クエスト名:神の吐息

6.トンネルの中にて



 何度かトンネルを上り終えた後、天上に穴が開いている場所に出た。煙突のように白い筒が上に向かっている、先は暗くなって見えない。穴から僅かに風が入っており、空気穴だと予想できる。

 穴が定期的に続いた後、今までなかった土が足元を汚していた。土は奥へ向うにつれて多くなり、遂には完全に行く手を塞いでいた。

 行く手を塞いでいたのは土だけでなく、その手前で羽を生やした子供ほどの大きさしかない生物が一匹でニヤニヤ笑っていた。

 大きな目と口、耳は尖っており顔の大きさに不釣り合いだ。肌も薄いピンク色、お世辞にも可愛いとは言えない。

 頭には小さいながらも角が生えており、下等なりとも悪魔のそれである主張をしていた。

 小さな人間の身体に、蝙蝠の羽とトカゲの尻尾、雌山羊の様な角を持つ下級悪魔。

 どこからか湧いて出る悪魔は高い魔法抵抗力と軽減の能力に加え、身体能力も一般人の比ではない。地上において頂点の竜と互角程度の力を持つとされるが、竜と同様に個体差が激しい。

 目の前にいるのはしばし石像のモデルにも利用される低級な悪魔だ。地上で出会う悪魔としては珍しい類ではない、むしろ他の悪魔などと比べれば多い程だ。以前に遺跡で対峙して退治したこともある。その時はパステルと二人だけではなかったが、今はマスカルとグレナンデがいる、退治、いや生け捕りも不可能ではない。

 悪魔の中では弱い部類に入るが、脅威であるには違いない。生体の詳細など分からない部分の多い種族であるから、その肉体を街へ持って帰れば竜の幼生共々高く売却が出来る。悪魔が持つ知識は価値ある物が多い、特筆して高位の悪魔が与えてくれる知識は魂の対価を払っても欲しがる者が後を絶たない。しかし、この悪魔は前者の売却の方が高くなるだろう。

 しかも一匹だけ。この狭いトンネルの袋小路で捕まえてください、とばかりに一匹だけで待っている。

 自然と口の端が上がる。体の損傷が少ない程価値は上がる、生け捕りにできればしたいがそれは難しいだろう。頭部だけでも価値はある。

 何故ここにいるのか、居てくれたのか、その理由を吐かせる事が出来るなら聞いてみたいが、多くは望まない。

「よぉく来たな。生きのいい飯が来るのをずっと待ってたんだ」

 口を利いたという事は、理由を吐かせる事も可能だ。喋れる状態ならばの話だが、適当に頑張って生け捕りにしよう。

 しかし、相手の頭の中を読めないなら本当に低級だ。売却価格が低くなる。捕まえ易いという点では利点だが、捕まえる気が失せてきた。

 頭が悪いことは能力の低さを表す、身体能力が高い個体には見えない。殺害して売却しても、生け捕りにして売却してもさほど差が無いだろう。面倒事は少ない方がいい。

 予定変更、殺害して売却しよう。

「私も活きのいい実験体を探していたのよ」

 グレナンデの笑顔が見えた。

 純粋にして残酷な笑み、その裏には単純に実験へ対する好奇心と行為の残酷さを知っている楽しさが混ざっていた。

 こういった者がいるからこそ死体でも悪魔の身体は価値がある。自分は実験より金銭に価値を見出したが為、部屋に引きこもっているよりも外で冒険者をしている方が多い。グレナンデは前者の方が多いのかもしれない。

 もしかしたら、報酬で死体を分けても買い取られるかもしれない。

 竜の血もそうだが、仲間内で売買をすると仲介分が無いだけ両者が得をする。悪魔の死体を売買出来る場所は限られるからその方が手っ取り早い。

「因みに、生け捕りだといくら位ですか? 死体はその半値で考えます」

 グレナンデは振り返らずに指で素早く価格を示した。競りでよく利用される金額の表示方法で、自分も熟知していた。

 自分が考えていた価格と同じ価格で異存はなかった。四等分して、パステルと合わせて半分がこちらの取り分とすれば、低級悪魔の半額がこちらの報酬に上乗せされたのと同じ。

「乗った」

 黙ってグレナンデは頷いた。

 自身の肉体の価格をやり取りされているとは思っていない下級悪魔は奇妙な顔をして見ていた。前に出るパステルが苦笑いして、憐れむような、換算したような視線を向けていた。

 パステルは剣を鞘から引き抜き突き出すようにして構える。マスカルは構えているが、まだ鞘から抜いてはいない。自分も懐の本を取り出し、少ない補助を行う準備はしている、グレナンデは持っている杖を掴み直した。

 それに対してニヤニヤと笑っているだけの下級悪魔の顔は余裕そのものだ。不利な状況であるのに何故笑っていられるのか、ここにいる理由も気になる。

 羽の生えた悪魔は飛行能力を持つ、目の前の下級悪魔も宙に浮いている。しかし、羽が無くとも飛行能力を備えた者もいる。羽を持たず飛行能力を備えた者の方が高位であり、鳥など同じく羽の力により飛行している者の方が下位と見るのが一般的だ。例外などいくらでもあるが。

 なんにせよ羽で飛行していると、空間が狭いだけ動き辛いはずだ。このトンネルは大きいが決して飛行に適しているとは言えない。しかも背後は土で埋まっており逃げ場はない。

 待っていたのは負け惜しみか、それとも何らかの手立てがあるのか。入ってみたら出られなくなった馬鹿じゃないだろうかとも思ったが、下級悪魔に焦りは見えない。

「一応、口が利けるうちに聞いたげる。なんであんたがこんな所にいるわけ?」

 切っ先を向けながら威圧的にパステルが訊ねる。鼻先で笑う悪魔は自慢気に話し出した。

 そして、聞いてもいないのに入口の幻覚を見破り、狭いトンネルの中を単独で乗り込んできたのだという所から話し始めた。単独行動だったのは他の連中が未だ気付いていなかったかららしいが、この下級悪魔が見捨てられていた可能性は高い。

 パステルは「そんなことは聞いちゃいないのよ」と背中で語っている、内心呆れていたが、何故この場所に乗り込んだのかを喋らせなければこの場所に神の吐息があるのかさえ分からない。

 探索対象が分からないと判断に困る。適当に楽器でも渡してしまっても構わないが受け取った金銭の半分程度は働いてやらないと悪い噂でもばら撒かれない。相手は少なくとも商人が多く行き来する町だ。

 商人にとって情報は商品の一部だ、どこで売られるとも知れない。

 これから先、仕事で支障が出てくるのは有り難くない。悪い意味で有名になるのは勘弁願いたい、今まで気をつけてきたのだからこれ以上は嫌だった。今までに、多少なりとも悪い噂が無かったわけではない。

「……そして音がしない事を確認していたら足音が響き始め、ここで待っていた。こいつを準備して」

 悪魔は手と羽を大きく広げた所でパステルに刺された。いい加減、長い話に聞き飽きていたのだ。準備をしていたものを発動させたくなかったのもあるだろうが、一番の理由は話し方と長さに苛立ちを抑えられなかったからだろう。自分も辟易していた所だ。

「てめぇ、話は最後まで聞きやがれ!」

「勝手に黙ったのはそっちよ。あんた結局迷い込んだだけでしょ!」

 また切っ先を向けて指摘すると、悪魔は黙って怒りを溜める。

 この頭の悪そうな悪魔をどうやって料理しようかと迷っている。

 パステルとマスカルに肉体強化、魔法抵抗を付与して接近戦に持ち込み一気に畳み掛けるのが一番だろう。そうでなくとも、ゴリ押しで殴ってもこの状況なら勝てるのではなかろうか、ちょっと頭の良い程度の低級悪魔は肉体が弱い傾向があるからだ。

 本と一緒に投擲武器も取り出す。もしここで神の吐息がなければ他を探さなければならない、できれば魔法は余裕をもって残しておきたい。可能な限り無駄を省く、何処の世界でも鉄則だ。

「ちげぇよ! こいつは退魔の音を出すでっけぇ装置だ。迷い込んだんじゃない、壊す為に先兵として勇敢にも潜りこんだんだ」

 表現方法が多少稚拙だが、目的の物が分かった所で話の長い下級悪魔に喋らせる価値は完全に消失した。

 再びパステルが踏み込んで突き上げる、だが今度は外れた。切っ先を避けた悪魔は背後の土に一声かけると耳を塞いで羽を羽ばたかせた。

 羽の羽ばたきは、その大きさで起こしているとは思えない程の風を巻き起こした。魔法で起こしているのではないので魔法軽減が出来ない。

 服がはためき、体を後ろへと引き下げようとする。踏ん張ろうとしても足元は土と水、傾斜で滑り易くなっている。

 しゃがもうとした時、グレナンデの体が浮いた。

 咄嗟にグレナンデの腕を掴んだ。小さくしていた体が開き、風を受けて足が離れる。

 前方で身体を屈めるパステルとマスカルの姿が見えた。二人なら鎧や武器の重さで飛ばされる心配はない。遠のく二人の先を、開かれた眼は確かに灰色のそれを見た。

 巨大な岩の塊が土をまき散らしながら出てきた。人間を模して造られたというのにどうしても岩の塊に近い、動く石像。石や木など硬い材質の物が好まれる。泥や土のものもあるが、今回の物はその色から岩が材質だと分かる。

 その材質により得手不得手があるが、総じて動く石像は固く白兵戦に強い。だが魔法ならば効率的に致命傷を与えられる。

 動く石像に気を取られていると、ピンク色をした物が二人の上方を飛んできた。低級悪魔、気付くのに少しだけ時間がかかり、殴りかかった拳は宙を彷徨った。既に風は止み、墜落するしかない。この高さから落ちても大した怪我はないだろうが、速さがそれを許さない。もし下方へと繋がるトンネルの湾曲部分で落ちてしまったら直ぐに立ち上がれないだろう。

 そこへ急に後方から風が吹き戻してきた。その風は低級悪魔を押し戻し、自分達を静かに床へと落とした。それがグレナンデの術だと知ったのは自分が尻餅をついた時だった。

 魔術に長けた自分達と、剣術に長けたパステル達に分けられてしまった。

 しかもそれぞれに不得手な相手に分けられ、二対一といえ若干不利だ。これを狙っていたからこその笑いだったのか、その顔には厭らしい笑みが浮かんでいる。

 小賢しい低級悪魔だ。その顔を歪ませてやればきっと気分が良くなるだろう。背後に下へと繋がるトンネルを感じ取りながら立ち上がり、杖を構えたグレナンデより前へ出る。

 羽ばたく低級悪魔からは見えない、身体の影から投擲武器を投げつける。

 大きく動いてそれを避けると空気が動く、すかさずグレナンデが杖で殴りかかるが宙を叩いただけだった。

 打撃武器だと振りかぶる分だけ当たるまでの時間で避けられてしまい易い、しかも杖は基本的に殴る為のものではない。殴る為の物もあるが、グレナンデのそれは殴る為の物にしては先端の宝石が大きい。戦鎚の方が殴るには適しているだろうに、壊れやすい宝石の付いた杖で殴るのかは不明だ。

 どんな理由があるにせよ、今は当たらなければ意味がない。

 今度はこちらの番だ、と言わんばかりに低級悪魔は幾筋かの光の矢を放った。魔法の矢は術者の実力により威力と数を増すが想像を超える程の数ではない。

 だが、当たれば基本的に体力の低い魔法使いには致命傷に違いない、だからこそ回避をするし当たる前に打ち消し、軽減する。お互い魔法に対して長けているだけ抵抗もできる。

 魔法の勝負でどちらが先に致命傷を与えるか、集中力を失うかで勝敗が分かれる。数が多いだけこちらが長く持ちそうだが、背後へは下がれない、相手は飛んでいる。相手の方が回避し易い。

 こんな時、隣がグレナンデでなくパステルであったならと思う。

 こういったモノの場合、自分が相手の気を引きつつパステルがダメージを与える。目や鼻を突き、切りつけ、意識を削りとり魔法軽減を消した所を一気に叩く方法をとりたい。先日の竜の幼生と同じように。

 だが、昨日今日会ったばかりの者。しかも同じ後衛のグレナンデとでは戦術の幅はかなり限られてくる。お互いに攻撃が当たらなければ消耗戦になる、パステルとマスカルが動く石像を倒すか、撒いてこちらの応戦に来られるとは思えない。マスカルが多少の魔法を使えたとて隙があるかどうか分からない、パステル一人で隙を作れるかどうか。

 考えたところで答えは簡単に出そうにない、ならば行動しなければどうしようもない。

 投擲武器を投げつけ、早い魔法を使う。出来るだけ間隔を開けない事で相手の集中力を削っていく作戦に出るが、それがどれだけ有効か知れない。

 グレナンデも追従してくれれば消耗戦に違いないが一撃を与える隙を多少なりとも作ることができるはずだ。

 最悪の場合、武器をナイフに持ち替えて接近戦に持ち込むしかない。使い慣れているとはいえ、自分の力量で当てられるものか不安要素が多大に存在する中やるしかない。

 光の矢が数本宙を走り、低級悪魔の目前で消失した。想像していた結果だが唇を噛む、魔法が無力だと感じる瞬間だ。

 そうしていると、僅かに自分の体から燐光が出で泡のように全身を包み、内側から力が溢れ出るような感覚に襲われる。同じように隣でグレナンデも僅かに光っている、僧侶の補助魔法だ。

 肉体強化の術だが、いくら肉体を強化したところで基本がなっていない自分達では役立て難い。

 役立て難いが役立てられない事はない、こちらで術の効果が分かったとしても相手に分かるとは限らない。術の効果を見破れるほどの相手とも見えない。

 見た目は同じだが術を使用者にそのまま跳ね返すような術もある、それを恐れて相手が戸惑えば隙が出来る。その時に一撃を与えられれば、いや与えなければならない。

 今度はこちらが強化の術をかける準備をする、グレナンデの性格から強化は脅しだけでなく自身が殴る為の術であると考えた方がいい。だが当たった所でダメージにならなければ話にならない。僧侶のそれは肉体を強化し、魔法使いのそれは武器を強化する。

 杖を長く持ち、下からすくい上げるように低級悪魔の死角から殴りつけようとするが、そこは羽を持つ者上手く避ける。どれだけ杖を長く持ったとしても天井ぎりぎりを飛ばれたのでは当たらない。

 天井近くでは上手く飛べないだろうに、羽を多少ぶつけながらも避けつつ隙があれば光の矢を放ってくる。こちらも光の矢を回避、軽減しながら動き回り後方に回り込む。低級悪魔の背後へ、パステル達と合流できる場所へ向おうともするがそうはさせてくれない。

 早い術の撃ち合いで集中力が切れてしまいそうな時、突然の轟音がトンネルを走り抜け足元が震えた。

 パステル達の方から伝わったそれは全身を貫き立っていられない程の振動で、トンネルの中は揺れ、したたか壁に身体を打ちつけた。

 杖を振っていたグレナンデはその勢いもあって後方へと転がるが、無理矢理に杖を下に突き立てて止まった。それと同時に低級悪魔も落下し喚いた。

 眼鏡を押さえて立ち上がると、低級悪魔も起き上がり、水に濡れた体を宙に舞わせる。その身体から滴っているのは水なのか、冷や汗なのか判断しかねる。

 グレナンデは汗と水で額に絡みつく髪を掻きあげ、杖に体をよせながら立ち上がった。頬が紅潮し、体温が高くなっているのが隣にいても分かる。自分も濡れて逆に心地良い程いつの間にか熱くなっていた。しかし、内側が冷め始めている自分がいる。

 素早く武器をナイフに持ち替え、鞘に入ったままの切っ先を壁に当てて引っ掻く、一瞬低級悪魔の体が強張る。その様子を見て確信を持った。

「さっきも、自分が羽ばたいた時も、耳を塞ぎましたね」

 この大きなトンネルが神の吐息だというのなら、その振動で音が出ていたと予測できる。風を通す事で音を鳴らすのが本来の機能だろうが、それ以外にも音を出す方法はある。

 笛は空気の流れで音を出すが、打楽器はその名の通り叩いて音を出す。硬質な物を叩けば音が返ってくる。単なる衝撃波だけなら低級悪魔は落下せずに吹き飛ばされていただけだろう。先程の衝撃で低級悪魔が落下するという形で神の吐息の効果を証明している。

 グレナンデが白い壁面へ杖を横殴りに叩きつけた。



***



 パステルの目にはピンクの悪魔が羽ばたき、風を起こし、目の前の土が爆発したように見えた。声と共に背後の二人が吹き飛ばされたのは分かったが、土から動く岩の塊が出てきた意味は分からなかった。

 準備をされていたのはこれだ、と頭が理解する前に飛びのいていた。岩の塊が先程までいた場所に振り下ろされ、また土が跳ねあがる。

 周りにいるのはマスカルだけで悪魔、眼鏡とグレナンデの姿が見えない。二人と分断された。出来れば二人と合流して、この剣など弾き返してしまう身体の動く石像を何とかしてもらいたいのだが、迎えに行く余裕などない。

 背中を見せれば容赦なく岩の剛腕が唸る。

 当たれば盾ごと吹き飛ばされるのは分かっている、その巨体が体当たりでもしてきて、押し潰しにかかると鎧など紙のようなものだ。

 それよりも、眼鏡達が飛ばされた後ろへ転がられたら逃げ道がない。トンネルは後ろへと傾いている、下がればその巨体が傾斜に任せて眼鏡とグレナンデに滑っていくだろう。

「マスカル、何とかして」

 侍は魔法使いには及ばないなりにも魔法が使える。今、動く石像への有効な攻撃が出来るのはマスカルだけだ。

 剣を抜いて攻撃の方向を変え、何とか凌いでいるマスカルに術を使うだけの余裕があるわけがない。それでも、武器が通用しない相手へは無理にでも術をブチ当てるしかない。

 相手は動いているが生物ではない、疲れは存在しない。こちらが動けなくなれば簡単に押し潰される。

「時間がない、稼いでくれ」

 お互いに無茶を言っているのは分かっている。

 パステル一人が狭い空間で大きい動く石像を相手に出来ないのも、マスカルが動く石像の攻撃を避けながら集中して術を使うことも出来ないのも分かりきっていた。

 それでもやらなければ状況は打破できない。

 苦し紛れに、パステルは腰にある鞄から肉体強化の薬を取り出して飲もうとした。少なくとも今よりはましな状況になる、攻撃が意味をなさないなら単に避ける事へ専念すれば多少の時間を稼げる。

 だがパステルが腰の鞄から取り出したのは肉体強化の薬瓶ではなかった。

 瓶などどれも似たような物で手探りだったから間違ってしまったのか、透明な瓶に入っていたのは奇妙な色をした液体だった。

 ピンクと紫、青を足したような色の液体は買った覚えもなければ入れた覚えもなかった。しかもラベルすら書かれていない瓶にパステルは戸惑った。瓶の底にあるのかと探していると空を切る音がする。パステルは反射的に後ろへ転がって避けたが、全身から冷や汗が吹き出した。

「何をしている、飲むなら早く飲め」

 マスカルの叱責が飛ぶがそれどころではない。

 「この瓶は一体何だ」という疑問がパステルの中で渦を巻いていた。そうは思いつつも腰の鞄をもう一度探り当初の目的の瓶を引っ張りだした。

「これは何?」

 特に答えを求めたわけではない独り言に近いものだったが、マスカルは横目でパステルの手にある瓶を見た。

 途端にそれを奪い取ると動く石像に向かって投げつけた。取られた事は気にもならなかったが、それを動く石像に投げつけたのには驚いた。マスカルは瓶の中身の正体を知っているのだ。

 正体不明の液体が入った瓶は動く石像の肩に当たって砕けた、そこから飛び散った液体は動く石像を濡らして煙を上げた。煙が上がった部分から岩が溶けていくのが見えた。

 肉体強化の薬を飲んでいたパステルは危うく吹き出すところだった。

 まかり間違えて中身を確かめずに飲んでいたら、自分が動く石像のようになっていたのかもしれない。パステルは自分の用心深さに感謝した。

「グレナンデの仕業だ。いつもは迷惑だが、今回に限っては有り難い」

 そう言ってマスカル自身も腰の鞄に手を入れて探る。動く石像が滑らないように攻撃を回避しながら、集中しなければならない術を使うより、瓶を投げつける方が容易だ。

 だがパステルはどうしても腑に落ちない部分がある。また自分の鞄を探りつつ見覚えのない瓶がないか探りながら問う。

「ねぇ、いつもってどういう意味? 中身は何」

 自分の鞄から取り出した三本の瓶を投げるマスカルは口を重く閉ざして答えない。今度は煙が上がるだけでなく爆発した瓶もある。動く石像には意思があるのか瓶を避けようとする仕草をする、それでも狭い空間で巨体が避けきれるわけがなかった。

 パステルは使えそうな瓶の一本を開封して、鞘の中に流し込んで剣を鞘へ突き入れた。

 残念なのか有難いのか、鞄の中にはもう見覚えのない瓶はなかった。

 一方、次々と不思議な色をした液体の入った瓶を鞄から取り出しては投げるマスカル。鞄の中身は殆どそれではないかと思うほど出てくる。パステルはマスカルへ瓶を渡すように伝えた。パステルへ瓶を渡したマスカルは数歩下がり術に集中し始めた。

 渡された数本の瓶を何度かに分け、投げつけるパステルはどうしても胸のわだかまりが解けない。

 動く石像が怯えるほどの液体は一体何なのだろうか、そして、グレナンデは何時自分とマスカルの鞄に潜り込ませたのだろうか、これを飲んでいたら自分は一体どうなっていたのだろうか、いつもってどういう意味だろうか。

 手元から瓶がなくなっても頭を包みこむ疑問はなくならない。

 瓶が投げられなくなったと知り、動く石像は一転激しく動き始めた。だが、その衝撃で片腕が落ちた。

 直撃を避けたかったのか肩の部分で瓶を受ける事が多かった、だから肩から腕が落ちたのだがパステルは笑えなかった。むしろ冷静に、自分の用心深さに感謝しきれなかった。そして、少し魔法使いと司祭が嫌いになった。グレナンデ単独に向けられるべき嫌悪かもしれないが、眼鏡も時々薬品を煮たてて笑っていたのを思い出し、間違っていないと自分を肯定した。

 肩が取れ、身軽になった動く石像は残った腕で壁を殴りつけた。

 それは衝撃波となりパステルとマスカルの耳に轟音となって届き、思わず耳を塞いだ。総毛立つ程の振動は全身を貫き、意識を手離させるような威力があった。

 術に集中し始めていたマスカルも集中が途切れてしまい、水の泡だ。

 衝撃波が通り抜けた後も頭の中で鐘が鳴っている。チカチカする目に巨体が迫ってくるのが見えた、まだ足元がふらついて避けられそうにない。動く石像の固まった顔が笑ったようにも見えた、造り物のくせに感情が豊か過ぎる。無駄な造形の深さにパステルは腹が立ってしょうがなかった。

「嘗めんじゃないわよ!」

 パステルは前に倒れる要領で剣を鞘から引き抜き、動く石像の足を避け抜けざまに右膝を引き斬った。

 鞘に流し込んだ薬の効果だ、短い間だけ剣を強固にして魔法効果を付与する。その為に使うタイミングを狙っていた、剣に魔法効果を付与した所で、斬れるかどうかはパステルの腕次第だった。

 パステルは相手の力を利用する形でしか斬る自信が無かった。

 膝を失った動く石像はマスカルに圧し掛かる形で倒れ込み、頭部が爆発した。砕けた岩が周りに撒き散らされて音を立てる。頭に細かい石が降り注ぎ、地味に痛く、まだ続く耳鳴りを強くした。

 衝撃波で集中を切らしたと思っていたが、マスカルは持ち堪えていたのだ。見事な集中力だと言うしかない、眼鏡は刺されただけで集中を切らしてしまう。前に立つ以上痛みに強くなるといえばそれで終りだが、あの衝撃波の中で耳を塞いでもなお集中していたのだ、魔法使いとしての腕もあなどれない。

 まだ手足が動く石像から距離をとり、早い術を掛けて動かぬように破壊した頃、後ろから壁を伝って振動がやってきた。