「…なぁなぁ」


太陽が真上になろうとする頃合いになり立ち上がって、今日も何の変化もなかった糸を竿に巻き付けた。
私が歩き出せば、子供がついてきていた。
呆れて溜め息を吐き、振り返って子供を見詰めた。
自分の腰の高さ程度の身長の子供に目線を合わせるため片膝ををついて、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「…知らない者について行っては駄目だと習わなかなったのか?」


子供は嬉しそうににっこりと笑っていた。


「うん。今、習った」


笑みを向けられ戸惑いつつも、私は立ち上がり子供から離れて家に帰る。
それなのに、何故あの子供は私の後ろをついてくるのだろう。



いつの間にか、地面と同化している真っ白な大木に辿り着いていた。
首が痛い程に見上げても、天辺は見えずに壁のように空を区分している。
近付いてみると大木の麓には、ひっそりと真っ白な木造の一軒家が建っていた。
扉を開けて中に入れば、子供が入口で立ち止まりじっと私を見ていた。


「入れてほしいんですか?」


うん!と目を輝かせる子供に、溜め息を漏らして部屋の中に招いた。
ホットココアを出してやり、飲んだら出ていけとばかりにベッドに寝転がった。
睡魔が身体と瞼を重たくする。
目を閉じれば、真っ白な世界が仄暗い世界に切り替わる。
瞼を持ち上げたとしても、光は見えずただ果てしなく無限の暗闇が広がっていた。
これは夢幻だ。
そうと分かっているのに、身体は言うことを聞いてはくれない。
悲しくて寂しくて、頭の中がその想いに占領されていく。
目頭が熱くなって、ぼろぼろと涙が溢れていく感覚がする。


誰か…助けて…


いつもは、ずっとこのまま意識が途絶えて夕刻に目覚める。

今回もそのはずだった。


「…て…やく…おきて…起きろよ!!」


肩を掴まれ揺さぶられる感覚とキィィィンと甲高い音に、吐き気をもよおしそうな目眩を感じながら目覚めた。
暗い部屋の中でむすっと不機嫌そうな表情をした子供がいた。


「………」


耳の奥でばくばくと脈打つ音がして頭が鈍痛に苛まれる中、ぼーっと子供を見詰めれば、手を掴まれてベッドから起こされる。
どこにそんな力があるのかと、引っ張られて家の外に引きずり出された瞬間だった。


ぱぁぁん…


頭上で何かが弾けた音がして、のそりと見上げた先には赤く輝く光が放射状に空を彩っていた。


「…綺麗だな」

「初めて見たのか?」

「うん!」


私の手を握りしめて感嘆の言葉を漏らす子供を見れば、そうか…と呟くと丁度散り散りになった赤い光の一つが近くに落ちてきたため、その場所へと歩いた。
淡い光を灯したそれは、赤い拳大程の丸い木の実だった。
すっと腰を屈め木の実を拾い上げて、子供に差し出してやる。
木の実は子供の手に触れる寸前に、ぱぁんと跡形もなく弾けて空気に溶けた。


「あっ…消えちゃった…」


子供の驚いて呆気にとられた表情に、思わずくすくすと笑いを溢してしまう。


「なんだよ!笑うな!」

「あぁ、いや、ごめん…ふふ」


怒っているらしい子供の頭を軽く撫でてやり、子供の手を引いて歩き出した。
子供がこんなに暗くまでいては、家族が心配するだろうと集落へと向かうため、釣り堀を通っていた時だった。
抵抗もなくただきょとんとしている子供が、あっ!と声をあげた。
見てみれば、水面が輝いていた。
子供に引っ張られて近付けば輝く魚影が見えた。
子供に促されるのと私が釣り針を水面に落としたのが、ほぼ同時だった。
落としてすぐに竿がしなって、完全に引っ掛かったことを知らせる。
後は引き上げてやるだけ、それなのに待ちに焦がれた瞬間に腕は震えて、巧く引き上げてやれない。
焦る心に手のひらがびっしょりと汗で濡れていることに気付いた時、手の中から感覚が消える。
息が止まって、何もかもが停止したように見えた。
手から抜ける竿を止めることだけが出来ずに、悲鳴すらあげられなかった。

こんなに呆気ないものなのかと、次はあるのだろうかと…。