蜘蛛と蝶の話



何で飛ばなかったの?





 周囲が日常生活と事故との合間を彷徨っているのが誰の目にも分かった。触れる訳にもいかず、離れるわけにもいかない閉鎖空間の学校からは転校が相次いだ。それは学年を問わず、周囲の学校へと散ったものの腫れもの扱いは更に酷くなった。

 本人達にも周囲の者達にもどうしようもない状態が続いていた。

 バスの中で叫んだ学生もその状況に溜息が洩れた。

 何故ぶつかる前に声を上げたのか、それは一体どういった状況だったのか、未だに双方のバスが見えなかった理由が知れない中、何度も教師と警察に説明をして辟易していた。

 彼自身どうして見えたのか分からなかった。

 まるで当然といった様子で見ていた。危ないとは思いつつ夢の中を彷徨っていたのだ。バスが正面に見えた途端に眠気は彼方へと吹き飛び、引きつった声が口から走り出していただけなのだ。

 何故、誰も気付かないのだろう、と。

 彼自身も立ち上がってしまったせいで前の椅子に突っ込み右腕を骨折した。

 同じバスの中では重い方だが、前や前の前のバスに比べれば怪我の程度は遥かに小さい。

 彼自身は前の座席に突っ込んだ衝撃で気を失い、惨状は殆ど見なかった。それを幸運だと言う者もいる、しかし本当に幸運だと彼は思っていない。

 何故なら前のバスに親友が乗っていた。バスに酔うからといって前方に乗っていたはずだ。

 これから将来の夢に前進するために進路も定め、目標の大学に入る為に努力を始めていた。それがどうして、こんな結果になったのか全く理解できなかった。同じクラスなら隣に座っていた筈の親友は持っていた携帯から本人だと確認された。

 日々時間だけが過ぎていくが、どこかでいつか見たような夕焼けや教室は確実に損失を続けてくる。同じクラブで、同じ帰り道で、同じ顔が隣にいたはずなのにそれが突然失われた。

 潰れた携帯だけで行われた本人確認に涙は出なかった。

「殺しても死なないって言ってたじゃんか、よ」

 夕陽が長い教室で一人呟いていると懐中電灯を持った警備員がドアを開けた。事故以来教室に残る事も、学校に残る事も固く禁じられた。

「今出ますから」

 枕代りにしていた鞄を持って警備員の隣を通り抜けて教室を出ようとした時、不覚にも警備員の顔が親友に見えた。妙に大人びた物言いをする時があるから、年齢査証だとからかっていた。その所為かもしれない。

 頭を振って去ろうとした時に警備員が声をかけてきた。

「ちょっと待って」

 振り返ると、そこには警備員服によく似た制服を着た親友がいた。何度も瞬きをして目をこすり確かめるが、やはりそこには親友がいた。

 少しだけ真面目な顔をして夕陽を背負った姿はまさに在りし日の姿そのままだった。

「折角退院したんだから、祝えよ」

 視界が急に潤んだ。



 今までどうしていたのかと問うと、微かに笑った。いつもと同じ帰り道、同じ顔が隣にいる。損失感が急に満たされそれは彼の目から溢れた。

「いつ退院したんだよ、どこで入院してたんだよ」

「それはな、企業秘密だ」

 彼にとって本当はそんなことはどうでも良かった、もう二度と会えないと思っていたのに会えた。それだけで嬉しかった。他人には言ってはいけないだろうけれど、心の底から嬉しかった。

 最近はめっきりと減った体育会系のジョギング、同じ土手を通って、橋を渡ればそこで「また明日」と言って別れる。前と同じ、全く同じ状況。同じ日々が、またやってくる、飽き飽きしていた筈なのに今は何故か嬉しい。

 橋の真ん中で親友は欄干に手をついて、沈む夕日を見ていた。片腕だけを乗せて同じように見ていた。

「なぁ、あの日さ。お前、叫んだろ?」

「まぁな」

 不意の問いに反射的に返していた。どうしてそんな事を聞くのか、答えた後に気付いた。それに、どうして叫んだ事を前に乗っていたのに知っているのか。

「お前さ、何で飛ばなかったの?」

 まるで無傷の親友は袖を掴んで引いた。手にしていた欄干は消え去り、橋からスルリと体が抜けた。親友は笑っていた。

「蝶が羨ましいって言ってたじゃん」

 大きな水音が響いた。