完璧彼女を造りましょう

3.「彼女は自分で造るものだと」





「全く。お礼なんて、いらないって言ったのに」

 はにかむタウは嬉しそうでした。

 結局、殆ど溺れていた子供でしたが、短い距離だけなら泳げるようになったそうです。全く泳げなかった事から比べれば大きな進歩です。練習をすれば泳げる、それは素晴らしい事です。どうやっても自力で泳げない私にはとても羨ましい。今は必要ありませんが、もし必要な時になければ困るのでイオタお嬢様に相談してみようと思います。

 何故ならタウが言う、夏の浜辺とは良い物だ! 理論を実践してみようかと考えているからです。夏はご両親が帰ってくる時期でもあるので、実践前に訪ねる予定です。

 高確率でタウの理論はラムダに当て嵌まらないのですが、イェプシロンの理論ではないので実践する価値があります。とりあえず、本音を言うと水中を自由に動ける機能を付加して欲しいので、イオタお嬢様に相談します。

 水中を自由に動ける機能を付加された私は、獣人よりラムダの役に立つ予定です。

「助けたのはタウだけじゃなくて、僕もだ。そのお礼を一割寄越す代わりに次回の荷物運びを手伝いたまえ」

 理不尽な要求をイェプシロンがタウにしました。優しいタウは一言で了承しました。だから、イェプシロンに付け込まれるのです。

 他人を利用するという点において、イェプシロンは多種多様な技術を持っているそうです。自分で言っていました。どこまで信用できるか不明ですが、気のいいタウを利用する事は出来ているようです。それをタウは気にしていないようです。

「さて、今日の荷物はこれくらいだったけど、どうするモテ男。これから講義は?」

 イェプシロンの言う、人気者はタウ。モテ男はラムダです。タウの人気者は固定ですが、ラムダのモテ男は固定していません。ラムダへの愛称は嫌味だからです。その時の気分で適当に決められているのです、その日はモテ男でした。

 当のラムダは一向に気にしていないようです。

「マンドラゴラを解剖したい。見つけたら教えて」

 というよりも、全く話を聞いていないようです。これが意識的なのか、無意識なのか私には分かりませんが、都合の悪い話は特に聞こえていないようです。

 補足しておきますとマンドラゴラというのは植物の一種で、人に似た形の根を持ち、叫び声は聞いた者に死をもたらすそうです。大量生産されている市販品ではそのような事は無いそうですが、天然のマンドラゴラでは年間に数名の犠牲者が出ています。たかが植物の分際で生意気な能力を持っています。

「家に帰ればあるんだろう? それより僕の話をきいていないね?」

 苛立ちを含んだイェプシロンの言葉に、ラムダは不思議そうに見返し、少し考えた後に小さく頷きました。

その瞬間に浮かんだイェプシロンの血管は見事な青筋だったそうです。メスを入れたくなる程に素晴らしかったので、ラムダは黙って切開用のメスを取り出したのだそうです。

 メスをイェプシロンの素晴らしい血管に当てる前にタウが止めたそうです。ラムダも、冗談半分でしたので、簡単にメスを片付けました。

「ラムダ。イェプシロンを刻みたくなる気持ちは分かる。だが、今は止めておけ」

 タウの意見はラムダの意図とは全く異なったものでしたが、否定せずにラムダは顔色を多少悪くしたイェプシロンを見ていました。

「悲鳴を上げる植物の解剖なら自宅でやってくれたまえ。それより、これから講義はあるのかと聞いたんだが、答えてくれるかな?」

 これにもラムダは不思議そうにイェプシロンを見ました。

「昨日、言った覚えがある。今日の講義の担当者がマンドラゴラの悲鳴で病院に行ったきり戻っていない、今日の講義は無い」

 まるで、覚えていないのか、と言いたげな瞳がイェプシロンを射ていました。そこには何の感情もなく、ただ伝言が伝わっていない気怠さだけがありました。それは、見られている本人からすれば、小馬鹿にされたような、呆れられたような瞳でした。ラムダの瞳でなければ腹立たしさが優先するのでしょうが、瞳の持ち主はラムダでした。

 ガラス玉のような、美しく深い色をした瞳はイェプシロンの心臓を素早く鼓動させました。長く視線を合わせていると危険、そう判断したイェプシロンは必死に視線を外そうと顔を振りました。

「そうかい。じゃあ、これからまた禁書に埋まりますか」

 これには静かにラムダは首を振り、否定しました。この時のラムダには、ある計画しかありませんでした。

そう、私のことで頭の中は一杯だったのです。少しは頭の片隅にマンドラゴラの事があったかもしれませんが、殆ど全部が私の事で満たされていたのです。

「じゃあ、妹溺愛症候群を卒業して、素敵な女性でも探しに行きますか? 本の中にっ」

 イェプシロンが厭味ったらしく言ったそうです。それにタウが苦々しく笑い、ラムダは不思議そうに眼を細めるだけでした。

 この嫌味は理解できます。ラムダは否定しますがイオタお嬢様を溺愛しているのは私の目からも分かります。今もそうです、きっとこの時から、いいえ、ずっと前からそうだったのでしょう。

ご両親は調査で度々家を空けられており、イオタお嬢様にとってラムダは唯一の肉親であり、親代わり。ラムダにとっては唯一と言っていい生物で興味を引く対象はイオタお嬢様だけ。

 溺愛しているという表現が適切かどうか、判断する当事者に依るので私の見解から言いますと、さり気なく超溺愛しています。一緒にファイの調整をしている時などが際立っています。二人して、笑いながらファイの表皮の交換、どうしても取り外せなかった武器の構造点検をしている時などが。

 イオタお嬢様が届かない部分をラムダが手伝うのです、非常に羨ましい。

 私は点検される側なので、今は踏み込めない領域です。しかし、私が更に器用になればイオタお嬢様を手伝って差し上げるのが私になり、ラムダに、あれ取って、と言って手伝ってもらうのが私になるのです。

 そして本の中にだけ生息している故人に思いを馳せるのはその時からだったようです。

 本の故人は基本的に骨格標本の描写であったり、肉付きの解体図であったり、数式の名前であったりします。骨格標本集は初版から五版まで居間の本棚に並んでいますが、十七版までが大切に保管されている事を知っています。居間の標本集は間違ってお父様が同じ物を購入されたそうで、いつでも見られるようにと居間に本棚を設置したそうです。本の為に本棚を設置したのです。現在その本棚は、半分がイオタお嬢様の道具置場になっています。

 妹を溺愛していると言われようと、本の中にしか興味がないと言われようとラムダは小さく頷くだけです。全く意に介していないのです。自覚していない当人に何を言おうと理解はできないのです。しかし、それは昔の話。現在は私にも興味があるので、本の故人に思いを馳せる時間は確実に減少しています。ファイからの情報なので、確実な減少です。

 だから、別段怒ってはいません。

「本の中には探してない」

 その時のラムダの言葉に、はしゃいでいたイェプシロンの眼鏡をずり落とし、タウの口の締まりを悪くしました。

「彼女は自分で造るものだと」

 更に続けようとしたラムダをタウは制し、しばしらく過呼吸の後に問い返しました。それは青ざめた顔で、タウに一体何が起こったのか分からなかったのだそうです。彼の身を案じたラムダはただ押し黙って息が整うのを待ちました。

 タウだけでなくイェプシロンも息が出来ていないようで青から紫色に顔色を変えていました。見た所、イェプシロンの方が重傷でした。

 更に、遠くない場所で何かが倒れる音と悲鳴が上がったそうです。音からして人間が倒れたようでしたが、ラムダは一瞥しただけでタウに視線を戻したそうです。未だに苦しそうに呼吸を繰り返すタウの手首をとり、脈を計りましたが運動直後と同程度の脈拍で、座ったまま器用なことをするものだと感心したそうです。

「ラムダ。ラムダ、冗談はよしてくれ」

 やっとのことで喋ったタウはまだ青い顔でラムダに妙な事を言いました。

 ラムダにはその言葉の意味が分かりません。目を細め、まだ早い脈をとりながら、正常な脈に戻るまで返事を待ちました。