マスカルとグレナンデの話

02





「彼はサイコロの名人こと、僧兵のヴァスティスだ」

 続けて、登録の有無を確認する。

 分厚い名簿をめくる手はページの途中で止まり、跳ね上がる。

「三年前にこの街で警護の仕事をしたかね?」

 ガラス玉のような目が上目遣いに尋ねた。

「いや、してないな」

 何度も頷き、名簿を閉じた。

 どうやら同名の者がいたようだが、違うことが分かったらしい。今度は別の紙を引っ張り出してきて何やら書き始めた。顔も上げずに続ける。

「マスカル、説明はしたかね?」

 職業斡旋所の薄暗がりでマスカルは語る。

 賭場の一斉摘発を行ったものの、寸での所で逃げられる事が続いており内通者が疑われる。これは今までもあったことだし、それを含めての警告だったが最近のそれは様子が違う。

 街の者以外が賭場を広げているとの告げ口もあり、下調べをしている。

 外の者に金銭を持っていかれては街全体の利益にはならない。

「どうやら誰かが仕事をしているらしい」

 摘発の逃走からして、既に街の方は相手に知られている可能性が高い。私服の衛兵が賭場に現れると席を立つ者が増えたようだ。衛兵は賭場の常連でもあった。

「不案内ということで頼まれたんだが、俺より適任者を見つけたんだ。しかも自分から『手伝わせてくれ』と言ってくれて、とても助かっている」

 マスカルは紙に書いた名前に線を一本引き、預けていたのであろう小さな巾着を受け取ると荷物に仕舞い込んだ。やけに重たそうな荷物を肩に引っかけ、ヴァスティスの横顔を覗き込む。

 面倒な契約の書面に目を通しながら、ヴァスティスはマスカルを睨んだ。

「お前な、安過ぎないかコレ」

 座って賭場を盛り上げる、簡単に書いてあるが下手な手を打つと持ち金どころか服まで巻き上げられて丸裸にされてしまう。もっと悪ければ、死が待っている。しかも相手は街の外の者、死体すら見つからないかもしれない。街の不案内は誰にも探されず、居なくなったところで分からない。

「大丈夫だ、お前なら」

 ヴァスティスが契約書に名前を書くのを確かめ、頷いた。

 してやられた、とヴァスティスは顔を歪める。確かにマスカルよりも賭け事に慣れており、武器を持ち込めぬ場においてはヴァスティスの方が圧倒的に有利だ。常日頃から素手で刃物や鈍器の間をすり抜けているのだ、互いに素手の賭場で負ける気はしない。

 だからといって危険なことには変わりなく、安い仕事などしたくはない。

 マスカルに押し付けられなければ見向きもしなかっただろう。

「身の保証はしてくるそうだ。言われるほど安くはない、未所属の仕事にしちゃ良い方だぞ」

 冒険者、別名は浮浪者。地域ごとの組織に登録をし、身分と実績を示すことで仕事を請け負うことが出来る。職業斡旋所では未登録の者への仕事も貼りだされているが、数も報酬も多くない。

 マスカルはどこの地域にも登録せず、その場限りの仕事を続けていた。安定した生活ではないものの、贅沢さえしなければ不自由がない日々になっている。それもこれも、出入り口で今か今かとマスカルを待ちわびているグレナンデの所為だった。

「次に会ったら、ちゃんと紹介しろよ?」

 頭を搔きむしりながら、ヴァスティスはマスカルの背中を押した。

 押された勢いのままに駆け出し、背中越しに手を振った。簡単に「次に会ったら」などと言ってくれる冒険者は少ない。ヴァスティスは数少ない口約束を守ってくれる男だった。

 落ち着かない様子のグレナンデは、網を抱えていた。

「グレナンデ、網は片付けろ」

 マスカルが荷物を持っていることを確認すると、グレナンデは黙って走り出した。

 足元に置かれていたグレナンデの荷物を拾い上げ、その後に続いた。



 グレナンデから網を回収し、彼女の足が向かうままに街の中を歩き回る。

 最初は走っていたグレナンデだが、早々に体力の限界を感じ何度も休憩をとることになった。結果として早めに宿へ入り、グレナンデはベッドへ横たわった。

「何か飲むか?」

 マスカルの問いかけに、額へ手を当てたまま沈黙を続ける。

 顔は赤くなっている。最近は旅慣れてきたといえ、体力面での不安は残っている。ヴァスティスが言うように、グレナンデ自身はリーリアリに捧げられる供物は多くない。だからこそ女神の好物であるお神酒は都度捧げている。お神酒の出費は安くない。

 マスカルが一人だった時には不必要だった費用。お神酒、ベッド付きの部屋代、何種類もの解毒薬、実験用の薬代と場所代など。どれも少額ではない。どこにも登録せず冒険者として日雇いのような暮らしをしてきたマスカルだけでは到底賄える金額ではないが、食うに困る状態ではない。むしろ、お神酒の分け前やベッド付きの部屋で、生活は前よりも贅沢になっている。

 以前は惜しんでいた高値の消耗品も買えるようになり、結果として受けられる依頼が増えた。手入れが行き届いた武器は、それだけで大きな意味を持つ。

 グレナンデとの生活には費用が掛かるが、マスカルはそれ以上の恩恵を受けていた。

 まさか、グレナンデが学園を卒業した日、馬の乗り方も覚えていなかった彼女を抱えるように連れて出た日は今のような状況を想像することはできなかった。

 もっと酷い目、いや大きな街などに定住して安定した住居と給金が必要で、切り詰めた生活になるだろうと想像していた。グレナンデの薬と薬を作る器具とに安部屋の殆どを占拠され、残りの狭い場所で眠るだけの日々を過ごすものだと思っていた。

 彼女は自分と比べて体力がない。今はベッドで体を横たえているのが証拠だ。

 それでも以前よりは大分マシになったと、苦笑した。

「何を笑うの?」

 額へ手を当てたままグレナンデは訊いた。怒っている様子ではない、ただ不思議そうだ。

「ヴァスに感謝したところだ。ツァコの司祭だった時より大分元気だ」

 マスカルの言葉にグレナンデも笑った。

 小さな声で祝詞を上げるグレナンデに、酒瓶を差し出しす。それには手を振って、不要を伝えられた。

 今はリーリアリの熱心な信者だが、以前はツァコの信者だった。ツァコ神は多くの地で信仰されている神で、知名度も高い。信者も多く、大規模に展開している宗教の一つだ。その司祭ならば、どこに行っても食うに困らない職業だ。それなのにグレナンデは文字通り宗旨替えをし、リーリアリの司祭となっている。

 宗旨替えといえば大問題なのだが、ヴァスティスの多大な協力と二柱の奇妙な関連性で滞りなく仕える神の名を変えたのだった。



 発端はヴァスティスの言葉だった。その時は酒で舌の滑りがいつも以上によく、隣にツァコの信者がいた。ツァコの信者はリーリアリの存在こそ知っていたものの小規模な宗教として見下していたようだった。

「代わりにツァコが大きくなってくれているからな、問題ないさ」

と、返したのだ。ツァコの信者はそれで満足したのか、「そうだろうとも」と宗教観を熱く語った。

 二人の様子を傍目で見ていた、聞いていたマスカルは引っかかりを覚えた。

 ツァコが「代わりに」大きくなっている、なぜ代わりなんだ?

 ツァコの信者が語る宗教観は、以前にヴァスティスが語っていた宗教観に名前こそ変わるが似ていないか?

 元よりツァコは二柱の神から派生した説があるとグレナンデは言っていなかったか?

 その日は疑問が浮かんだだけで、ヴァスティスに尋ねることもツァコの信者に尋ねることもなかった。ツァコの信者の耳に入れば食って掛かられるのは目に見えていた。それに考えをまとめる時間も欲しかった。

 翌日、依頼の報酬を受け取った酒場でヴァスティスを捕まえた。報酬をそのまま飲み切る予定だったようで、有難いことに席には二人だけ。

 マスカルは率直に疑問を訊いた。

「ツァコ神とリーリアリ神の関係を教えてくれ。ツァコ神は古く二柱の神だったと聞いたが、リーリアリはツァコだった一柱なのか?」

 ヴァスティスは目を丸くし、飲みかけの酒をそのまま飲みほした。

 音を立てて飲む様は乾ききった体に水を注ぐようだった。

「聞いてどうする?」

 問い返され、マスカルは僅かに身じろぎしたが正面から答えた。神などを問うのだ、気安いヴァスティスだとしても気安く触れてよいものではない。それを問いかけたのだ、覚悟はあった。

「一つは知識欲だ、一つは友人のためだ」

 飄々としたいつもの表情になり、ヴァスティスは口角を上げる。

「よろしい、ならば語ろうか」

 騒がしい酒場の中で、声を潜めるでもなく、朗々と語る。ヴァスティスの言葉を、マスカルはただ聞いていた。

 ヴァスティスが語るのは古い話だった。

 ツァコは二柱の神だった、しかし女神リーリアリともツァコとも別の神だった。その二柱が時代を経てツァコ、リーリアリ、その他の神と成っている。元の神々を色濃く継いだ神であるために、似た世界観を持つ宗教となってしまったのだと。

「だから俺はツァコも、他の神も否定しない。その否定が女神に辿り着くようなことはしない」

 これがヴァスティスの器だろうか、マスカルは心底関心したのだった。

 他の神を否定しない点はグレナンデも同じだった、ただし彼女は信仰というよりも奇跡を呼ぶための触媒としか考えていない節があった。ならば、元が同じ神なら今の別の姿を触媒にしても良いのではないかと。

「今度はお前の友人を教えてくれ」

 ヴァスティスの要求にマスカルは答えた。

「いつも毒瓶を持ち歩いて、追い掛け回してくる友人がいる」

 続けてヴァスティスは訊いた「女か?」と。

「女の子だ」

 マスカルとは同い年だが、彼女の寿命からすれば未だ「女の子」と言えるような年齢だ。

 ヴァスティスはニヤニヤと笑いながら更に質問を重ねた。余程気になるようだ。

 なんとか誤魔化しながらマスカルはヴァスティスに相談を持ち掛けた。女の子、友人、学友の彼女にリーリアリを信じてもらえないかと。信仰に他人が口を出すことは要らぬことと知りつつ、マスカルには思惑があった。

 一つはグレナンデの非力さ。重い物は持ち上げられないため、必要とあらばその身に余る加護を降ろしている。魔力の多さから可能な荒業で、複数人に振る舞われる加護を一人で一人の為に行使しているのだ。

 一つはグレナンデとの相性の悪さ。生命の誕生と繁栄を旨とする神であるため、治療の加護が多いのだが何故かグレナンデが願うと毒に侵される時があるのだ。潜在意識がそうさせているのか、はたまたワザとなのか分からないが治療にかこつけた実験は止めて欲しい。

「しかし、学園に居るんだろう? その子。また会えるのか?」

 学園が部外者立ち入り禁止の建前だけは知っているようだった。

「また学園に戻った時に会えるさ」

 この時、マスカル自身も学園に在席していた。

 学園の卒業に必要な授業を一度に全て受講することは出来ない。数年かけて履修をするのだが、卒業に必要な授業を全て受講すると多大な金額となる。授業ごとに学費が決められているため、期間ごとに授業を申請して学費を納めることで受講することができる。受講し、履修済みとなれば次の授業を受けていく。

 勿論、多額の授業料を一度の払える者は多くない。

 マスカルのように、学園の受講と外部の仕事を交互に行っている者の方が多数派だ。授業一つの学費も決して安くはないが、その分得られるものも多い。

 簡単に説明をすると、何度も頷いた。

「そうかそうか。知らないことばかりだ」

 手が空いている神官を紹介してくれたのはこの時だった。

 ヴァスティスと神官はマスカルの日取りと合わせてくれ、学園近くの街で落ち合った。ヴァスティスに雰囲気の似た細身の青年だった。神官は肉体の鍛錬を欠かさないと聞いていただけに、その細さには驚いた。ヴァスティスよりも一回り小さいその身体に一体どれほどの力があるのかと。学園には青年とマスカルだけで向かった。

 青年を見学者として学園へ通し、グレナンデを探した。

 マスカルが見つけるが先か、グレナンデが見つけるが先か、電光石火の雷撃が走った。

 大きく転がったマスカル、一歩下がっただけで避けた青年の間を光はすり抜けた。残念そうな溜息を吐きながら、グレナンデはゆったりとした足取りでマスカルに近寄った。手にある短い杖には未だ雷の残渣が煌めいている。まるで威嚇するような瞬きだった。

「久しぶりマスカル、今日は実験に付き合ってくれるのでしょう?」

 冷たい色の目に威圧的な眼差し。

「久しぶりだなグレナンデ。別件に付き合ってもらおう」

 グレナンデは首を傾げたが、快く受け入れてくれた。実験へ付き合うことを条件に。



 まず最初にマスカルは青年を紹介した。女神リーリアリに仕える神官だと。

「リーリアリ、聖者が学園に派遣されたのは初めてね。武闘派だと聞いていたけれど」

 マスカルと同じ感想を抱いたようだ。だが、グレナンデの観察眼は別のものを見つけていた。

「マナの密度が恐ろしい位、そのマナを行使するのかしら?」

 青年は黙って腰に当てていた片手を差し出し、手のひらをグレナンデに見せた。それはマスカルにも見える程に濃くなったマナが、血のように手を巡っていた。マスカルもマナを行使する魔術、魔法のそれを学んでいる最中だ。そんなマスカルでさえも、目に見えて分かったのだ。

 グレナンデが考え込むようにして指を顎に当てる。

「それは、私にも出来そうね」

 数拍、考えた後にグレナンデが出した結論はこれだった。

 驚いたのはマスカルの方だった。マスカル自身は、未だ何も言っていない。どうやってグレナンデを丸め込むべきか幾つか考えていたが、全て不要だったようだ。

 今度はグレナンデが学園に派遣されていたツァコの信者を引っ張り、連れて来た。

 ツァコの信者は青年を見るなり盛大に顔を歪め、深い溜息を吐き、グレナンデの改宗を認めた。苦虫を潰したような顔をしながら、何度もグレナンデに「いいんですね? 本当にいいんですね?」と訊きながら聖水を手にした。時折、マスカルを睨みながら、それでも手続きをしていく。

 最後に両手をグレナンデの両手に乗せて、許しを与えた。

 深い溜息がマスカルに投げかけられる。

「教えていただきたいわ」

 膝をつこうとしたグレナンデを引き起こし、手を肩の高さまで上げるように促した。

 グレナンデの白い手が挙げられた時、音が弾けた。耳の奥まで抜ける大きな破裂音。空気で頬まで弾かれたような衝撃だった。

 青年がグレナンデの手に張り手をしただけだ。

「教えよう、生きる勝者よ」

 全てヴァスティスのお膳立てだったと知るのは、グレナンデが青年の経典を写し終えた時だった。

 経典の写しには半時も必要なかった。グレナンデの筆が速いのと、経典そのものが余りにも短いためだ。横目で覗いたマスカルさえ、暗記してしまえるほど短い。

「ヴァスは、お前と知り合いだから俺を呼んだものと思っていたが、違うのか」

 隣でツァコの信者と青年が世間話をしている。改宗の手続きはもっと殺伐としたものだと思っていただけに拍子抜けしていた。隣から聞こえてくる青年とツァコの信者の会話に険悪さはない。青年も、ツァコの信者も、どうやらヴァスティスから詳細を教えられていないようだ。

「詐欺の手法だな」

 吐き捨てたツァコの信者の言葉に、マスカルは心の中で頷いた。



 今度はグレナンデが笑った。

「えぇ、人生の転機だったわ」

 仕える神を変えたグレナンデは徐々に変わった。

 肉体強化を主とする女神の加護はグレナンデを更に活発にさせた。マスカルへ振る杖は素早くなり、長々とした説教は握り拳となった。そして、何より感情を表に出した。

 肉体を使い内情を表すようになった彼女は、冬の冷たい氷ではなく、春先の目覚める花のように咲いたのだ。それはマスカルにとって思わぬ結果だった。凍えるような魅力も人を惹きつけていたが、春先の温かさの方がマスカルには好ましかった。

 思惑と外れたのは、やはり治療術は苦手で、行動的な彼女から逃れにくくなった事だ。

 結果としてマスカルは片方のピアスを奪われ、「逃がすつもりは無い」と妻の座を捥ぎ取られている。何故だか嫌な気はしない。

 マスカルの不安定な生活にも、グレナンデは自ら進んで一緒に過ごしてくれている。

 いや、むしろグレナンデの方が不安定な生活を楽しんでいる節がある。定住せずに各地を転々とする中で見つかるものも多く、次から次へと興味の赴くままに行動している。今のように、時には体力が先に尽きてしまうこともあるが、それはマスカルが補ってやればいい。体力の使い方はマスカルの方が上手い。

 体力面ではマスカルが補うこともできるが、行動に伴う金銭はグレナンデ自身が賄っていた。

 書物から吸収した知識、学園で触れてきた様々な遺物、繰り返してきた実験などから得られた鑑定能力は学園の外でも発揮されたのだ。

 学園で見てきて物も多く、初めて見る物でも多くは書物の中や類似の物の中から推測することができた。全く見たことがない物は、実験で得た経験から分類、分析することで類似品を探すことができた。時には全く分からぬ物もあったが、経験を積むことにより早く正確な鑑定が出来るようになっていった。

 誰もが持つ能力でないため、どこへ行っても重宝された。それに多少の金銭が伴ってでも。

 正しい物の価値が判明すれば、正当な金額で売却できる。性質の悪い商品や、物の価値が分からぬ輩に不当な金額で分からぬうちに搾取されることがない。鑑定とは別に、鑑定結果を証書として販売することもあった。時に文字も書けず説明もできぬ者にとって、その証書は大変心強いものだった。

 グレナンデが提示する鑑定費用は決して安くないが、高くもない。見ただけで分かるような安物であれば労力も少ないため費用も安い、逆に見たことも無いような代物であれば調べる労力が多く費用が掛かる。費用が掛かりそうなものは結果として高価な代物であることが多い。

 剣ならば鍛冶屋、杖ならば魔術師など、その道の経験が長ければ知っていることも多いだろう。しかし、それらを幅広く知っている事で多くの物を鑑定できることが重要なのだ。それを知らぬ者にとっては、手にしている棒状の物が荷物を運ぶ天秤棒なのか、弦の切れた大きな弓なのか分からないのだから。その正体を知りたいとしても、誰に、どうやって聞いたらいいのかすら分からない。

 マスカルが足を運ぶ場所、組織の支部も無いような小さな町や村ではグレナンデの鑑定能力は喜ばれた。

 扱いかねていた物の正体が分かると、安心するのだった。また、保存を続けるために必要な手段や最適な方法を知ることで劣化を防ぐこともできた。

 場合によってはその逆もある。全く身に覚えのない呪物や石の破棄は、命を助けることになる。

 突然現れた冒険者の鑑定でも、名の知れた学園の肩書は有効だ。学園は出身者の問い合わせに応じてくれる、鑑定の証書と一緒に問い合わせれば少なくとも名前の入った証書は真偽が分かる。学園の肩書は、多くの出身者により確かな価値を持っていた。

 グレナンデは自分が浪費する以上の額を自らの能力で得ているのである。



 額から手を離し、黙って掌を見つめるグレナンデ。

 マスカルは黙って水を差し出した。

 ゆっくりと上体を起こし、グレナンデは一口飲むと揺れる水を見つめる。考え込む様子のグレナンデから水を受け取ろうと手を伸ばしたマスカルの手に、水が掛かる。指から雫が落ちた。

 床に広がる染みを見た途端、グレナンデは目を見開いた。

「マスカル!」

 声を張り上げた。

「行きましょう! 早く」

 水を一気に飲み干し、大きく息を吐きながらグレナンデは小さな荷物を引き寄せる。グレナンデの倍以上の荷物を持つマスカルは、何事かと問いかけた。履物の調子を確かめながら、グレナンデは出口へ向かう。妙な態勢で急ぐグレナンデを支えながら、マスカルは黙ってついていく。

 乱暴に扉を開け放ち、廊下へ出た所で袖を引きながら足早に宿を引き払った。

「水が葉の形に見えたわ。女神の模様」

 宿から馬を受け取り、手綱を引いているのか馬に引かれているのか分からない足取りでグレナンデは答えた。まだ疲れが取れていないその足を払い、マスカルはグレナンデを馬に乗せた。マスカル自身はグレナンデと自分の馬の手綱を持ったまま、一番近い街の出入り口に向かう。

 日は高くない。門が開いている間に街から出なくてはいけない、警備の厳しい街ではないが夜間の出入りには不必要な金銭を求められる。本来は夜間の出入りが禁止されているからだ。

「先に街を出る、方向は後だ」

 マスカルにはグレナンデが言わんとしていることの半分も分かっていない。グレナンデはすぐに全てを語ってはくれないからだ。

 それでも行動に迷いはない。

 宿を引き払い、直ぐに馬を受け取ったからには街から出るつもりなのだ。ならば街を出るのが急務だ、それからの事は移動しながら聞けばいい。今から街道をどう進もうが人の住む場所には辿り着けない。

 水と食料は買っている。馬の足取りも悪くない。荷物は背中にある。

「街から離れるけれど、マナの濃度が高い場所がある。そこまで移動してるかもしれない」

 荷物を馬に乗せ、未だ焦りの見えるグレナンデの後ろに乗り、二頭の手綱を持ち直した。急ぐことは出来ないが、今は距離を稼ぐ必要はない。野宿を出来る場所を見つけて、今日はそこまでだ。

 グレナンデが示す方向は、街道と同じ方向に見える。

 マスカルの手の中で落ちないことを信じ切っているグレナンデは身をよじり、自分の鞄に手を突っ込んで中を漁る。グレナンデを落とさないように、同時に馬の速度を落とさないように心を砕いていた。

「グレナンデ」

 視界の端に映ったそれに、マスカルは呆れた。

「その網は仕舞ってくれ」

 グレナンデは背中を預けたマスカルを見上げ、体勢を正し、そっぽを向いた。



 野宿のために馬を下りた時、マスカルはグレナンデから網を取り上げ荷物に仕舞い込んだ。グレナンデ自身も揺れる馬の上で網を取り出したものの掴んだままどうしようもなかった。

 無駄な行動だとは思わない。

 思いが先走っている、ただそれだけだった。宗旨替えするまで、無駄な行動は少なかった。何をするにしても先に深く考え、そして、表情にも出さすに諦めていた。その冷たい瞳から諦めの色を知るまで、マスカルは思慮深いだけだと思っていた。

 行動を起こす前に諦める、それは辛い事だ。

 欲しい結果が得られないことと、何もせずに得られないことは同じように見える。だが、行動を起こしたことで得られるものは多いのだ。行動することと、しないことは決定的に違う。

 諦めが減った分だけ、グレナンデは表情豊かになった気がする。

「体の調子は?」

 グレナンデは馬から下りても石の上に座り込んでいる。

 額に手を当てて、次に足首へ手を当てる。

「大丈夫」

 自らへの肉体強化を施したのは直ぐに分かった。額と足首に当てた手が僅かに光ったからだ。

 マスカルは溜息を吐いたが、グレナンデを座らせたまま野宿の支度を始めた。一人で手際よく支度を済ませるマスカル。焚火が完成すると、グレナンデの近くに座り込んだ。

 見える範囲に他の火は見えない。

 街道筋だ、見えない距離で同じように野宿をしている者はいるだろう。だからといって合流するつもりは無い。一人だった頃には道連れを探し、焚火を探したものだが、今は必要ない。一晩の火を求められれば断るつもりは無いが、自分達から求めることはないだろう。

 ここは街道筋だ。街の外とはいえ、人の範囲だ。ならば一番恐ろしいのは人間だ。荷物を小さくまとめて、湯を沸かす。

「マスカル」

 不意にグレナンデが呼んだ。

 マスカルは瓶に入った夕食と地図を手に近寄った。差し出された地図を先に受け取り、膝の上で広げてから夕食を受け取った。

 地図を覗き込めるように、丸めた荷を敷き込んだ。