クエスト名:神の吐息

5.食事は大事



 深く息を吸い込む。そして吐き出す。

 パステルが嗅ぎとっただろう匂いは判別できた。汗と血と薬の匂い。どれも嗅ぎ慣れた匂いで、慣れたくもなかった匂いだ。特に薬の匂いが新しい、手当の類に使われる薬ではない。

 使用者を意志の無い人形にしてしまうような薬か、そうでなければ術の触媒に使われた薬か、どちらにせよ自らの意思を取り戻せる代物ではないだろう。これが演技なら彼らはもう少しましな生活が送れただろうが、既に手遅れだ。

 目の前でパステルが様子を窺いながら刃を動かす。ランタンからの光を反射させて他に何かいないかを確かめているのだ。そして白眼を剥いている男達の目にも光を反射させるが、何の反応もない事を確かめただけだった。生物なら多少の反応があるが、皆無とあれば遠慮はいらないだろう。

「薬かしら? 術とすれば何があるかしら?」

 振り返らぬままパステルは誰ともなく訊ねる。

 自分だけに向けられた言葉ではない、二人きりなら自分に向けられるが他に魔術を齧るものがいればそちらにも訊ねる。今回の場合、パステル以外がそれに当たる。

「幻惑か、精神剥奪か、ましな所でそんなものでしょう。可能性は低いですが、自然発生した死霊かもしれません」

 幻により相手の行動を操っているのか、精神を何かによって乗っ取られたのか、正気に戻る可能性がある面倒な答えを返す。

 未だに魔王が乱立していた時代の余波なのか、誰かの呪いなのか知れないが、ある条件が揃った場合に死体が動き出す。それを死霊と呼ぶ。その死霊を意図して作り出し使役する者を死霊使いと呼ぶ。魂の冒涜者が近くにいる可能性は否定したかった。

「いいえ、違う。この薬の臭いは死体操作術の触媒に使う物。どこかに死霊使いがいるわ。新鮮な死体を手に入れて浮かれている死霊使いが」

 何故か、グレナンデは楽しそうに否定する。その答えはこの状況で、有り得る、そして毛嫌いされる答えに他ならない。

 死霊使いは死体を操る魔術師。神への冒涜だ、死者への冒涜だ、そんな事はどうでもいい。単純な生理的悪寒が背を駆け抜ける。

 生を終えた者達を無理矢理に動かそうと考える輩と同じ輩に見られる、それが何よりも耐えがたい。多からず知識が乏しい者達にはそのように見られる。墳墓などに入り内部の調査を兼ねて収入を得ているのは確かだが、墓荒しをしているわけではない。それなのに、魔術を扱えて、墓場に行くだけで死霊使いされたくなどない。

 興味があるのは副葬品や知識だ、死体なんてどうでもいい。

「どこかで様子を見ているだろう。探し出さなければいけないな」

 細く、反りのある片刃の剣を抜いてマスカルが一歩前へ出た。

 もう一歩、軽く踏みこんだ途端、赤い飾りが付いた肘から先が宙を舞う。それは近くにいた男の腕だった。肘から先を失い、血を流す男の様子は変わらない、流れ出る血の量も少ない事から既に心臓が停止しているとみて間違いないだろう。

「やはり、死体ですか。ならば遠慮はいりませんね」

 ほんの少し残っていた躊躇いが消えた。小さく溜め息をつく。

 今度こそ完全なる眠りについてもらうために火炎の魔法で遠くの者を狙う。より多くの光源を得る為、そして効果的な除去のために。多くの光源は相手の視野を広げる事になるが、こちらから見えなければ仕方がない。

 パステルが盾を構え、剣を突き出して正確に首を狙う。喉を潰され口から音らしきものが出たがそれだけで、苦しむ様子はない。悪寒が背を抜ける。

 倒れない男にもう一撃パステルが加えようとした所に赤い光が走る、光は男の頭を直撃し、今度こそ倒れ地に伏し殴られた箇所が灰となる。

 驚いたパステルが光を走らせた者を見返す。接近していたのは分かっていただろうが、「まさか杖で殴るとは想像していなかった」と目が語る。

 ランタンの光を反射する、先端に赤い宝石が付いた杖をグレナンデは持っている。杖の先端で、宝石の持つ色ではない赤が付着している、男を殴った時に付いたものだ。それを振り払うように杖を振り、前に出て、再び頭部へと振り下ろす。

「ちょっと、危ないわよ! 一人で前に出るんじゃないわよ!」

 前へ前へと出るグレナンデを追い、パステルも前へ出る。

 確かに、司祭であるグレナンデの攻撃なら死霊に効果的な攻撃が出来る。

 死霊は既に死んだ身体、剣や槍で攻撃しても残った部分が襲いかかってくる。対して、聖職者達は神の加護によって死者を浄化できる。だからといって死霊の群れの中に単独で向かうのは無謀だ。効果的な攻撃が出来ようとも攻撃を受けない保証はどこにもない。

 さっきもパステルが咄嗟に追わなければ危険だった。相手は見えているだけではない、どこかに死霊使いがいる可能性は高いのだ。

 もしかして、と不安がよぎる。

 グレナンデは自分を囮にしておびき出そうとしているのではないか。そうだとしても、そう簡単に出てくるはずがない。

 自分が一人に火球を撃ちこむ、マスカルが一人の首と胴を切断する。

 まだ白眼を剥いた者達は立っている。

「こっちが食事の途中だって事、分かってやってるんじゃないでしょうかね? 凄まじく迷惑なんですけどね」

 もう食べかけの夕食には興味がない。死霊を相手にした後で摂ろうと思わないが、少しは自分の辛さが伝わるかと試してみたが効果は無かった。

「なんか恨みでもあるのかしらね。それとも死霊使いの浮かれ過ぎ?」

 笑えない冗談を吐きつつも、段々と鋭くなる眼光には疲労が宿っていた。

 マスカルとパステルが切り払い、グレナンデが浄化し、自分が焼き払う。死霊の全てを灰にする前に死霊は段々と動きを鈍くし始め、動きを止めた。

 それでも追いはぎだった五体の死霊を倒して地面に転がすと、それきり動かなくなった。パステルが剣先で突いても、先ほどまで動いていた死霊は動かなかった。

「新しすぎる死体が死後硬直で動かなくなったのか、それとも死霊使いが諦めてくれたのか知りませんが、今の内に盛大な火葬といきましょう」

 今自分が出来るのは、彼らに安らかな眠りを与える事だけだった。マスカルとパステルが剣先で死体を集め、グレナンデが祈りを捧げる中、火を放った。

 明るい炎の光から移動し、途中だった夕食を無理矢理腹に収め、交代に休みを取った。その夜は朝日が照らすまで光が不要だった。



***



 翌朝、道に燃え残った骨があった。だが、それも風に流されて気にならない程度だった。

 朝食前に馬を走らせた。流石に同じ場所で朝食をとろうと言い出す者はいなかった。陽が天上に上がりきる前に、パステルが見つけていた地図に載らない小さな川に辿り着いた。

 そこで顔を洗い、冷たい水に鼻の奥が痛くなり何故か水は少し塩辛かった。

 川辺で一休みし、パステル達のもとへ戻ると、マスカルが今まで見せたことも無い形相でグレナンデを取り押さえていた。

 小さな鍋を取り出し、水を入れて、火にかける直前のように見える。自分が顔を洗いに行っている間に何が起きたのかパステルに尋ねるが、パステルも首をひねるばかりだ。

「グレナンデが『今朝は私が作るわ』って言ったから、良いわねって言ったのよ。そしたらマスカルが取り押さえて、ご覧の通り」

 昨夜の汗を落とす為に髪まで洗ったのか、パステルは肩に布を巻いて濡れた髪を乾かしている。

 ついでに鎧も脱いでしまえば、と言いたかったが何処で何が起こるか分からない時に脱ぐわけにもいかないだろう。夜も鎧の間に綿を詰めて寝ている、胸の部分に布を入れているのはいつもの事だが本当は暑くて仕方ないのだろう。

 こんな時、自分はそんな重たくて暑苦しい物を身につけなくて良かった、と心の底から感じる。他人の不幸は蜜の味がする。

 しかし、取り押さえられているグレナンデが不幸なのか、取り押さえているマスカルが不幸なのかは分からない。どちらも真剣に取っ組み合いをしている、素手とはいえ前衛のマスカルと張り合うグレナンデの力も如何なものか、どれ位腕力があるのか考えても状況は変わらないので訊ねる事にした。

「何があったんですか?」

 これにグレナンデが叫ぶ。

「朝食の準備を邪魔するのよ! ゼラニウムも何とか言って」

 マスカルが反論する。

「俺はまだ死にたくない! お前は止めろ。君だってそうだろう?」

 何をどう言えというのだろうか、この夫婦は。

 夫婦喧嘩ほど面白くないものは少ない。仲が良過ぎて喧嘩をするのだ、一人身には見せつけられているようにしか邪推できない。

「朝食ごときで死にたかないですが、ここにあるのはまともな食材ばかりですから大丈夫ですよ。昨日と同じ食材でまず死ぬことはないでしょう」

 間を取り持とうと、死にたくはないが今回は作らせても大丈夫だろうと説得する。夕べの台詞から、どうせ薬品を扱った後の鍋で煮炊きをした事や、毒物を間違って入れた事があるのだろう。基本的にやってはいけない事だが、やった事があるのだろう。

 マスカルはそれを警戒しているのだろう、しかし今の食材なら安全だし痛んでもいない。味付けさえ間違わなければ食べられないハズは無い。実際に夕べ食べた適当鍋だって食べられたのだから、食べられないハズはないだろう。誰か見張っていれば確実で安全に食べられるハズだ。味は知らないが。

 そしてグレナンデが笑顔で作り上げたスープを飲み、グレナンデを除く全員がスープを吹き出した。

 口の中を何度も水で漱ぐ、それでも舌に味が残って違和感が支配する。

 口を押さえてうずくまる、楽な姿勢を見つけようと動く度に、腹から何か出そうになる。涙をバラバラと地に落とし息を詰まらせた。

 その状態からいち早く脱出したマスカルが荷物から瓶を取り出して一気に嚥下した。

 同じ瓶を取り出して封を切り、苦しむパステルと自分の手に握らせ飲むように言った。それに従って喉を上下させ飲み下すと口から違和感が流れおちた、と同時に腹からの衝動が消えた。中身を知らずに飲んだが、この飲み物は何だったのだろう、と貼られたラベルを確認すると背筋が凍った。

「解毒薬ですか」

 昨夜自分が使った同じ食材と調味料で何故毒物が出来るのだ。自分は見張っていたのだ、怪しい物を入れたハズはない。例え混入したとして、何故グレナンデにだけ効かない。

 動物には自分の毒物に免疫があるように、彼女自身が作った物に耐性があるのか、そもそも毒物が効きにくい体質なのか。

 身をもってマスカルがグレナンデを止めた理由を知り、もう二度と料理をさせるものかと鍋を死守する覚悟をした。朝食なんぞで死んでたまるか。

 鍋に解毒薬を注ぎ、勿体ないとは心の隅で思いつつ捨てた。

 瓶入りの保存食にスプーンを突き込んでよく噛みしめて食べる。夕べ食べた物と同じはずなのに、今朝はとても旨く感じられた。それもこれもグレナンデが食材を毒物に変えてくれたおかげなのだが、決して口にはしなかった。



**



 朝食に悶えた後、早々に片付けをして川の源を探す為に移動を始めた。地形の変化なら遡れば多少は場所に検討がつけられる。

 川は段々と川幅を細め、遂には山から下りてくる沢へと繋がっていた。道もない山中に馬で入る事は出来ず、先に自分とマスカルが沢を見に上がることにした。

「それほど遠くへは行きませんから、少しだけ待っていて下さい」

 馬と荷物をパステルとグレナンデに任せ、最低限の荷物だけを持ち山に分け入る。さ程急ではないが、土と岩が混ざった足元は濡れており滑り落ちてしまいそうになりながら山を登る。

 苔が無いだけましだったが、川の源流なら多少はあってもいいはずだ。そういえば川には魚もいなかった。地図に載らないほど小さな川だと思っていたが、最近出来たばかりの川なのかもしれない。

 ならば山崩れが原因で水脈が変わったか、沢の流れが変わったのかもしれない。本当にパステルの野性的な勘が当たった可能性もある。

 マスカルの背を追うように山を登っていたが、勾配も緩やかになり近くの木の枝に掴まって背後を振り返る。四頭の馬と、二人の姿が見て取れる。特にする事がないのか座り込んで何やら話をしているようだ。

 足元を確かめながらまたマスカルの背を探す、その姿が見えない。頭を巡らせて探すが見つからない、まさかこの短時間で置いて行かれたのかと焦る。

「おい、もう少しだ。上がって来てくれ」

 頭上から声がした。近くからしたことから角度で見えないだけだと安心して、声の方向に急ぐ。すぐ上で斜面が途絶え、平らに整備された場所に出た。

 その場所は意図的に作られており、斜面の一部を切り取ったような形になっていた。

 ほぼ垂直に切り立つ斜面にトンネルがあった。その直径は自分立ったまま楽々入れる程でかなり大きい。手を伸ばしても届かない程に大きい。水はそこから流れていた。

 トンネルは更に奥に続いており、暗くてよく分からないがかなりの距離があるだろう。近くに落ちている石を拾い上げ、奥に投げ入れると硬質な音が跳ね返ってきた。

「何をしているんだ?」

 マスカルが不思議そうに問いかけてくる。

「先がどうなっているのか確かめているんですよ。石か何かで出来てるみたいですね、急に崩れるような物でもなさそうです」

 それに顔をしかめてトンネルを見る。眉を寄せて目を凝らし、何かを探しているが、見つからないようで腰に手を当てて頭を突き出す。

「何か……あるのか?」

 その質問でマスカルの行動に対する疑問が氷解する。

 この白いトンネルが見えていないのだ。目の前、しかもこれほど大きな物を見逃すハズはない。

 斜面に降りて折れそうな枝を探したが、それより手前に落ちていた枝を拾い戻った。枝の端をトンネルの中に入れる、何の抵抗もなく入る。それに驚いたマスカルが警戒しつつトンネルに手を入れる。自分には何もない空間で手を上下に動かして様子を確かめているように見える。

「幻視の一種でしょうかね。貴方には何に見えるんですか?」

 手を引いたマスカルは自分の手を見つめたまま答えた。

「ただの土の壁に見える。今もだ、しかし感触はなかった。君には何に見える」

 持っていた枝を投げ入れ、その音を確かめる。枝は古かったのか弾力のある音が内部で反響している。この音さえもマスカルが聞こえているのか怪しい。自分に見えているこのトンネルは幻覚ではないらしいが。

「洞窟のような白いトンネル。奥から水が来ています」

 幻により周りから見つからないように隠されたトンネル、その奥から少量の水が流れていた。

 誰かが意図的に隠したのは明白で、この先に何かあるのではないだろうか。もしかしたら神の吐息なる音源がこの奥にあるのかもしれない。そうでなくとも隠したい何かがあるのは確かだ。

 少しだけ口の端が上がってしまう、他人が隠したがるものを暴きたくなるのは誰しもが持つ一面だ。暴けるかどうかは技術だ、そして技術は役立てるものだ。自分は多少なりともその技術を有している。

 木にロープを結び、途中の木に掛けつつパステルとグレナンデを呼びに斜面を下る。

 少ない説明の後、馬を残し必要な荷物を選び出す。夜になる前には戻るようにし、荷物を担いでロープを伝い斜面を上る。

 案の定、パステルには白いトンネルは見えず、グレナンデは奥を覗きこんだ。幻などを看破する能力は魔法に長けた者が高いのは当然だが、時々何の知識も無いが野生の勘だけでなんとなく見破ってしまう者もいる。

「な~んにも見えない」

 顔をしかめてパステルがトンネルを覗くように見えるが、多分マスカルと同じようにただの土壁にしか見えていないのだ。

 トンネルの前で手を振って見せるが、それでも認識できないのか口を尖らせる。石を中に放り込んでも同じだった。

「ここに大きなトンネルがあるんですよ」

 自分もつられて眉をしかめた顔になる。それが気に食わなかったのか、パステルは横から自分を中に蹴りいれた。有り難い言葉付きで。

「なら、あんたが入ってみせなさいよ」

 パステルの思惑通りにトンネルの中に転がり込み、水音を立てると反響して奥まで伝わっていく。

 白い内壁に手をついて立ち上がると、荷物を担いだパステル達が筒の中に入ってきた。

 左右を見回し、外と中を見比べ忙しそうに首を振るのはパステルとマスカルだ。対してグレナンデはランタンに火を灯して辺りを照らしだす。昼間とはいえ内部に光が届く範囲は限られている。

 ランタンは先に油の量を調整して太陽が天上に昇りきった頃に一度切れるようにした、洞窟など外部からの光が届かない場所で時間を知る数少ない手がかりだ。

「奥まで真っ白。汚れが全然ないってのがちょっと怖いわね、もしかして誰か掃除でもしてるのかしら」

 内壁を叩いても塵が殆ど落ちてこない、今は水が流れているのに水で削られた跡もない、その事にパステルがゾッとしない事を言った。

 汚れが無いのは新しいのか、何かが通って掃除しているのか。通っているとして、ただの通路なのか食事のためなのか。どちらにしても、まめに行われているのは確かだ。

 何かが食事のために通行している可能性は考えたくない、トンネルの大きさからいって、かなりの大きさだ。もしも出会ってしまったら火の壁で諦めさせるか、マスカルかグレナンデの術で時間を稼ぎ走って逃げるしかない。逃げられたらの話だが。

 最悪の事態は袋小路に追い詰められてしまう事だ、転移の術でも持っていれば話は別だが、グレナンデやマスカルが転移の術を持っているとは思えない。悲しきかな、自分もそんな力を持っていない。

 転移の術は便利で、一瞬にして別の場所へ移動することが出来る。しかし、転移の術は高等な技術を要し、使用したとしても壁の中に移動することもある。当然、壁の中に移動すれば出ることは叶わない。だからこそ、転移の術を使用する者は多くない。

 更に、安全な何かが掃除をしてくれていると考えるには意地の悪い罠を見続けている、こんな狭い空間で落とし穴、左右から槍、壁面に畏怖を与えるシンボル、止まると転がってくる岩。逃げ場のない空間は嫌いだ。

「奥から風が通っているようだな、多分どこかで地上に通じている」

「どこかで次元が捻じ曲げられていたり、鼻息の荒い巨躯がなければ」

 最悪の事態を想像したのか、話題を変えようとしたマスカルの言葉にすかさずグレナンデが最悪の可能性を示す。

 次元が捻じ曲げられていてもどこかに通じているのは確かだ、それが遥か雲の上なのか、凶悪な生物が住む世界なのかは分からないが。もう一つの鼻息の荒い巨躯がいるとすれば、それがまめに掃除をして通路を白く保っている原因かもしれない。どちらも避けたい選択肢に変わりない。

 誰かが意図的に隠したのならばその可能性が無いわけではない。だが、それなら入口を塞いでおけば良いだけだ。

 入口を見えなくするだけより余程簡単なはずだ、出入りが出来るのには何らかの理由があるはずだろう。

 そうやって自分に言い聞かせ、水音が反響する白いトンネルの奥を目指した。



**



 白い壁面に黒い影が映る。トンネルが大きいおかげで足元も安定しているが、足元を水が濡らしているので座って休むには不適だ。少々勾配があるのか、水の所為なのか足が重くなる。延々と続く白い壁面に嫌気がさしてくる。小さな溜め息さえ反響してしまう程の無駄な構造は一体何の目的で作られたのか。

 僅かな風があるだけで他に音らしいものはない。

 あえて言うなら水音がしている。これは自分達が水を動かしているからで、誰も入らなければ水は音も立てずに流れているだろう。

 奥に何か音を立てる生物がいなければの話だが、そんな生物に会いたくない。しかし、生物が音を立てて神の吐息を成しているのならば止まった原因をなんとかしなければならない、自分達の力でできる範囲の原因だと助かる。

 長い沈黙と思考の後、顔を上げると正面にも白い壁が見えてきた。行き止まりか、そう思っても壁まで行かなくて分からない。

 入口のような幻覚で見せられる壁の可能性もあるのだ、そうでなくとも隠し扉の可能性は十分に考えられる。

 しかし、そのどちらでもなくトンネルは上方に向けて湾曲しており、緩やかに折れ曲がっていた。太い針金を半分に折り曲げたような、尺取り虫が長さを測るような形で曲がっている。水は左右の壁面を伝い下に流れていた。

 緩やかに曲がった壁面からよじ登るのは難しい。しかも、白く汚れのない壁で足をかける場所もない。ロープの先に金具を付けて投げ上げてみたが、何処にも引っ掛かりそうにないことだけが分かった。剣先も刺さらなかった。

 何が起こるか分からない状況では出来るだけ魔法は使いたくないのだが、渋々術の準備を始めるとパステルが肩を叩いた。

 何か良い案があるのだろうかと少しの希望を向ける。だが、当のパステルは黙って情報の白い壁を指し示すだけで何も言わない。

 見上げた所で何も見えない、眉を寄せて「何が言いたい」のだと無言の圧力をかけてみるが、パステルは自分の身長とパステル自身の身長を比べるように手で頭を触る。そこでやっとニコリと笑った。

「あんたが下ね」

 つまり、足場になれと。



 重たい鎧を装備したパステルを肩に乗せて立ち上がるのが貧弱な自分にとってどれだけ大変なことなのか筋肉の塊は理解してくれない。逆に、パステルの上に乗れと言われても決して乗らないだろう。後々の復讐が恐ろしいのと、戦士とはいえパステルに乗っかるのは気が引ける。

 顔を真っ赤に、息を切らして立ち上がるとパステルは自分の髪の毛を引っ掴み、肩の上で立ちあがった。

 足が震えてきてバランスが取れない、しかし自分が今バランスを失えば肩の上のパステルが落ちてくる。総重量など教えてくれない、ただ骨の一本で済めば運のいい方だろうとしか分からない。

 自分の為にも決してパステルを落としてはいけない。

 言い聞かせてみても足の震えは止まらない、この我慢がいつまで続くのか震えているとパステルの片足に重心が乗る。同じ方の足に力を込めて踏ん張り、金属が肩にのめり込んで痛みだした時に片足が離れた。少ししてもう片方の足も肩から離れた。

 つま先が弾みをつけて離れた拍子に、後ろへ倒れそうになった所で背中を支えられた。

「助かったわ、ゼラニウム。よく頑張った、だからロープ頂戴」

 パステルが倒れそうな自分に珍しく上から褒め言葉を吐いたと思ったら、やはり裏があった。マスカルもグレナンデもいるのにワザワザ自分に頼むのは嫌味からだろう、そうに違いない。

 貧弱な男だと思って馬鹿にしているに違いない、肩車の後にロープも投げられないような奴だと。

 過呼吸を気にしながらロープの入った荷物ごと上に放り投げた。それは無事にパステルの手元に届いた、小さな声が上がったのが何よりの証拠だ。

「荷物ごと投げるんじゃないわよ」

 そう言いながらもパステルはロープを下ろす。

 先に荷物を結びつけ引き上げるように促す、何度かロープの上げ下げを繰り返している内に呼吸も正常に戻り最後のお荷物になる準備ができた。

 荷物が全て上げられ、次にグレナンデが上がることになった。体格からパステル一人で上げられそうなのがグレナンデだけだったからだ。

 上でもロープを結びつける場所も引っ掛ける場所もないようで、純粋に腕力と体重でパステルが引き上げるしかない。グレナンデが上がれば、少なくとも重石にはなるはずだ、それから自分やマスカルが上がるにはそれが一番良いだろう。

 この壁が平面で、引っ掛かる個所があるならばこれほど面倒なことにならずに済んだだろうに、肩の痛みを撫でながら考えた。

 グレナンデがマスカルに担がれロープにしがみつく、マスカルの肩に上りロープを伝う。ロープもパステルが少しずつ引き上げており早々に上がりきった。

 次に最後のお荷物たる自分が昇るのだが、まだ握力が回復しきっていないのが心配でならない。何度か握って確かめるが自信が持てない、途中で力尽きては無駄な労力が増えるだけだ。とはいえ待ってくれはしない。

「さっさとしなさい! こっちの時間まで無駄にするつもり」

 よく響く壁がいつもより大きな声を伝えた。意を決し、マスカルの手を借りてロープを掴みしがみつく。ロープが思った以上に速く引き上げられ、掴まっている時間がやけに短かく感じられた。

 それほど待たせてしまったか、パステルの顔を伺うと驚いた顔をしていた。「全く予想していなかった」とばかりにグレナンデを振り返る。対してグレナンデは何事もないようにロープを下ろし、自分を引き摺り最後尾に置いてロープを握り直した。

「早くしましょう」

 グレナンデの言葉に何拍かおいて頷いたパステルがロープを引く、流石にパーティ最重量のマスカルでは時間がかかるだろうと力を込める。しかし、力を要せずにロープは引き上がりマスカルが姿を現した。

 パステルの腕力が上がったのかと思ったが、それは考えにくい、最も可能性があるのはグレナンデがパステル並みの腕力を持っている事だ。

 昨夜、死霊に殴りかかった事、今朝、前衛の侍であるマスカルと取っ組み合いをしていた事から考えられなくもない。だが、通常は考えない、司祭が戦士並の腕力を持っているなどとは。

 立ち上がれる位置にまでくると、マスカルはロープを放してゆっくりと立ち上がった。それを確認した上でロープを巻き、荷物に仕舞い込む。各々自分の荷物を担ぎ、再び白い壁と向かい合った。ただグレナンデの細腕をマジマジと見てしまうようになったのは否めない。

 グレナンデは肉体強化を得意とする女神リーリアリに仕える司祭だった事を思い出した。

 一時的に筋力を上げる事で戦士のような腕力を手に入れる事も難しくないはずだ、自分が過呼吸で苦しんでいる時にでも使用したのだろう。

 そうでなくてはあの細腕で、いや筋肉が絞られていればあの細い腕でも可能なのか、パステルもそれほど太い腕をしているわけではない。それとも腕ではなく足腰が強いのか、そんなにたくましい身体には見えない。

 自然とグレナンデとパステルの体を見比べてしまう。それに気付いたパステルが後ろ髪を引っ張った。見比べられている理由も分かったのか、肘を曲げて腕を見せつけた。

 その腕を掴んで自分の腕と比べた。少ない自信が減少しただけだった。