クエスト名:神の吐息

3.食事は基本



 最初は無理に胃袋に詰め込まず、甘い飲み物を口にする。下手に脂の乗ったものを押し込むと、胃が拒絶して吐き出してしまう恐れがある、激しい運動の後は全身が疲れきっているからだ。

 飲み物やスープなどで身体をいたわりつつ、様子を見ながらパンを毟って食べる。それが終われば、やっと本格的に食事が出来る。

 だが、パステルは気にした様子もなく、最初から塩と胡椒の利いたベーコンに炒り卵を巻いて頬張っている。自分よりも体力を消費しており、いつもこんな肉体労働作業を繰り返しているのはパステルだ。比べて自分は調べ物や頭脳活用作業が主だったもの、基礎的な体力が違うのだ。

 いや、根本的に性格が違うだけだ。自分が同じ事をすれば、確実に食べ物を受け付けられずに吐き出してしまう。

「それほど焦らなくて構わない、食事は基本だからな」

 男はそう言いつつパンにバターを塗り込み、その上に大量のジャムを乗せて食べた。唇に付いたジャムを舌先で舐め取り、実に美味そうに食べる。

「単に空腹なだけです。昨日は疲れて昼食も夕食も摂っていなかったもので」

 喋るより食べる方が忙しいパステルに代わり自分が説明するが、こうして喋る時間さえも惜しい。自分とて同じ時間緊張を強いられ、同じく夕食をとっていないのだから。

「それでも急に押し込むのはお勧めしないわ」

 そこで女が口を利いた。スープをすくってゆったりと食事をする、こちらとは対照的で嫌味ったらしく見えるのは未だ精神的にも余裕がないからだ。だから急いで心を落ち着かせる為にベーコンを頬張った。言葉と一緒に噛んだ肉を飲み込み、更にスープを流し込む。

 一息つく。

 そこから本格的に食事を始めるために給仕を呼んだ。

「サラダとパスタ、適当なフルーツの盛り合わせを追加してください」

 パステルが目線で「よく分かってるじゃない」と語り、目の前の男は口にしたパンからジャムを落とした。それを黙って女が拭い取る。

 そして女が注文を四人分に増やした時、男はパンを落とした。その様子が可笑しくて、飲んでいたスープを吹き出してしまうところだった。どうやら緊張が完全にとけておらず、頭の中は混乱しているらしい。

 最初に用意されていた炒り卵とベーコンがほとんどなくなった所でサラダが、次に湯気の立つパスタが運ばれてきた。刻み玉葱たっぷりのソースが適当に千切っただけの生野菜によく絡んでいるが、フォークからは逃げていく。逆に、茸と魚肉のパスタはフォークと相性が良く、具材が零れて皿に残ることなく腹に収まった。

 最後に残ったフルーツを摘みながら、唖然とする男の顔を眺めてみる。要件は食事をしながら聞けるはずだったのだが、あまりの暴飲暴食ぶりを目の当たりにして忘れてしまっていたようだ。女はそれに気付いて、横目で男に訴えかけている様子だったが自身も食事の手を休めなかったから同罪だろう。

「ところで、要件はなんですか?」

 胃袋を満たし改めて聞き直すと、男はやっと自失呆然としていたのに気付いたらしく、口元を手の甲で拭い、話を始めた。

「昨日、門兵に竜の幼生を預けたのは君達だろう。その腕を見込んで話がある」

 僅かに眉をひそめてしまった。

 確かに竜を倒すといえばかなり腕の立つ者だが、預けたのは竜の幼生であってまだ弱く自分達のような準備の無い冒険者でも倒せるような存在だ。大きな街には自分達程度の者なら幾らか転がっているはずだ。

 男は鎧を身に纏い、女は金属の長い棒の先に赤い宝石が付いた杖を持っている。男女の恰好からして同業者の冒険者もしくは傭兵だろう。仲間を探しているのならもっと大きな街で探すはずだ。それともこの町は想像以上に大きな発展している町なのだろうか。

 それに、この男女が自分達に何を求めているのか分からない。見た所、魔法使いと戦士又はそれに類する者、自分達と同じ組み合わせだ。

 パステルは魔法を使えない戦士、自分は魔法しか使えない魔法使い。戦士と魔法使いだけの組み合わせの危険性も十分に承知しているはずだ。

 戦士は剣や斧などの武器を手に戦う者を指すが、魔法に関しては全くの素人だ。魔法に関しても熟達している者は魔法剣士などと呼ばれる。

 魔法使いは何らかの力を用いて術を使う。それを利用するには集中力と知識と、それを操る技術が必要で、術を使おうとすれば、殆ど無防備な状態になることが致命的だ。それを補っても余りある術が魔法使いの存在意義でもある。

 魔法使いと戦士が組んだからといって魔法剣士並の戦力になるとは限らない。個人の腕に依るのだ。そして、この両者のどうしようもない弱点は長期戦に持ち込まれると傷を癒す手段が少ない。どこで何が起こるかわからない中で怪我をしない保証は無い。傷薬などは必ず持ち合わせるが、それにも限界がある。

 傷薬以外で傷を癒す手段は少なく、その少ない手段が神の加護だ。

 お伽噺のような、神代の時代に起こった何度かの戦争で生き残った神が自分を誇示しようと、信徒に与えるものが加護だ。

 神に仕える僧侶などが祈りを捧げると、その祈りに応じ神が超自然的に傷を即座に癒してしまうのだ。長期の旅や戦闘では必ずといって良い程にこの奇跡にすがる。だが、自分達にはそんな心優しい僧侶の仲間などいない。

 どうやら自分達と僧侶達は相性が悪いらしく、一時的に手伝ってくれても長く一緒には居てくれない。神に仕えるだけあって特定の場所から離れたがらないのもその一因だが、事実他の冒険者に僧侶がいるのだから納得ができない。

 目の前の男女にも同じ事が言えるはずだ。

 出来るだけ戦闘は早く終わらせ、長旅をせずに町から近くの町へと渡り歩く。一番安全にできる冒険だ。早く終わらせられなかったが為に、一昨日からかなり疲弊している。

 あれは見積もりが甘かった、今もまだ後悔している。

「一応聞かせてもらうわ」

 自分が考え事をしている間にパステルが甘いジュースを飲み干して応じた。

 美味しい話はどこに転がっているとも知れない、それと同時に危険な話もどこに漂っているのか分からない。それを見極めるのには苦労する。



 男はパステルと自分を見比べた後、女に視線を送る。女は頷き、促した。

「実は、君達に我々と同じ依頼を受けてもらいたい。この町の町長からの依頼だが、我々だけでは心許ない。同じ冒険者と見込んでの頼みだ」

 パステルが首を振り、何度も頷く。実力のある冒険者として見られた事が余程嬉しかったのか、口元は歪な笑顔を浮かべている。

「受けるかどうかは依頼の内容を聞いてからですね」

 嬉しさのあまり、気の大きくなったパステルが依頼内容も聞かずに答える前に、自分が先に内容を訊ねておく。

 疲労困憊の自分達では役に立てない依頼を受ける必要はない。特に、休養と竜の幼生を解体の必要がある今は。

「君達はこの辺りで奇妙な音を聞いた覚えはないか?」

 男の問いにパステルと自分は首を横に振り否定した。

 そもそも、この地域に来たのは予定外で、今まで訪れた事もない。昨日、目的地に行けず、疲れきった体で辿り着いた町なのだ、覚えも何もありはしない。

 男は頷き、続けた。

「この地域ではある時期になると奇妙な音がすると言われている。その音、神の吐息と呼ばれているその音はほとんどの人間には聞こえず、子供や選ばれた者だけが耳にしているらしい。毎年聞こえていたその音には退魔の効果があるらしく、この地域では君達が持ち帰ったような幼竜はおろか、俗に言う悪しき物は近寄れなかった。だからここは冒険者などという野蛮な連中がうろつかず、安全な商業と聖職者の拠点として栄えていたわけなんだが」

 男が口をつぐんだ。その理由は簡単に分かった。

 奇妙な音、退魔の効果がある音が消えて、俗に言う悪しき物がはびこり始めたといった所だろう。

 実際この町に来る道中に何匹かはパステルの剣の露と消え、数だけが異常に多い雑魚は自分の魔法で消し飛んだ。精神的な疲労も含めて、この地域は他に比べて多いと感じていたのはその所為かもしれない。

 退魔の効果は一時的に消えているだけなのか、それとも完全に消されたのか大きな問題だ。通りすがりの自分達には関係ないが、その土地に住む者にはとても重要な事だ。町を守る為の最低限の防衛手段は持っているだろうが、どれ程のものだろうか。

「それで? 音が消えたから、野蛮な冒険者に頼もうっていうわけね?」

 野蛮な冒険者、をやたらと強調して、パステルは男にフォークを向けながら返した。

「まったくもってその通りだ。我々も、偶然、この時期に通りかかってしまった冒険者其の一と其の二だ」

 男の言葉にも棘があった。

 不運な冒険者其の二は苛立った様子で言葉を吐きだした。

「この町の繁栄を支える主な路が山崩れで通行禁止にされてしまって、しょうがなくこの町に来たら依頼されてしまったの。私達もこの町に来たのは初めて。本当なら今頃は通行禁止にされてしまった路を通って海から南の大陸に渡っているはずだったのに」

 女も盛大に溜め息をついた。まるで当てつけのようだ、もしかしたら依頼人が近くにいるのかもしれない。

「私達も山崩れで通れなくってこの町に来た口よ」

 パステルが自分に対する憐みの言葉を口にした。この偶然の一致をただの偶然と読んでみせる、自分は神を信じていない。例え、庶民の生活から国までを支える基盤の一つだとしても、見た事も無い神を信じない。神の名の下に集められる、信者からの多大な金品は信じるが。

「つまり、冒険者其の一と其の二さんは、音を取り戻して欲しいと依頼された訳ですね? それにはもう少し人数が欲しい。そこで偶然にも昨日、竜の幼生の死体を運びこんできた野蛮な冒険者其の三と其の四がやって来た。そいつらと手を組んで依頼をこなそう、といった所ですか」

 状況をまとめると男は笑って頷いた。そして棘を含んだ言葉を付け加えてくれた。

「因みに言うとだ、この町の聖職者は教会を離れられず手伝ってくれないそうだ。なんせ僧侶様方は揃って食器を磨くのに忙しいし、ガリア司祭様は中央にお伺いをしに行ったまま戻って来られていない。町の衛兵は剣の錆をとっていらっしゃる」

 自分達は怖くて何もできないから、偶然通りかかった冒険者に押し付けたようにしか聞こえない言い草だった。男がそういう風に言っているのかもしれないが、それが事実ならこの町は奇妙な音だけに頼り切って、何の対策も講じていないような能天気か余程の馬鹿の集まりだ。

 なるほど平和ボケしている、何かあれば他人が何かをしてくれる、神の加護に頼り切りになるとこうなるのか、と溜め息をついた。

 きっと自分達が通りかかったのも神の助けだとでも思っているのだろう。神は利用するもので信仰するものだとは考えていない無神論者だからだろうが、神というのも可哀想に思えてくる。

 必ず自分達だけは助けてくれる、常々そうやって信者に盲信されたなら、神の精神きっとは耐えきれない。それが永遠と続くなら尚更だ。

 手伝う気が段々と失せてきた所で女が志気を上げてくれた。

「依頼報酬は、一人分が頭金貨二袋と消耗品、宿代、食事代の全部で手を打ってあるわ。腰抜けでも金は持ってるわ」

 女の言い方が気に入ったのと、報酬に誘われて彼らに協力する事にした。



***



 食事も終えて、消耗しきった精神と身体を多少は回復させることが出来た。更に報酬の良い依頼も。正式には依頼者に話を通さなくてはいけないので、竜の幼生を解体も兼ねて青空の下、町の中を歩いた。

 町は寂れている風ではないが、活気に満ちている様子でもなかった。幾つかの店には乱雑に置かれた商品があった。物は悪くない、だが良くもない。主要な交易路が塞がったのは事実だ、商品は悪くないが鮮度は良くない物ばかりだ。

 町の商店を見て終わり、竜の幼生を門兵に預けたので詰所に出向いた。勿論依頼の話を持ちかけてきた男女も一緒だ。

 依頼者の町長は詰所にいるだろう、との事だったので動きまわる手間が省けた。もしかしたら昨日の内に詰所で顔は見ていたのかもしれないが、頭を巡らせてみても全く覚えていなかった。

 よく馬を走らせてこの町まで迷わずに辿りつけたものだと恐ろしくなる、今思えば殆ど意識を失っていたのも同然だったからだ。

 詰所に辿り着くと、髭を蓄え高級品に身を包んだ男が待っていた。この男が町長だろうと簡単に察しがつく程、汚れた詰所には不似合いだった。

 男がパステルと自分にも依頼に参加してもらいたいと伝えると、片目だけを閉じて顔を引きつらせた。

 女も冷たく説明すると、溜め息をついて町長は承諾する。書面を持ちだし依頼の署名を求めた。それを受け取り二人して署名をした。その時しっかりと依頼内容を隅から隅まで確認したのは冒険者として、契約者として当然の行為だ。

「それでは直ぐに」

 町長が今から直ぐ依頼にかかれと続けようとした時、パステルがその言葉の先を奪った。

「竜の幼生を解体しなくっちゃ!」

 髪を布で包んで腕まくりを始め、鼻歌混じりに昨日預けた竜の幼生の死体の保管場所を衛兵の一人に尋ねた。折角滞在費は町が負担してくれるのだ、有効に活用しなくては勿体無い。

 それに、竜の解体には幾ら刃があっても多過ぎる事はない。

「消耗品はそちらが持ってくれるんでしょう? 切れ味のいいナイフと鉈、手斧、木槌をお願いします。それと布袋と木箱もお願いできますか?」

 出来るだけ愛想よく、それが嫌味だと分かるくらいに愛想よく笑いかける。竜の解体にかかる消耗品までは負担の範囲に入らないと言われてしまえばそれまでだが、言ってみるだけでも価値がある。

 大した量を消費しない、と踏んで了承させてしまえば、後はどれだけ使おうがこちらの勝手だ。

 町長は片目だけを閉じて了承した。

 それだけを確認し、自分も荷物を持ってパステルの後を追った。後ろを男と女が黙って付いて来たが、何も言わなかった。

 竜の幼生が保管されていたのは詰所の近くにある石造りの地下室だった。

 他に場所がなかったにしても、少しは気を使ってくれと言いたくなる。竜の幼生が一体幾らになるのか知っているのか、それと、生きている人間にも気遣ってやれと。

 地下牢の一つで死体は外套から頭を出していた。しかも、目の前の牢には人間が入っており一晩中竜の死体と向き合っていた事になる。

 牢といっても反省部屋といった方が正しいような鉄格子の間隔も広い、見張も立っていない所だ。いや、竜の死体が入ったから歩哨も逃げていたのかもしれない。もしそうならお笑い草だ。

「ちょっと場所を変えられない? こんな所で解体したら手元が狂う」

 尋ねながら、パステルは外套で竜の幼生を包み直し担ぎあげる。

 それを衛兵は止められず、言いどもる。代わりに牢にいた人間が金切り声を上げた。

「町の東側に肉を解体する場所がある! そこに持ってってくれ。俺の目の前から持ち去ってくれ。早くこの世から消してくれ」

 男は頭を掻き毟って髪の毛を散らす。可哀想だと思ったが、自分達がよく見ている現場を異常だと言われている気がした。

 この町では冒険者が入ってこない関係でこういった生物の解体はおろか、死体の形では町中に入ってこないのだろう。他の町に行けば状況は変わる、むしろこの町が異常なのだと頭を振った。

「ついでに解体後の保存場所を教えて頂くと、ここに保管しないのですが」

 男は鉄格子にすがりついて教えてくれた。

 町の東側、中心部からかなり離れた場所に食肉を解体する小屋がポツンとあった。

 パステルの再考の笑顔によって連れてきた衛兵が小屋の主人に事の次第を説明すると、見学できることを条件に快諾してくれた。ついでに解体用の道具を貸そうともしてくれたが、それは断った。

 竜の幼生をロープで吊り上げ、下に大きな桶を用意する。解体用にした古い服に着替え、髪の毛を縛る。出来るだけ顔を布で覆い、斧を手に竜の幼生へと向かう。

 これから命を無駄にしない為の解体を始める、竜の幼生の死が意味のある事とする為に。

 動かぬ体に手を当て静かに祈る、神にではなく命への感謝を。

 生きる為の命の連鎖を断ち切り、それを糧とする感謝を奪った命へと捧げる。

 手のナイフが閃く。



***



「後は私がやるから」

 パステルがそう声を掛けてきたのは竜の幼生の腹を裂き、内臓を取り出して樽に詰めた時だった。了承し、内臓を詰めた樽に封をした。食肉を保存する冷暗所に運び込んだ後、顔に巻いていた布を外して日陰に座り込む。

 そこには先客がいた。ずっと沈黙して見守っていた二人は、生ぬるい飲み物を渡してくれた。

「有難う御座います」

 受け取ったそれは水だった。下手に味の付いたものなら吐き出してしまいそうだったので助かった。それを知ってか知らずか、何杯も黙って生ぬるい水を注いでくれた。

 何度嗅いでも肉食の死体を解体する時の匂いには慣れない、特に内臓の悪臭といったら時に気を失ってしまいそうになる。

 それを気遣って、パステルは役立たずに成り下がる前に自分に手を引かせたのだと分かっている。しかし、面倒な内臓関係は自分がやった気がするのは、気のせいではない。

「彼女一人で大丈夫なのか?」

 男は黙々と作業をしていくパステルを示しながら自分に問いかける。

「えぇ、後は内側から腐敗防止の薬を塗りつけるだけですから。今の段階でちゃんと処理をしておかないと本格的に解体するときに困るんですよ、質も落ちますし。我々は専門家ではないのでこの程度が限界とも言えますが」

 長旅を好まないのは死体の処理に困るというのもある。

 手に入れたものでも処理が出来なければ利用することが困難になる。ましてや「これぞ死体」という物と一緒に旅を続けるのは苦痛で、それにどうしても腐敗が進んでしまうと保持していられなくなる。完全に防腐処理を施してしまうと加工するのが難しくなるのでそれもしたくない。

 本来ならその場で完全に血抜きをして使える部分以外を捨てるか、肉なら食べてしまうのが一番良い。夕べはパステルと一緒に肉の一部を美味しく頂いた、肉は時間をおいた方が美味いが鮮度が良ければ別の美味さもあるからだ。

 加工をするにもある程度乾かさなければならないから対処法としてはそれが理想だ。

 だが、肉食の生物は臭みがあるし、簡単に肉を剥ぐこともできない生物も多々存在する。

 そうこうしていると、薬を塗り終わったパステルが軽くなった竜の幼生を桶に落とさないように降ろし、薬を染み込ませた布と新しい布に包んで、小屋の主人と一緒に運んで行った。

 その間に桶に溜まった血を漏斗で瓶に移す。生臭い作業を全て移し終える前にパステルは戻り、自分がさっきまでいた日陰で休憩を取っている。同じように生ぬるい水を飲んでいる。

 血の水面に影が映る、パステルかと思い顔を上げると、日陰で見ていた女だった。興味深そうに自分の作業、正確には竜の血だろう、を見つめている。

「何か?」

 魔術に関心がある者はその力の源を探しているとも言える、それを竜に求める者も少なくない。興味深い対象であるには違いないため、大体の答えは見当がつく。

「その血を少し譲っていただきたいわ」

「安くはしませんよ。鮮度もいいでしょうから」

 残さず瓶に移し、封をして運びながら値段の交渉をする。相場より少しだけ安い値段で取引は成立し、仲介人を通さなかった分、互いに得をした。

「受け渡しはこの仕事の後で良いわよね?」

 いつの間にか、パステルは水浴びを済ませた格好で待っていた。自分も早々に水浴びをしに行きたかった。

 どれだけ気を付けていても匂いがしてならない、手から髪から血の匂いがしてたまらない。纏わりつくその匂いに麻痺していく鼻も、心も欲しくない。

「勿論よ」

 女の返事を背中で聞いた。

 小屋の主人に水浴びが出来る場所を聞き、手を拭い、着替えを持って走った。解体所の水浴び場には血の匂いを取る幾つもの香草や油が置いてあり、勝手に使わせてもらった。

 手足を重点に洗い、髪の毛を洗う。気がつきにくいが髪の毛にはいつの間にか匂いが染み込む、二度ほど香草で洗い最後には油を付けて水浴びを終えた。

 全身を洗い終え、さっぱりとした気分で着替えに袖を通せば、すこぶる気持ち良かった。

 解体場所に戻ると、布が広げられ軽食が並べられていた。先程までの、この場所での行為を思い出すと肉を食べる気にはなれそうになかった。だが、それ以外なら直ぐにでも腹に詰めたかった。

 朝食は昨日の夕食の分も含めていたので昼食には何ら影響ない。丸い笑顔の浮かぶ小屋の主人と共に昼食を取ることになった。

「水場をお借りしました。勝手に香草などを使わせていただきましたが、構いませんでしたか?」

 事後承諾だが主人は豪快に笑い飛ばした。

「かまわねぇって。あるもんは勝手に使ってくれや、よ~く効くぞ。それより面白いもんが見れてこっちは楽しかった。こんなモンも貰っちまった」

 そう言って、主人は緑色の鱗を見せた。

 解体の途中で出た鱗の一片だった、欠けてしまって価値は落ちている。それを嬉しそうにポケットに仕舞いこんだ主人はまるで少年のようだった。

 自分も初めての時はこうだった、と妙に懐かしくなった。今となっては店先に並ぶ商品のように値段で見てしまう。確かに商品にもなるのだが、何だか違って見えたような気がする。

 まだ部屋の片隅で世界を知っていた頃、本の中だけが自分の領域だった。いくら地図を広げて本と知識とを照らし合わせても分からない、そんな事すら知らなかった時もあった。

 何事も実践しなくては本当の理解などあり得ないと感じるまで、狭い部屋に閉じこもっていた。だが、同時にその頃は無駄な想像力は養われ、北の大陸に力の根源が眠っているとも、東の端には西に続く虹が架かっているとも思えた。南には本で見た小麦畑が無限に広がっていた。

 幼かったのだと今なら分かる、ただ今の現実よりもっと輝いていた気がする。

「喜んでくれたなら嬉しいわ。もうちょっとあるからお礼に置いていくわね」

 パステルが渡す為に持っていたのだろう、欠けてしまった物や小さな鱗を差し出すと、両手で受け取り主人は目を輝かせた。

 きっと自分もこんな風に喜んでいたに違いない、それに慣れてしまったのはいつだったか。思い出そうとして自嘲した。今頃思い出しても意味は無い、思い出すなら死ぬ直前で、死への足止めがいい。

「だからちゃんと預かっててね」

 茶目っけを含めてパステルが釘を刺す。主人は胸を叩き大きく何度も頷いた。この主人ならば安心して任せられるだろう。しかし、簡単に持ちだせないように工夫はしておいた。何事も用心が欠かせないのは平和ボケした町でも一緒だ。