフルーツやナッツが零れた。厚切りのパウンドケーキを二切れ皿に乗せ机に置いた。それにフォークが添えられた。まだインスタント紅茶は蒸らしていた。持ってきた赤ラベルの紅茶と青ラベルの紅茶だった。

 湯気から匂いを確かめ、ティーパックを揺らしながらカップの隣りに置いた。熱くなったカップを持ち上げ、火傷をしないように気をつけながら茶葉のエキスがにじみ出た液体を飲んだ。やはり赤ラベルが一番美味しいと感じられた、それはそれぞれの感じ方だろうが下の先から喉の奥まで苦いそれが美味かった。苦味が薄れない内にパウンドケーキを口に入れた。

 纏わりつくバターの油分が紅茶のそれに分解されていく、甘いドライフルーツが溶けだす。ナッツだけが抵抗して食感にアクセントを加えていた。最後に強烈なハーブの匂い、じわりじわりと口の中を支配していく。昨日のクッキーもそうだったがどうやらこのお菓子の作者はハーブが余程好きなのだろう。いや、余程ハーブに恨みがあるのかもしれない、だからハーブを根絶やしにしようと消化しているのかもしれない。これはどうやら想像の域を出ない。

「如何ですか?」

 自分は青ラベルを取り出して飲んでいた、まだケーキには手をつけていない。

 甘いケーキの美味しさに一つ笑った。

「それは良かった」

 その返事に店員は紅茶を一口飲んでからフォークを突き刺し、ボロボロとドラーフルーツを皿に零しながら口に押し込んだ。モゴモゴとした後に一気に紅茶を飲み干した。

「店員さんはお嫌いですか?」

 無理矢理食べたような気がして、問うてみた。

 二つ目の青ラベルのティーパックを開封しようとしていた手が止まった。眉間にしわを寄せて、それでも目と口は笑って悲しそうに答えた。

「パウンドケーキは嫌いじゃないんですよ、むしろ好きです。でもハーブが苦手なんですよ、毎日毎日……。飲み物に食べ物に、ポプリに、観葉植物に、店に、もう埋もれて涙が出そうですよ」

 自作のケーキでなければ誰の手作りだろうか、ハーブに恨みか愛情を抱いている者であるのは確かだ。ハーブ漬けで目に涙を溜めている店員が抵抗できない程の者だ、きっと年上の兄弟だ。そうでなければ両親だ。

「だからこの店は至る所に植物があるわけですか」

「えぇ所詮、店番の意見など届かないのですよ」

 店員は悲しげにそれでいてどこか安堵の声で愚痴をこぼした。愚痴は聞いてもらって初めて消化できる、一人で喋っても意味は無い、自分で自分に語っても辛いだけだ。日常の愚痴など聞きたくもないのだが、こんな面白い不思議な愚痴はたまに聞けば楽しかった。

 それは他人事だからだ。

 黙って出涸らしのティーパックをカップに戻し、湯を注いだ。



 新緑に支配されつつある店の状況などを聴きながら笑っていると、店員の顔が急に曇った。他の客が訪ねてきたのだろうか、不意撃ちを喰らった気がして少しばかり驚いたが店だからしょうがないと席を立とうとした。それを目の前の店員が制した、何事かと首を傾げていると古びた鐘の音がした。やはり客が来たのだ、昨日はそれで帰ったが今日はどうして止めるのだろうか不思議を言葉にしようとした時、店先の方から女の声が聞こえた。

「いらっしゃいませ」

 店番の店員はここにいる、では誰だろうか。


 店員は今一度、席を勧めた。座った。

 店先の方で誰かと誰かが何事かを話しているような声がした、その聞こえそうで聞こえない会話に親しみが滲んでいた。今日は他にも店番がいたようだった。店員がのんびりと構えている理由が分かった、今日は自由で暇なのだ。それは、まだパウンドケーキを齧りながら紅茶を飲んで他愛のない話を続けることが出来ることだ、それは暇な時間を楽しく齧れるのに十分な理由。

 楽しい時間を齧った代償は少しの間だけ悲しかった。



 古びた鐘の音がした時、どんな客だったか振り向いた。目を疑った。大きな包みがまず出て、その後ろを見たくなかったカボチャ男がスキップをしそうな勢いで出て行った。それを見ていたのだろう店員は口を押さえてむせかえり、乱暴に胸を叩いた。どうしたものが迷っていると涙が伝う顔で席を立ちあがった。

「まっ」

「待ってます」

 それを聞いて階段を飛び越し、暗がりの店の中を走って行った。何かが倒れるような音と、小さな悲鳴が聞こえた。見ても分からなかった。



 悲しい事実は店を出る時に知った。例の白い像が無くなっていた。どこかに移動したのかと目で探してみたが、赤い鎧が残されたと分かっただけだった。何故か物悲しそうに見えるのは気のせいかもしれない。

「先程売れてしまったんですよ」

 まだ赤い鼻を押さえながら店員は寂しそうに説明した。倒れた音は店員が転倒した音だった、売り物が倒れなかっただけ良いのだと涙目で悔しそうに呟いていた。どうやら他の店番がカボチャ男に像だけを売ってしまったようで、喧嘩をしていた声は届いていた。しかし残念ながらその頃皿に取り残されたナッツ類と格闘していたので見には行けなかった、他の店員を見てみたいとは思ったのだが食欲に知識欲は負けた。

 その日はがっかりして古い鐘の音を聞いた。

 どうしてあの像が売れてしまったのかと、どうして売ってしまった店員を見なかったのかと、どうしてパウンドケーキのナッツをこぼしてしまったのかと、どうしてナッツに夢中で紅茶が苦くなるまで放っておいてしまったのかと。

 深い後悔をした。



 その日の後悔も日常の時間に埋没していた頃、珍しく新聞の一面に政治関連以外の物が掲載されていた。

「カボチャのソテーにオーロラソースをかけても美味しくはなさそう」

 歯ブラシを口に咥えたまま言葉が零れ落ちた。

 その新聞を適当に折りたたんで鞄に詰め込んだ、それは途中で引っ掛かり抵抗をしたが鞄の留め具にものを言わせた。歯ブラシを口から出して、うがいをして、顔を洗って着替えた。

 髪を手櫛でとかして、鏡の前で顔を叩き家を出た。

 暇な時間を作る余裕もなく、曇り空の下蛙を探した。きっとこの気持ちに応えて蛙が紅茶の美味しい店までの最短ルートを案内してくれるに違いなかった。全く的外れなのは分かっていても、その時は動揺していた。

 カボチャ男はそれなりの華族だったらしく大々的にカラー写真が載っていた。

 どこからどう見ても平面写真だが、二度だけ見たあの印象深いカボチャ男に違いなかった。ニッカリと歯を見せて笑っていた、事件性は低い衰弱死だそうだ。

 誰が死んだというのが問題ではない、知っている人間が死んだというのが問題だった。それは昨日頭を撫でてやった犬がいなくなったというのと同じだった。悲しんでいいのか、笑っていいのか分からない。どんな顔をすればいいのか分からなかったが、今すぐにあの店員の妙な顔がどう変化するのか見たかったのかもしれない。

 他人を鏡にして自分の心境を訊ねてみたかったのかもしれない。



 蛙を見つける暇もなく、足早に地面ばかり見ているといつの間にか古い鐘の音を聞いていた。正気に戻るというか、我に返ったといった方が正しいのかもしれなかった。植物に汚染された店内に新聞は自然と溶け込んでいた。例の一面を詳しく載せた面が広げられていた。

 そこに店員の姿は無かった。目を泳がしてその姿を捜したが見つからず苦笑した。入口を開けてくれたのがその店員だとやっと頭で判断できた。それ程に動揺していた、頭が焼いたチーズみたいに蕩けていた。

「お暇ですか」

 背後からの言葉に黙って頷いた。

「えぇ暇ですよ」

 振り向いてやっと平素のリズムと感情を取り戻した気がした。どんな時も外面だけは必要なのだろうと人間社会で生きていて実感した。皆が皆仮面を被っている社会なんて仮面舞踏会と洒落たものではなく、汚くて醜い一団。その一員。時々見せる素顔すら作りものの仮面に思えたが、ここでは外してみたいと思った。思っただけで実行するはずもなかった。

「甘いクッキーでもなくナッツとバターたっぷりのパウンドケーキでもない。今朝はスコーンにしてみました」

「あぁまだ朝でしたね」



 外で見つけられなかった蛙は机の上で見つけられた。石の上で竹竿を持って魚を釣っている陶器の蛙、こんな所にいたから見つからないのだと顔をしかめた。それに気付いた店員が不思議そうにカップへ湯を注いでいた。理由を聞くと苦笑してポットから湯を零した。

 スコーンは薄味でジャムとよく合った。苺、リンゴ、ブルーベリー現代季節感が薄れ店頭にいつでも好きなジャムが並ぶ。元々ジャムが保存食で三か月程度は保つという事実は頭の片隅に追いやって、スコーンを上下に割り間に苺ジャムを塗りたくり噛んだ。甘酸っぱく苺のつぶつぶが残ったジャムだった。

「今朝は急いできましたね」

「カボチャのソテーにオーロラソースをかけても美味しくはなさそうだったので、今朝は御馳走になりにきました」

 またわけのわからない事をといった顔で笑っていた。それでも今日は何かが伝わったようで、新聞を畳んで一面のカラー写真を指示した。まだ笑っていた。

 黙って頷いた。

「いやですね。何故だか自分でも整理がつかないし、きっとこれからも出来ない。よく知りもしない相手なのに」

「そういうものですよ、貴方が感性豊かだから。一度知ってしまったら忘れるまでそうなるのですよ。でも人間は忘れる生き物だと言いますから」

 その言葉が欲しかったのかもしれない、どんなものでも構わないから混乱している理由が欲しかったのだと、しばらくして分かった。分かってどうにもならないとも理解した。

 温かい紅茶を口に含んでよく舌先で転がし飲みこんだ。



 一つの愛情とも言い難い感情を教えましょう、と店員はスコーンを食べながら言った。

 何が悪いではない。ただ他人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られて死んでしまえって事なんですよ。特に人に晒され時間の経った物はたまに奇妙な心が芽生える。人間が置いていくものもありますが、自発的に芽生えるものもあるんですよ。

 どうしてかね、あの白い像と赤い鎧を離しても戻ってくる。まだ同時に他の所に売れたことがないので分かりませんが、どちらかが呼んでいるのでしょうね。だから別々に売りたくないんですよ、戻ってきますから。短い人生の中での推測にしか過ぎないんですがね、店番を始めてからずっとそうなんですから、そうなんだと思っているんです。彼らは店一番の古株でずっと年寄りだから。

 古いものには色々な想像が出来る。夢や幻想を重ね合わせて面白可笑しく創造してしまうのも楽しいんですよ。ほんの少しだけ浪漫チックに見えはじめますから、毎日見ていても表情も違う風に見てしまう。

 もし自発的に芽生えた感情が他の長い時間を過ごしてきた物に向けられたっておかしくないじゃないですか、そうだとすればそれを恋と言わずなんと言うんですか?

「それは、変って言うんですよ」

「あっそうなりますか」

 期待していたのだろう答えに店員は照れて笑った。やっと胸につっかえていた物が吐き出せて、笑った。

 蛙も石の上で笑ったように見えた。



 スコーンを二つ食べて、紅茶を三杯飲んだ。店員の面白可笑しな店の商品の勝手な想像を聞いているだけで日は高く昇っていた、そういえば天気も良いのに布団も洗濯ものも干していない事に気付きお暇(いとま)した。店員が入り口のドアを開け見送ってくれた。

「またのご来店をお待ちしていますよ。勿論お茶だけでも」

「また、暇な時に」

おわり