マスカルとグレナンデの話
01
その一、マスカルとグレナンデは夫婦である。グレナンデがマスカルのピアスを片方奪い取り、権利を奪い取ったからだ。マスカルがグレナンデの実験に付き合うのも、その為だと信じている。
その一、マスカルはグレナンデからの強襲に応じる形で誓った。彼女の隣を歩けるのは自分だけだと思っている。少なくともグレナンデはマスカルが隣を歩くことを許している。
その一、マスカルがグレナンデと一緒に学園を出たのは暫く前だ。馬の乗り方を覚え直し、今では一人で軽々と乗り降りできるようになったグレナンデも、長距離の移動は流石に疲れるようだ。
その一、マスカルにとって町々で引き受ける仕事は面白いものだった。それが自分一人の、身軽な時だけの面白さだと想像していたが、違っていたようだ。グレナンデも一緒に楽しんでくれているようだ。何より、その土地にある医術や魔術に深い興味を示しつつ、次の土地への希望も見せている。グレナンデの旅鳥のような姿にマスカル自身も喜びを覚えていた。
その一、マスカルが引き受ける仕事の殆どは日雇いのようなもので、長期間関わるようなものは少なかった。それはグレナンデと一緒になってからは顕著だった。彼女は自分の興味が移るとそちらを優先してしまうのだ。賢く、思慮深い彼女でも好奇心に負けてしまう時がある。
商品棚を眺め、目に留まった日焼け止めを手に取った。
近頃、グレナンデが日焼けをしている気がする。学園に居た頃には透けるような肌が印象的で、赤ら顔になることはなかった。一緒にいる時間が長くなった所為で、以前からそうだったと言われてしまえばそれだけなのだが、マスカルとしては気になるものだった。
「お連れさんにですか?」
店主の声が、すぐ隣から聞こえた。
「あぁ。グレナンデ、どうだろう?」
店主に応えて、視線だけを動かしグレナンデを探した。
右に向けても、左に向けてもグレナンデがいない。大きく振り返る。
「お連れさんですか?」
手にした日焼け止めを店主に渡し、金額を訊ねる。嗜好品としては安いが、日用品としては高い額に少々悩んだ。無駄な出費だと言われかねないが、贈り物としてなら受け取ってくれるだろうと信じて買い求めた。
店主は釣銭と一緒に日焼け止めをマスカルへ手渡し、とぼけた調子で言った。
「網を持って出られましたよ」
マスカルは頭痛と焦りを覚えた。
釣銭と日焼け止めを荷物に仕舞い込み、グレナンデが走っていったという方向へ走った。
賢く、思慮深い彼女でも好奇心に負けているようだ。
商店が連なる路、人通りは少なくない。通行人を避けながら駆けていくと、不意にこちらへ手を振る男が現れた。誰だろうか、と近寄ると見知った顔の男だった。
「ヴァスティス、こっちに。その」
マスカルはグレナンデの容姿を息も絶え絶え、男、ヴァスティスに伝えた。
「その美人なら、あっちに走って行ったぞ」
ヴァスティスは親指を自分の後方へ向ける。
親指の方向へマスカルが視線を向けると、同じように視線を向ける通行人が目に入る。更にその先には、左右に分かれた人垣がある。誰か、何かが通ったように。
学園でも目にしたことがある、グレナンデの後に。
大陸一高い時計塔を持つ学園は、学生の魔法暴発を防ぐ意味で独自の防壁を設置している。そのため魔法は威力が減少する。減少するとはいえ、許可なく使用して良い物ではない。だが、自己鍛錬と練習のため魔法実験を行う学生は少なくない。友人の足止めのために雷撃を放つのはグレナンデだけだったが。
マスカルは再び頭痛と焦りを覚えた。
まさか街中で、魔術耐性がない街中で魔術を行使するなどと考えたくない。
道中に雷撃の跡が残っていないか、視線を走らせながらマスカルは駆ける。人一人分の間が空いており、通行人を避ける必要はなかった。両脇の通行人は途切れたが、グレナンデの姿は見えない。
商店の看板が減り、細い路地が増える。入り組んだ路地は迷宮の様で、見通せる場所は少ない。路地の奥が袋小路なのか、それとも曲がり角なのか、分からない。三叉路で足踏みしていると、払うような突風が抜けた。直後、路地の途中から髪が翻った。グレナンデの髪の毛だとマスカルは確信した。
「グレナンデ!」
足早にマスカルは髪の毛へ駆け寄った。
辿り着いた路地の途中で、グレナンデは風に乱された髪を手櫛で直していた。細い髪に何度か指を入れ、憂鬱そうな視線をマスカルへ向ける。
「なに?」
その冷たい視線に、疑問を飲み込みかけた。飲み込まないように小さく息を吐き、グレナンデの肩を両手で押さえて問いただした。
「何を追いかけたんだ?」
マスカルに押さえられ、肩をすくめた状態のグレナンデが深い溜息を吐いた。
その溜息は至極残念だと語っていた。
「浮遊するカメを、取り逃がしたわ」
一瞬、思考が停止したマスカルだったが、急激に合点した。
浮遊する生物は幾つが存在するが、浮遊するカメは不可思議な存在として群を抜いている。魔法生物の一種ではないかと言われているが、それも推測の域を出ない。その詳細を知らせる者が今までにいなかったからだ。
マスカルはグレナンデを放し、その手にあった網を預かった。
グレナンデを慰め、網を巻き上げながら来た路を戻る。足取り重く、グレナンデは意気消沈していた。日頃から、快活というより冷淡で口数が少ないグレナンデだが、その時は溜息が多くを語った。素晴らしい研究材料なのに。こんな人里近くで見つけることができるなんて、幸運以外の何物でもないのに。取り逃がしてしまって、本当に残念で仕方がない。
グレナンデらしい溜息に、マスカルは笑ってしまった。
「残念だったな。だが、こちらは取り逃がさないさ」
ゆっくりとグレナンデが顔を上げた。
マスカルは手にした網を少しだけ広げ、ヴァスティスに引っかけた。
「紹介しよう、サイコロの名人こと、リーリアリの信者・ヴァスティスだ」
グレナンデの瞳が急に輝き始めた。
突然網にかかったヴァスティスは、目を丸くして向かいに座った女を見た。女は細く長い髪を緩やかに結んでおり、顔立ちに見合ったその身体は華奢だった。
そんな者が、どうして肉弾戦が好物な女神の信者に目を輝かせるのだろうか。
ヴァスティスの目でも、その理由は分からなかった。
「いかにも、戦いの女神リーリアリに祈りをささげる者だ。お嬢さんの知識欲を満たせそうかな?」
網もそのままにヴァスティスは腕を組んだ。
鼻息荒く腕を組んだヴァスティスの頭から網を引き揚げ、マスカルがグレナンデとヴァスティスの間に椅子を引き寄せる。
グレナンデはマスカルが座るのを待ち、ヴァスティスとマスカルを交互に見やった。
「紹介しよう、以前に加護を頼んだ非力な才女こと、リーリアリの信者・グレナンデだ」
マスカルが告げると、ヴァスティスは眉を寄せた。ついで片眉だけを跳ね上げ、目を細める。少し考えこんだ後に、深い溜息を吐いた。
そして顔を両手で覆い、自嘲するのだ。
「そうか、俺としたことが。先ほどは失礼した」
ヴァスティスは顔を上げ、グレナンデに片手を差し出した。その大きな手を、グレナンデの細い手が握り返す。無骨な分厚い手と、細く長いしなやかな手。ヴァスティスが少し力を込めればグレナンデの手は簡単に潰されてしまうだろう。
「いいえ。お会いできて光栄だわ、でもお嬢さんと呼ばれるほど若くはない」
僅かに口角を上げ、グレナンデは二つを否定した。
「女神への供物に、できはしないな。闘争心は素晴らしい、残念ながらそれを肉体で表現することはできない。大丈夫だ、俺もそれほど若くない」
自分の言葉に視線を背け、ヴァスティスは何度も「それほどは」と呟いた。
「あんたらしくないな、ヴァスティス。何かあったのか?」
「いやー、今日も酒は美味いぞ?」
マスカルの問いをかわし、ヴァスティスは水を口にした。
首を傾げ、マスカルはグレナンデを見た。いつもと変わらぬ冷たい目、僅かに紅潮した頬が屈辱を語っていた。しかし、マスカルも、グレナンデ自身も知っていた。肉弾戦が好物な戦いの女神の加護を受けていながらも、その非力な身体は女神が望むような戦いを供物とすることができない。
リーリアリが望むのは酒と互いを高めるための戦い。
戦いの女神と謳われながら、その信者は少ない。その理由の一つが戦争の神とは異なるからだ。一対一、しかも素手であることが女神の望む戦い、結果として死が訪れることはあれど、それは稀なことだ。
最高の供物を捧げることができないグレナンデは、信者として致命的な問題を抱えている。
「知っている」
伏目がちにグレナンデは呟いた。
マスカルも、ヴァスティスも動きを止めた。
どこかの誰かの声が止む。
風に身を任せていた服が今度は重さに身を任せる。
まるで街のざわめきが消えたように、一瞬だけ声も足音も何もかもが抜け落ちる。三人の間を冷たい風が音もなく通り抜けようとしていた。
「それでも『生きているものは勝者だ』、ならば『私は勝者』であり続けましょう」
握りしめた両手を机に叩きつけ、真っすぐに前を見つめ力強く宣言した。
マスカルは僅かに身構えたが、それが近頃のグレナンデらしく妙に嬉しいのだった。
「そうだ、それでいい。それがいい」
ヴァスティスは眉を下げて笑う。グレナンデの怒気を直接受けて。
ギラギラと光る瞳の奥に、一瞬の冷たさが走る。瞬き一つ、グレナンデは髪を撫でつけ静かに椅子へ座りなおした。いつもと変わらぬ冷たい目、紅潮した頬。そこからは屈辱の色が消えていた。
「私が非力であるために女神を満足させるような戦いを捧げることはできないでしょう。それでも『勝者』であり続けることが私の供物です」
誇らしげにグレナンデは語った。
戦いの女神リーリアリはその望みから信者同志の戦いが頻発する。それは信者同志、望むところであり通らなければならぬ路だった。強さを求めるのも信者の特徴の一つだ。
「『勝者』であり続けることは困難だ。その闘争心と共に捧げ続けることを願う」
マスカルに女神の供物は分からないが、グレナンデなら出来るだろうと思うのだった。
リーリアリの信者に囲まれ、熱い信仰を眼前に掲げられ肩身の狭い思いをしていたマスカルだったが、二人の矛先は突然マスカルに向けられた。
「グレナンデはマスカルの学友と聞いたが」
「今は妻よ」
グレナンデは髪を搔き上げて左耳のピアスを見せた。
光を反射する青いピアスにヴァスティスは目を細め、マスカルの頭を掴んで引き寄せた。
「お前、そういうことは先に言え」
マスカルの髪を乱暴に乱し、右耳にグレナンデの耳にあるピアスと同じものを見つけた。同じ輝きに目を細め、掴んだ時と同じように突き放した。
そして今度は自分の髪を搔きむしるのだ。
言葉にならない声で、酷い濁音をまき散らす。
「あれか? あれだろ?」
ヴァスティスが「あれ」ばかりを言い、「どれなんだ?」と思っていたマスカルの肩を掴んだ。
出来るだけ小さな声で、問いただすのだ。
「いつも毒瓶を持ち歩いて、追い掛け回してくる女の子もいるって言ってたろーが。そっちに気があると思うじゃねーか」
マスカルは居心地悪そうに視線を外した。
外した先にはグレナンデが居る。
常夏のような笑顔を咲かせ、ヴァスティスはグレナンデに手を振った。何も気にするなと言っているようだ。
「結局は顔か、顔なのか」
妬みの籠った言葉をマスカルに掛ける。ヴァスティスの腕から逃れようにも、マスカルの筋力では難しい。固い木枠にでも嵌められたかのような気分だった。しかも暑苦しい。
二人の様子を冷ややかな目で見ていたグレナンデだったが、ヴァスティスの呪いのような言葉が途切れた所で小さく言い放った。
「それ、私よ」
いつも薬瓶を持ち歩いて、見つけたマスカルや実験に付き合ってくれそうな他の生徒に試していたのは私。
丁度いい具合に見つからなければ、体が丈夫なマスカルを追い掛け回していたのは私。
簡単に捕まらないから雷撃で麻痺させていたのは私。
呪術の実験に付き合わせて触媒探しに墓掘りをさせたのは私。
墓掘りで呪いの身代わりに仕立てて、解呪まで試したのは私。
「これは、もう手放せないと思ったからピアスを付けさせたのは私」
学生時代の思い出と共に並びたてた。まるで、ただ理論の一環として述べられる例題のように。
無表情のグレナンデに対し、引き攣った笑顔のヴァスティスはマスカルに助けを求めた。顎を指でつまみ、マスカルはわざとらしく考えた表情を作る。
そして、口唇を動かしたところで頭を振った。
余りにわざとらしい仕草にヴァスティスの方がヤキモキする。
「惚気はこのぐらいにしておきましょう」
捨てるようにグレナンデは言い切った。
何故かその瞳は煌めくのだ。
姿勢を正したまま、冷たい目でグレナンデは問いかける。
「そんなことより、『サイコロの名人』なら頼まれてくれないかしら」
ヴァスティスが問い返すよりも前に、マスカルが止めた。
「グレナンデ、彼は博打なんてしない」
博打、賭博は道端で行われる小さなものから建物一つまで大きさは様々だ。この地域では刑罰の対象であるものの、罰金さえ支払えば解放される。そのために小さな賭博は見逃され、今日も街角で行われている。
規模の大きなもの、大金が動くものには莫大な罰金と現場の金品が没収される。それは返却されることなく、街の整備費用として消えており、賭博からの罰金は街の収入源だった。だからといって全てが許されるはずもなく、定期的に摘発が行われ、治安は保たれていた。
「いや、それほどでも」
マスカルの言葉に、ヴァスティスは目を泳がせながら頬を掻いた。
実際のところ、夕べも酒場でサイコロを振り安い酒を二杯飲んでいる。この地域では金を払うよりも簡単な支払い方法があるのだ。
ヴァスティスは横目にマスカルを見た。その渋い表情からは理由を読み取れない。
先ほどマスカルが飲み込んだ言葉、そして遮られるグレナンデの真意が気になって仕方がない。
二人の間だけで、「でも」「いや」が繰り返される。言葉の間に送られる視線がこそばゆい。
「俺にできる事があるなら言ってくれよ、なぁ」
堪りかねたヴァスティスが机から身を乗り出す。
それでもマスカルは「しかし」を繰り返し、言葉を飲み込む。グレナンデも口を僅かに開閉させるものの視線を向けるだけだ。
今度はマスカルの肩を掴み、引き寄せる。
「なぁ、俺にも一枚かませてくれよ」
やはり視線を動かすだけだが、マスカルは溜息を一つ吐いた。
ヴァスティスの手を取り、グレナンデを促す。歩き始めたマスカルに引っ張られてヴァスティスも歩き始めた。