蜘蛛と蝶の話



苦しいなら、吸い出してやろう





 濡れた服と体が重くて、彼は這い上がれず、動けずにただ底が近付いてきた。どうして、何故、ワケが分からない。息ができなくて、苦しくて、口から全て抜けていく気がした。その重たい体を口から抜けると、とても身軽になった。

 口から抜けたのは黒い縁取りの蝶、緑の反射がとっても綺麗だ。親友の顔をしたそれは糸を吐き、牙を秘め、優しく蝶を捕まえた。

「苦しいなら、吸い出してやろう」



お前は馬鹿だ







 背中に受けた衝撃は胸に抜けて奇妙な解放感を与えた。

 肺から抜けた息は、酷く軽かった。勢いよく瞼を開けると碁盤の目の天井、鬼のような形相をした親友だった。先程までの柔らかい笑みは何処へやったのか、目は充血して彼を見下ろしていた。

「やっと起きたか、この馬鹿が」

 彼はその言葉に殆ど脊髄反射で答えた。それは何度も交わされた言葉で、渡しもしたし返しもした。

「うるせぇ、馬鹿」

 ゆっくりと痛みだした頭を抱えて彼は床から身を起こした。白い部屋には目を赤くした親友と、腕を三角巾で吊るしたクラスメイト、包帯を巻いた担任がいた。ハロウィンに居眠りでもしたのだろうか、それとも皆してドッキリを仕掛けているのか彼の疲れきった頭では分かりはしなかった。

 ただ分かったのは白いブーツを履いた親友が足げにしてきた事だけだった。

「馬鹿って言う奴が馬鹿なんだよ。ばーかぁ」

 声が泣いていた。



 さっきは口から糸を吐いていた親友が、今度は合成革張りの椅子に座って毒を吐いていた。スチール製の松葉杖を椅子の背に引っ掛けて、重たいギブスを床に擦りつけて、彼の髪を引っ張った。

「さっさと起きねぇから、とっとと永眠させてやろうかと何度も思ったぞ」

「お前はどうしたいんだよ」

 彼が医師の質問に幾つか答え、自由の身になった途端に親友は絡んでいた。赤い目の下は涙で浮腫んでいた。

「嘘、嘘。だって『今日こそ起きる』って毎日病室に通ってたんだもん。絶対に照れ隠し。顔見ればバレバレ、私が保証してあげる」

 三角巾で手を吊るしたクラスメイトが、自販機から取り出したパック牛乳を親友の頬にさしつけた。それを奪うように受け取り、親友はストローを刺した。

 彼はまだ飲み物を選ぶ権利すらない。医師に指定された飲み物はまだ支給されていない。

「てか、お前が俺より軽傷ってのが許せねぇ。窓から飛べ!」

 無茶苦茶を言う親友とクラスメイトは牛乳を飲みながら彼の記憶を少しずつ修正していった。

 二組の親友は確かに前から二つ目の二号車に乗っていて、バスが追突した衝撃で片足にヒビが入った。そして一組の彼は最前のバス、一号車に乗っており掠り傷程度で今日まで眠っていたという事。

 バスの衝突は確かに起こったものの、現時点で死者はバスの運転手以外におらず被害は彼が知っていたものよりも小さかった。事故原因は相手側運転手の心臓発作で、途中から意識が無かったということらしい。

 事故から眠っていた彼が知っているというのもおかしい話だが、毎日通っていた親友が吹きこんでいった事を夢で覚え間違っていたという事になった。

 それでも彼には納得できなかった、夢に出てきたのは確かに友人の形をした変な生き物で、夢はあまりにも辛かった。それに今でもハッキリと思いだせる水に落ちた感覚。起きた途端に消えてしまうのが夢だったと、彼は何となく思った。

「でも、私もその夢見たかも。皆してチョウチョになって飛んでいく夢」

 残り少なくなった牛乳を吸い上げて、クラスメイトは呟いた。その視線は天井にあるのだが、どこかを見つめているのではなく、ただ上を見上げているだけだ。照明の光が照らす白い天井は白々しい。

「空に向かって飛んでいくんだけどね、途中で大きな蜘蛛の巣に引っ掛かって、糸でグルグルに巻かれるの。それで起きたら手がグルグルに巻かれてたと」

 折れているというその腕を軽く叩いて笑って見せた。大なり小なり一号車、二号車に乗っていた生徒は怪我をして入院をしているそうだ。学校に戻してもよい頃合いを見定めているとも、現在も行われている病院授業を簡略化するためだとも言われている。起きたことに彼は少しだけ後悔した。休日に惰眠を貪るのは嫌いではない。それでも起きてしまったので仕方がないと悲しくも納得した。

「仕方ないな、世界が俺様を求めてるからなぁ」

 彼の言葉に親友は微かに笑った。

「お前は馬鹿だ」



終わり