クエスト名:神の吐息
2.竜を討て
脇をしめ、硬直した身体が宙を舞う。ほんの少しの脱力、空から雲が落ちてくる感覚に眩暈。それでもその眼はしっかりと開かれ、緑色のそれを見ていた。
仔牛と同じくらいの大きさをし、短い角と牙、鋭い爪と尻尾、それに小さな翼が生えている。羽の生えたトカゲのような姿形をしているが、大きさも凶暴さも力もトカゲの比ではない。現に鎧を纏った女、パステルが宙を舞った。
宙で身を捻り受け身の態勢をとるが自身の重さだけでなく、鎧と手にした剣、盾とではまともに地面へ着地できるはずがなかった。しかし、地面に激突する寸前で重さを失ったように落下は遅くなり、空気に抱き止められたようにゆっくりと尻餅をつき立ち上がった。
急いでそこに駆け寄った。
「パステル無事ですね」
呼びかけると、パステルは自身を吹き飛ばしたものから目を離さずに汗を拭い、頷いた。疲労はあるが焦りの色は見られなかった。息もまだ正常の範囲、武器を持てない程の震えもない。
再び盾を構え直し相手の出方を伺う。これを何度繰り返したか、パステルは熱い体とは反対に冷めた頭で考えているようだった。
パステルの視線の先には周りの緑に適応して緑色をした羽の巨大なトカゲがいる。俗に竜と呼ばれるこの生物は生態系の頂点に位置している。金属製の盾さえも簡単に溶かしてしまう高熱の息を吐き出し、爪と牙は鎧を中身ごと容易に引き裂いてしまう。尻尾の一撃に当たれば内臓は破裂し、骨は折れて包む肉から解放される。更にその身を守る鱗は固く、生半可な刃物では傷一つ付けるどころか、折れてしまう。竜は地上において最強の生物だ。
しかし、それは成竜の話だ。目の前にいる緑色の竜はまだ小さく雄牛程の大きさしかない幼生だ。既にパステルから何本もの弓矢を射かけられ、その身体に残っている。竜とはいえ幼生はまだまだ弱い存在だ。それでも何の準備もない通りすがりの冒険者二人が簡単に倒せる相手ではなかった。
「あと、どれだけ撃てる?」
じりじりと竜の幼生へ近寄りながら、パステルの問いに即答できずに眉間にシワを寄せ、眼鏡を押し上げながら自分の体に聞いてみた。肉体疲労から直ぐに答えが出せずにいると、もう一度静かに聞かれた。
「ゼラニウム、さっさと答えないとアンタを盾にするわよ?」
パステルは苛立っていた、その証拠に自分の名前を呼んだ。
付き合いが長いだけにいつも自分の事は「眼鏡」とだけ呼ぶ、名前を呼ぶ時は決まって腹が立っている時、焦っている時だ。
実際、竜の幼生に持てる弓矢を撃ちつくし、残る攻撃方法である接近戦を始めて長時間が経っている。緊張が切れてしまいそうな苛立ちは肌で感じられた。
しかし、今この竜の幼生を逃がし、成竜にまで成長されてしまえば、後々に誰かが骨を折らなければいけないのは分かっていた。本当に骨が折れるだけならまだ良い方だ、家畜が襲われ町や村に大きな被害が出るかもしれない。
だが、それは建前だ。幼生とはいえ竜。その角も牙も鱗も肉も、何もかもが高価な取引対象であり貴重な物に違いなかった。
金銭にすればしばらく生活には困らないし、自分の持つ武器にしても良いだろう。殺害して持ち帰れるなら、これ程美味い話はない。準備は無くとも時間をかければ倒せると、欲に目がくらんだ結果がこの長期戦だった。
「補助なら少し。もう効果はありませんが」
答えたのは自分が使える魔法の残量だった。
魔法が何たるかを問われると容易に説明できる者は少ない、実際その恩恵を得て利用していても正体を知らない事は多い。知らなくても利用できる。自分の身体の中に何が蓄えられ、何が放出されているのか感覚的にしか分からない、それを説明できなくても経験としてどれだけ利用できるのかは判る。パステルに助力が出来る魔法、自分が持つ術は既に使い尽していた。
仲間の助けとなる術の他に、相手を攻撃する術がある。竜の幼生に向けてその術を使用することもできたが、効果があるとは思えなかった。
竜の恐ろしい所は肉体的強さだけではない。知能の高い竜は魔法の効果を薄れさせたり打ち消したりもする。しかも自分が得意な術は炎を出現させる術、それは竜に対して殆ど意味が無かった。高熱の息を吐き出すだけあり炎に対してかなりの耐性がある。肉体的に弱く、火の魔法に長けた自分ではパステルの補助をする以外になかった。
「ムカつく男ね、馬鹿眼鏡」
「事実ですよ」
パステルは再び剣を振り上げ竜の幼生と対峙する。その後ろから、いつでも術が使えるように準備をしているしかない自分。冷静に苛立ちを覚えていた。
息を乱さぬようにパステルは剣を構え、爛々と光るその目から視線を外さず、竜の全身にも気を配り、隙を窺いつつ突きを繰り出す。
関節の柔らかい部分、既に傷の深い首の部分、鼻や鋭い目を狙う。知能が高いだけありフェイントが有効だった。何度かのフェイントを入れながら少しずつ確実に傷を増やしていく。
傷が増えるのはパステルの盾と剣も同じだが、自分の術により一時的に強度が上がっていた。それでも深い爪痕が何本も刻まれている。
両手の関節に攻撃を散らした直後、狙い澄ました鋭い突きが眉間に当たる。その一撃は皮を破り、肉を裂き、骨にまで達した。
一瞬目を閉じ、怯んだ竜の魔法耐性が薄れた。この瞬間を待っていた自分の睡眠の術によって、もう二度と竜の幼生は目を開ける事はなかった。
竜の幼生が眠ったのを確かめる為、パステルは剣の先で頭を揺らした。何の抵抗もなく揺れた頭に蹴りを入れ、首の傷に何度も剣を突き立てて肉を切断した。骨まで切断する事はできなかったが竜の幼生が二度と目覚めないようにする事はできた。
盾を地面に置くなりパステルは肩の力を抜いた。その場へ膝をつき、帰り血を浴びた体を地面に転がした。
疲れきって転がっているパステルへ荷物から飲み物を出して渡すと、パステルは上体を起こした。パステルは飲み物を一口飲み、いくらかを布に染み込ませ身体を冷やし、皮膚から緊張を解こうとしている。
一休みしているパステルに代わりに自分が竜の幼生の処理にかかった。それでも道具は少なく、長い時間をかけていられなかった。
本格的に流れ出した血は周りに生物の死を知らせ、下手をすれば他の竜を呼びかねない。時間も体力もなく殆ど処理する事が出来ず、雨具の外套に死体を包んで乗って来た馬に乗せた。馬はギリギリ目が届く範囲に繋いでおいたが、よく逃げ出さなかったものだと感心した。
気休め程度に、地面に残った血に土をかけ、近くにあった匂いの強い草を潰しておいた。
竜の幼生の次に血の匂いを放っているパステルは鎧に付いた血を自分に拭かせると、血で濡れている剣を振って鞘に収めた。次いで剣にすがるように立ち上がり、自分の髪の毛を掴んで蕩けるような視線と言葉を投げつけてくる。
「疲れた、お腹減った、眠い」
どこか最寄りの町まで馬を走らせようと思っていた矢先だった。自分の思惑をパステルは打ち消し、重たい体でもたれかかろうとしてきた。
「仕方ないですね。でも、少し移動しますよ。流石にこれだけ血の流れた場所で野宿なんて危険ですからね」
言い聞かせるように説明するとパステルは小さく頷き、竜の幼生が乗っていない馬へとしがみ付いた。先程までと打って変わり、足取りすら怪しい。完全ではないにしろ緊張の糸が切れているのが分かった。
パステルを馬の上へ押し上げ、自分は竜の幼生と一緒に馬へ乗った。
本来、鬱蒼と木々の茂る山の中を馬で走り抜けるものではない。しかも苔の生えた岩があるような場所では尚更だ。岩が在ると分かっていても怪我をしてしまう可能性がある、それでも自分の足を使いたくなければ馬の足を使わなければならない。
朦朧としてきた意識の中、落馬の恐れを感じながら移動していると、それ程経たない内に丁度良い場所を見つけた。
半分意識の無いパステルに声を掛ける。その場で野宿をする旨を伝えると、パステルは落ちるように馬から降りて地面に転がった。
「もー疲れた。ご飯が出来る前に起こしたら殴るわ」
パステルの言い方に思わず失笑してしまった。
「それはどうも」
溜め息をついて夕食と野宿の荷解きを一人で始めた。
パステルが次に目を覚ました時、辺りに奇妙な匂いが漂っていた。
「くっさい」
開口一番、しかめ面のパステルは吐き出すように言った。
それもそうだ、自分がそういった匂いの香を焚いたからだ。動物が嫌がる匂いのする香は人間も嫌がる。生物として当然の反応だ。
「おなかすいたー。お腹すいて死にそう」
今まで今日以上に飢えた状態もあったのに、パステルは簡単に死を口にする。心底今は死にそうなほど空腹なのだろう。考えるまでも無く、今日は一度も食事をしていない。
「出来てますよ。と言っても適当にある物を煮ただけですが」
先程死にそうだと言ったパステルは素早く起き上がり、火に掛けている鍋に飛び付いた。準備していた金属の椀に鍋の中身を注ぐと、パステルはスプーンも使わずに飲み込み始めた。それを一気に飲み干すと大きく息を吐いた。
持ったままの椀へ更に注いでやると、今度はスプーンを要求した。スプーンを渡すと、力強く握りしめて椀の中に突っ込んだ。自分も黙ってそれに続いた。
同じく今日初めての食事。しかも、自分はこのスープもどきと獣避けの香の匂いの中で調理をしていただけに吐き気と食欲の間を彷徨っていて、とてつもなく辛かった。顔から鼻がもげてしまうかと思う程に。
二杯目を飲み終わり、唇を舌で舐めるパステルは視線だけで何かを探し始めた。その何かの正体は分かっていた。
「肉なら焼いてますよ」
独特の匂いがしているのだが、香の匂いで殆ど分からなかったようだ。肉を巻き付けて火にかざしている棒を鍋の陰から出してやるとパステルは目を輝かせた。探している物は予想通りだったようだ。
「分かってるじゃない」
不器用に削がれ、棒に巻かれた肉を手渡すとパステルは塩と胡椒を要求し、振りかけるなり齧りついた。焼き始めた時間から考えても未だ生焼けだがパステルは美味そうに食い千切り、再び火にかざした。自分用に用意していた同じ肉を巻いた棒を出して齧りついた。
生臭い、しかも喉の奥を焼くような熱気の肉は中々噛み切れない。それでも腕を伸ばして肉の弾力を奪い、歯で何度も繊維を切った。やっと口の中に収まった肉は固いが美味かった。
パステルの肉と同じように再び火にかざし、更に焼いていく。隣に置くと大きさが比較出来る。自分の肉の方が少ない。だがこの程度が丁度良い配分だ。
「鮮度が良いと特に美味しいわね。これで私の可愛い顔も更に可愛くなっちゃうわ」
「竜の肉にそんな効果はありません。と、自分で言うほど可愛くないですよ」
あまりにもパステルが馬鹿げた非現実的な妄想を喋り始めたので、つい本音が口から零れた。
いつも正直過ぎる自分に後悔するのだが、今がそれだった。
籠手をつけたままのパステルの拳が見事に自分の頬へ突きたてられた。
手加減されているはずだが、目から火花が散る程に痛かった。明らかに煌めき始めた空の星は数を増やし、夜が降ってきた。同時に視界がぼやけ、眼鏡がずれた事が分かった。
熱を持った頬を押さえて眼鏡を直すと、鮮明になった視界でパステルが両手で顔を隠して泣き真似をしていた。
「あぁ! 私って不幸だわ。こんな駄目な眼鏡男が相棒だなんて可哀想過ぎるわ」
内心、自分の方が可哀想だと思ったが頬が痛くて喋れなかった。歯が何本か取れているのではないかと思うほどの痛みが顔の半分に広がる。口に指を入れて確かめるが、一本も抜けていなかった。
そんな自分を見て、パステルは泣き真似を止めた。
「少しは同情しなさいよ」
「自分の方が可哀想なのに、どうやって同情しろって言うんですか」
言った後で後悔した。手元にあった鍋の蓋を素早く持ち上げ、その陰に頭を引っ込めた。蓋を持つ両手に衝撃が走ったが、蓋は割れずパステルの拳に耐えた。流石に今夜二度目の拳は勘弁願いたかった。
鍋の蓋からそっと顔を出すと、口を尖らせたパステルが肉を持ち上げている所だった。怒りが食欲に負けたらしい。
鍋の蓋を下ろし、自分も表面が焼けた肉に塩と胡椒をかけて再び歯を立てた。
先程よりも焼けた肉は生臭さも減り、食べやすくなっていた。スープと肉を交互に噛みしめていると、本格的に星が煌めき始めた。
獣避けの香を焚いているとはいえ夜が危険な事に変わりは無い。昼は動かない獣や生物が活動を始め、陽の光を嫌う者達が徘徊する時間だ。その為に夜は交互に見張りに起きている。体力勝負だ。
「この辺りは大丈夫なんでしょうね。私、疲れてるんだから」
肉を口に含みながらパステルは器用に喋る。自分がやれば肉を零してしまいそうな芸当を自然にやってのける、尊敬に値するがやってみようとは思わない。
「大丈夫だと思いますよ。近くに墓地もありませんから、それに周辺で戦争も暫くやってないですから新鮮な死体も無いでしょう」
墓地があると副葬品を狙って墓を掘る死体の冒涜者、死体に魔法をかけて操る魂の冒涜者などがいる。そうでなくとも墓地は盗賊や死霊の溜まり場になりやすい。戦争直後での戦場も死体が新鮮か腐敗しているかの違いしかない。
自分が生まれる一昔前、一時期は魔王と名乗る悪魔が複数存在し、国々が一致団結して悪魔と戦争した頃もあったようだ。しかし、今は国々が領土を奪い合う戦争ばかりで昔の団結力は無い。
戦争のお蔭で剣や魔法が使える傭兵の募集は多く、冒険者の数は減って好敵手が少ない。自分達には有難い限りだ。
だから自分達のような遺跡漁りや竜の幼生の死体を売る生活でも成り立っている。
遺跡漁りで時々出会う悪魔、その死体も竜の幼生同様に売買の対象だ。しかも、かなり高額。高額であるだけに真実命を賭けて得られる物だ。魔王が乱立していた時代ほど悪魔の数がいなくなったのと同時にその体は値段が高騰、それは今も続いている。元々戦争の対策研究用に体が求められていたのだが、現在はその生態も研究対象になっている。
生捕なら死体よりも数倍高値なのだが、生きたまま捕らえるなど殆ど出来ないのがその理由だ。
悪魔が一体なんなのか、魔法同様に分かっている事は少ない。
肉体を持つ者、持たぬ者。願いを叶えると同時に対価を要求する者、ただ一方的な暴力を与える者。竜もその悪魔の内に入れるべきか議論の対象になっている。
ただ一つ分かっている事は、肉体を持つ者は下位悪魔と呼ばれ、肉体を持たぬ者は上位悪魔と呼ばれている。上位悪魔は下位悪魔より高額だ。
残念ながら竜の幼生には肉体があり、尚且つ死体だ。
溜め息を吐きながら、荷物に入れておいた地図を引っ張り出して広げた。
自分達の現在地に丸い石を置き、通過した町に小石を置いた。
「墓地も無い代わりに町も少し遠いですね。でも、この路を行けば大きな街に出られます。ここならさっき手に入れた竜の幼生も売買できるでしょう、新しい鎧にでもしますか?」
自分の問いかけにパステルは腕を組んで考え込んだ。肉を口に咥えたまま。
「新しい鎧ね。でも、今のこれ着心地が良いし」
パステルは鎧の胸部分を叩いて見せた。金属と金属が当たって音を立てる。
「それに、さっきのソイツで剣が一本曲がってる。やってみるけど多分修理するより買った方が安くつくし、修理の前に折れるかもしれない。盾だってかなり傷だらけよ」
剣と盾の相場を計算して、竜の幼生とを頭の中で秤に掛ける。竜の幼生が高値で売れたとしてもお釣りがくるかどうか分からない。
竜の幼生は仔牛程度の大きさで傷も多い、その上に肉の一部を削り取っている。その上、鮮度が落ちて腐敗が始まれば価値は格段に落ちる。
パステルが持っている剣も盾も安くはない。未だ剣は代わりがあるが盾は予備を持っていない。竜の幼生の交渉に成功しなければ損益の方が多い。手持ちの金銭も盾を買い換えれば底が見える。
悩ましい相談だった。
***
事態が悪化したのは翌日だった。
疲弊した体に鞭打ち、目的の路に出て暫く馬を走らせている途中、路の向こうから来る商人の馬車があった。
商人は馬で移動している自分達へ愛想良く声を掛け、耳を疑いたくなるような話をした。
「冗談じゃないわ。山崩れで路が無いですって」
パステルは馬から降りると商人に掴みかかった。商人は小さく何度も頷いた。
「本当、本当。わしだって困っとるんだ、嘘なんかつくかい。この路は前まで安全に街まで行き来が出来る交易路だったんだが、最近は厄介な連中が出始めた上に山崩れで完全に路が塞がっちまったんだよ」
「つかぬことをお伺いしますが」
今にも商人を絞め殺しかねないパステルを止め、質問をした。
「迂回路はありませんか。もしくは路でなくとも通れる所はありませんか。貴方がお一人では通れないのでしたら我々もご一緒します。腕は立つんですよ」
もしかしたら単独では越えられない路があるから自分達に声を掛けてきたのでは、そう思っていたが商人は否定した。
「前はあったんだ。しかし厄介な連中があんまりにも多くて、しかも悪魔まで出始めたらしい。いくらあんた等の腕が立つって言われても、そこまで信用できない」
商人はそう言って地図を広げた。自分達が持っている地図よりも現在の地域が事細かに書かれている、良い地図だ。
「ここが今の場所。この先、そうこの一帯で山崩れが起きたんだ。今の迂回路は山をぐるりと回り込むこの路だけだ」
示された迂回路は予定路の倍以上の距離があった。しかも交易路ではないから、整備された路でないかもしれない。それを考えると日数は予定を大幅に過ぎてしまう。竜の幼生が腐り始める可能性が高い。
予想外の事に血の気が引いた。
竜の幼生を倒すのに消費した道具を換算すると、竜の幼生を腐らせるわけにはいかない。
「だから、あんた等に良い事を教えてやろう。これから予定外の日数がかかる、食料にお困りだ。図星だ。ここで会ったのも何かの縁このわしが格安で最高の食材を売ってやろう」
言うなり、商人は馬車から保存のきく食料を取り出して並べ始めた。
見れば確かに美味しそうだったが、最高と呼ぶ事はできない品だった。しかし、地域の特産品と呼ぶには丁度良い品だった。自分達を呼び止めたのはこの為だ。流石は商人だ、転んでもただで起きない。
「じゃあ、この黄色いチーズとハムと……」
パステルが適当に食材を選び値段を聞いた。すると足元を見られ、町での適正価格より割増しの値を示された。ニヤニヤ笑う商人を殴りたくなったが、情報料だと思い、持っていた地図を付けるという条件で財布を見せた。
暫く考えた後、商人は渋々といった様子で承諾した。
商品を受け取り、商人に別れを告げ、素早く乗せて馬を走らせる。馬の向きを変えて、馬に乗ったまま地図を広げると、最寄りの町を確認出来た。持っていた地図には載っていなかった町だ。
竜や悪魔の死体を売買するには買い手が必要だ。小さな町では需要が無い。それどころか、おぞましいと持って入ることすら出来ない時もある。買い手がいる大きな街まで竜の幼生を腐らせず運ぶ必要がある、それには加工する場所が問題だ。
一度死体を防腐処理が出来、尚且つ血を安全に洗い流せる場所だ。少なくとも町の中でやらなければ危険だ。
「パステル、この先に町があります。まずそこで竜の幼生を処理しましょう」
「分かったわ。今夜こそふかふかのベッドで寝るんだから、分かってるわね」
疲労の為にそれ以上無駄口も叩けず、昼食もろくに口に出来ず走った。
何度か馬の休憩をとると、町に着いた時には日が傾いており、町全体を朱に染めていた。同じく朱に染まった門兵に事情を話すと、竜の幼生を預ける事を条件に町の中に入る許可が出た。
竜の幼生を見るなり、門兵の顔が蒼くなったことは何故だか覚えている。
乗ってきた馬と外套ごと竜の幼生を門兵に預けた後、疲れ切った体を引き摺って宿屋を探しだし、ベッドになだれ込んだ。
眠りに身を任せるのに時間はかからなかった。
翌朝、目覚めた時の身体の重さと言えば、まるで全身が鉛になってしまったようだった。パステルが引っぺがすように脱いだ鎧は床に散らばり、鈍く朝日を反射していた。欲望に任せてもう一度眠りに就こうと布団をかぶり直した。
しかし、激しいノックがそれを許してはくれなかった。
鈍痛のする重たい頭をおさえ、眼鏡を掛けた。床の鎧を踏まないようにしながら、足音を荒げてドアノブを回した。
「おはようございます。もう少し寝かしてくれると助かったんですがね」
眼鏡の位置を直しながら睨みつける。そこに昨日見た覚えのあるような、ないような女がいた。無表情で、冷たい瞳の色をしている。
素早く表情を変え、乱れた髪をかき上げて整えた。相手の左側の耳に光る物があるかを見るが、丁度髪に隠れて確認できない。そこにピアスがないと仮定して更に言葉を続ける。
「それとも貴女がもう一眠りさせてくれるんですか?」
女はやっと表情を変え、眉を跳ね上げた。
同時に、背後から軽やかな足音と空を切る音がした。
反射的に頭を抱え、屈む。何かが頭上を通過した音がした後、正面の壁に鋭い物の突き刺さる音がした。
頭を上げると、抜き身の剣が壁に深々と突き刺さっていた。自分の頭があった辺りだ。
反射的に回避できたことは単なる幸運だろうか。いや、違う、今までの経験が活かされているだけだ。幸運はもっと他の時と場合に発動されるべき代物だ。
顔のすぐ横を剣が通っただろう女は、動揺した表情で引き下げられていた。
女の胴には籠手を嵌めた男の腕があった。男は女を抱き寄せる形で安全な場所まで女を後退させている。扉に隠れて見えていなかったが、女の連れに男がいたのだ。
失敗した。残念がる前に壁に影が射した。自分はそれに振り返ってしまった。
今度は今までの経験が活かされなかった。
陽光を背に、眠っていたはずのパステルが跳躍していた。鎧を脱いで身軽になったその身体は自分の身体に飛び乗り、床へと押し倒した。正面からパステルを受け止める形となり、寝不足で最高の笑みを浮かべる顔を鼻先に見ることとなった。
それは本当に笑みと言えただろうか。その時の自分には笑顔に見えたのだから仕方がない。自分の頭はまだ寝ぼけていたらしい。
「そんなに眠たいなら、永眠していいのよ。ゼラニウム」
拳を握り、馬乗りの状態でパステルは自分を殴った。右、左と左右の拳で交互に自分を殺さない程度に殴り続ける。
その様子を黙って見ていた女と、男は呆れ顔で重たい口を開いた。
「食堂の方で待っている、用が済み次第来てほしい」
言うだけ云うと、男は返事も待たずに足早に立ち去った。足音が二つ遠ざかっていくと同時に自分の意識も遠ざかっていくようだった。
程良い汗をかいてパステルが満足したのはそれから少ししてからだった、その時に自分は違う世界に旅立とうかと思った。
疲れと痛みが抜けきらない身体に鞭打って、パステルを体の上からどけようと、少ない気力を無理矢理振り絞ったが、たかが知れていた。
最後に鼻先を摘んでから、パステルはどいてくれた。
身支度をしようとしたが、部屋には顔を洗うための水も用意されておらず、適当な布もなかった。
荷物と重たい体を引きずって食堂があるだろう場所に向かう。どこでも大きな建物は造りが似ており、誰にも訊ねずに辿りつけた。険悪な寝起き顔で誰も近づかなかったというのもある。
「顔を洗う時間くらいくれるでしょ? こんな顔してこれ以上出歩けないわよ」
呼び出した男女に最悪の笑顔を投げかけて、パステルはそのまま立ち上がった。自分もそれに続いた。
井戸から水を汲み上げ、頭に掛けたときやっと目覚めた気がした。
髪の毛まで濡れた格好で戻ると既に朝食が準備されていた。焼きたてのパンにバター、大量のベーコンと炒り卵の香りが鼻孔をくすぐった。
「食べながら話そう」
男の意見にこれ以上ないほど賛成した。