クエスト名:神の吐息
7.そうして涙は止まった
白いトンネルが叩かれ、振動が空気を伝わり音となる。狭い空間で逃げ場のない音の襲撃に低級悪魔は耳を塞いだが気付くのが遅かった。
空中で態勢を崩してふらつく、手の届く範囲に羽が入った瞬間、自分の手にあるナイフが閃いた。
先日竜の幼生を解体するのに使ったナイフはいとも簡単に羽の被膜を破り、骨まで食い込んだ。固い部分に引っ掛かり、簡単には切れないと知り、重心を移動させそのまま倒れ込んで低級悪魔を引きずり落とした。トンネルに押し倒し、圧し掛かって引っ掛けたままのナイフへ体重をかける。
片方の羽を半分にされた低級悪魔は呪いの言葉を吐きまわり、のたうち、水に捕まった羽虫のように抵抗する。
飛ぶことのできない低級悪魔の残る脅威は喋ることによる魔法、残った羽を踏みつけて角を掴み抑え込んだ。後は口を塞いでしまえば運ぶだけだ、適当な布か縄をどこにやったか考えていると目の前を光が走った。
光は低級悪魔の頭に直撃し、口を塞がずして黙らせた。口の端から泡を吹き出し、白眼を向ける小さな悪魔は脱力して大人しくなった。いかにも持ち運びが楽そうだ。
光を自らに引き戻し、杖の先端に付いた宝石を確認しているグレナンデは、自分の手が光の直撃した部分の近くにあった事など気にした様子もない。少しでも位置がずれていたら肉体強化のかかった強打で自分の手は逆方向に反り返っていただろう。
低級悪魔の尻尾を持ちパステル達がいる方向へと黙って移動するグレナンデに文句を言う気にもなれなかった。言った所で何も無かったのだから言うだけ無駄だ。
ナイフの血をふき取って鞘に収め、切った羽の一部を拾い上げてグレナンデの後ろに続いた。
程なくして、土と石、何故かガラス瓶が散乱する中で座ったまま待っていたパスカルとマスカルを見つけた。
低級悪魔は縛りあげて猿轡を噛まし荷物に加えた。
多少の安全を確保した後、低級悪魔の言葉を信じて先を塞いでいる土をどうするか相談を始めた。
動く石像が出てきた事で土が薄くなっているのでは、山崩れの土砂が簡単に除去できるものか、除去した先はどうなっているのか、戦闘後の休憩も兼ねて討議していたが、飽きて暴れ始めたパステルの為、実際に取り除いてみる事にした。
火薬による爆破が道具の消費だけで済むので楽だが、大きな衝撃はトンネルが反響させてしまい中にいる自分達を衝撃波と爆発が襲うので却下となった。その上、火薬は高価で手に入りにくい。火薬以外でも十分に処理できそうな問題に、わざわざ高価な火薬を利用する必要は無い。
地道に穴を掘っていくという提案も出されたが、簡単に土を泥に変える術で除去する事になった。
結論が出た後、気力を回復させる薬を二本飲み干してグレナンデが土の壁に向かった。
杖の先端を土に当てて集中していると、先端部分が当たっている所から溶けるように泥へと変化し、急速に広がっていった。足元を泥が流れてゆく、石や岩が邪魔して最初は滞っていたが量が増すにつれて流れた。
壁面にしがみついてその様子を見ていたが、土は木や石も混じり、かなりの量が詰まっていた。
突然、土は向こう側へと抜け、風が吹き抜けた。
それからグレナンデは集中を止めたが、土は自ら崩れ落ち青空を見せた。
丁度トンネルは崖に面しており、山の向こう側がよく見えた。遠くに大きな漁港があり、海が見える。この構造物は山を貫通しているのだ。
光を反射する水面が広く遠くへ続いている。空と海の境に白い雲が流されて、千切れてはまた大きくなる。波に洗われて白くなったのか、白波が白雲になったのか、あり得ない浪漫に心躍った自分がいた。
「綺麗ね。遠くまで良く見えるわ」
パステルが呟いた。その言葉に無言で頷いた。
心地良い潮風が吹き抜け、少し震えた。
***
再び風がトンネルの中を駆け抜けた後にトンネルは震え、自身の音を増幅させて吐き出した。その緩やかな波は周囲を包みこみ、見えぬ支配を開始した。風が吹き抜ける度に、引いては返す砂浜の波のように音は広がる。
神の吐息の効果を確かめる為にトンネルを出る事にし、来た路を帰ろうと足を向ける。それを吹き込む風が助長した。
荷物を抱えて歩きだした所で突風が流れ込んできたのだ。
その風でトンネルは振動し、尚且つ不要な物を押し出そうとする。堆積していた土砂や水、そして自分達を。
重い鎧を着けているパステルやマスカルさえ動きを誤れば押し流されてしまいそうな振動だ。振動しているトンネルが不要な自分達を排除しようと唸りを上げていた。
その時になって、やっとこのトンネルの内部が異常に綺麗な理由が分かった。風が吹き抜けるだけでなく、構造物そのものが震える為に、重たい物も外に吹き飛ばされてしまう。自分達もその中の一つに違いない。
低級悪魔の羽ばたき程度にも吹きとばされてしまった自分とグレナンデは、抵抗しきれないのは明確だった。
「風に乗りますよ」
竜の幼生に何度も吹きとばされ、宙を舞ったパステルを助けた術を利用する。この振動と風に抗いながら出口に向かうより、こちらの方が良いはずだ。
風に身を任せて流されるというよりは、風に乗るといった感覚に近い術。その術で入口まで流れに乗って出る。結果としては問題ない。しかし、過程で問題がある。トンネルに流れ込んでくる追い風で必要以上の速さになってしまうことが十分に予想できた、だが他に方法が思いつかなかったのだから仕方がない。
パステルとマスカルに体を押さえてもらい、術を発動させようと集中する。
早い風の中で息が出来なくなりそうだ、集中が途切れそうになる。それでも何とか術を発動させる事に成功した。
既に半ば浮き上がっていた体が完全に持ちあがる。足元を抱えられたように宙に運ばれ、そのまま触れられぬ風に乗った。
お互いに捕まり合い、共に移動する。
段々と速くなる風は白い壁へと一直線に向かって流れる。迫る白い壁が自分達の血で赤く染まる恐怖に力が入る。恐怖に打ち勝つ為に自分に出来る精一杯の抵抗をする。
低級悪魔に吹き飛ばされた時にグレナンデが使っていた術、今利用している術の応用だ。風を操り、吹き戻させて勢いを弱める。
壁にぶつかった風と吹き戻させた風、それが乗っている風にぶつかる。風同士がぶつかり、乱れる。そして勢いが落ち、壁にぶつかることもなく下方へと降りる事が出来た。
登って来た数だけそれを繰り返し、グレナンデと交互に術を行い、壁にぶつかることを回避できた。
壁がなく、光が射しているのに気付いた時には冷や汗で手がずぶ濡れになった。入口には壁がない。壁がなければ吹き戻す威力も弱く勢いを十分落とす事はできない。風は既に想像以上の速さとなっていた。
入口の先は山の斜面。
この勢いのまま出れば、木に引っ掛かるか、勢いに任せて遠くに飛ばされ、地面に叩きつけられる。今の速さなら後者の可能性が高い。どちらも酷い状態になるのは必至だ。
ここで無理にでも勢いを削がなければ。短時間で魔法を連発し精神が壊れてしまいそうな中で集中をする。グレナンデも術を使用する。しかし、風の勢いは殆ど落ちない、気力を振るが風の勢いは落ちない。
不意に、自分の中が空っぽになった。
途端に術は消え始める。白いはずの壁が黒く歪み始める。開いているはずの目から視界が減少する。自分の腕を掴んでいるパステルの手に力が込められる。不安げな顔が容易に想像できた、暗転する世界にその顔だけが白々と浮かぶ。
「ゼラニウム!」
耳の近くで叫ばれた名に、急激に世界は戻る。パステルの怒りの形相が真横にあった。意識は明白に戻り、精神は身体の器に収まった。
風で吹き戻し勢いを落とすことは出来ない、光の射す向こうにこのまま行けば死に直行する。物を引っ掛けて勢いを削ぐにはトンネルは綺麗に掃除され過ぎている。風に乗っているこの術を今解くと転がるだけで、下手をすれば首の骨を折り、結果は殆ど変わらない。
自分の力ではどうしようもない現実から逃げられなかった事に多少の無念はある。だが、現実に戻ってこられた事に後悔はない。
現実に自分を引き戻したパステルは、素早く荷物からロープを取り出した。マスカルにそれを押し付け、更にもう一本ロープを取り出し、ロープの中央部分で鎧の上から自身の体を縛りつけ、両側に幾つものワサを作る。
身体を入れ替え左手で自分を抱きかかえ、右手にロープを握りしめる。パステルの行動は素早く迷いがない。何を考えているのかを理解するより先に、行動に従ってパステルに抱きつく。
光が視界を白く染め上げる。
同時にパステルが広げるようにロープを投げた。
木、土、岩と目に入るのは到底自分を助けてくれそうになさそうだ。むしろ止めを刺してくれそうだ。
宙に放り出されたのが分かる。
風に乗っている術は既に意味がなくなっている、元々広い場所に風を長時間留めておくことは難しいので予想はしていた。急に開けた所に出て風が四散したことが感じられる。
これが戦士なら日に何度も見る光景なのだろうか、空と大地が反転する。急速に変化し過ぎるそれは体に妙な解放感を与える。
だが、それは突然引き戻される形で消された。
自分を抱えているパステルの手が、自分が捕まっているパステルの体が、急に止まって戻される。茂る木々の中に引き込まれる。
土と岩が迫る。だが、また急に止まって戻される。体が振り回され、宙を舞った解放感はとうに消えていた。
眼鏡を落とさないように気を付けながら、パステルに捕まっていた片手を外して木の枝を捕える。枝が手を痛め、葉が傷つける。それでも離さず、体が振り回されるのを止める事が出来た。
山の斜面が近い。
溜め息をつくより早くパステルが突然重くなる。掴んでいた枝は容易く折れ、再び落下した。パステルにしがみ付く形で斜面を少し転がり木の根に引っ掛かり、背中をしたたか打ちつけた。それでも、あのまま地面に叩きつけられたよりは大分マシだ。
痛む体を起こし、パステルの様子を確かめる。
どこかにロープが引っかかる事に賭け、ロープを広げて二人分の体をその腕一本で受け止めたのだ。大きな怪我が無いにしても、重大な問題を抱えている可能性は十分ある。
鎧に巻き付けたロープを外し、未だ動けないパステルに手を伸ばす。髪の毛を掻き上げ、何処かに怪我がないか探る。見た所、擦り傷はあるが大きな外傷は見られない。少し後にでも青痣が見つかるかもしれないが、今のところ頭に大きな傷もない。そこで一安心した。
「いったぁ~。肩がいったかも」
顔を歪ませて右肩を鎧の上から押さえる。
逆によくそれだけで済んだものだ。あの勢いで二人分の体重を腕一本で受け止め、その後に振り回されても持っていた腕と肩の力。丈夫な体が売りの戦士でもこれは無茶な行動だ。もしも自分が同じ事をやっていたなら、肩から先が無くなっていたかもしれない。
勝手に肩当てを外し、様子を確かめる。服の上から血は見えない。間接部分を触ると体を硬直させる、やはり熱を持っている。脱臼かもしれない。
「多分、脱臼でしょう。外れている感覚はありますか?」
背中に腕を回しパステルを抱き起こす。押さえた肩の痛みを確かめ、パステルは首を横に振った。本当にどうしてここまで丈夫な体をしているのだろうか。立ち上がり、近くに落ちていた荷物を担ぎ、パステルに手を貸して立ち上がらせた。
木にすがりながら斜面を下ろうとしていた時に、マスカルとグレナンデの声が聞こえた。それに元気なく返事をする。土に汚れた二人が斜面の下にいた。
**
何とか斜面を下り、水源の途絶えた沢を伝い馬たちとマスカル、グレナンデが待つ場所に辿り着いた。
自分達と同じ状態でもマスカルがグレナンデを抱えたので負担が少なかったのだろう。パステルのようにマスカルが肩を脱臼している様子もない。荷物を渡し、パステルの治療をマスカルに頼む。
「脱臼したようです」
肉体構造の故障は薬ではどうにもならない場合がある。パステル自身は自分でも脱臼を治せるが、マスカルのような戦士系統の者がいるなら何度も同じ様な経験があるはずだ。ならば治してもらった方が楽だと本人が言っていた。
「分かった」
マスカルはパステルを座らせて胸と背中を結ぶ鎧の繋ぎを外し、服の上から様子を探り、一気に肩を押した。パステルは一瞬だけ痛そうな顔をしたがそれだけだった。
「それよりあなたはどうなの? もう気力も残ってないでしょう」
グレナンデが気力を回復させる薬を自分に押し付ける。良く見れば、グレナンデの手には飲みかけの薬もある。グレナンデも危険な状態だったようだ。
パステルやマスカルのように、身体を酷使するわけではない自分やグレナンデは頭脳を酷使する。
体が傷つくわけではない、精神が完全に削り取られ時は崩壊してしまう。肉体的な疲労が無いわけでもない、精神と肉体は親密な関係にある。
「有難うございます。自分の懐が痛んだ物でないと特に効果がありますからね、もう少し頂けますか」
瓶の封を切り一気に嚥下する。
満たされるのは空腹だけではない、身体の何処かに気力が蓄えられる。視界の端で白黒していた世界が緩やかに色彩を取り戻す。体に馴染むまで少しの瞑想、深呼吸を繰り返す。飲み薬を含め合計七本の瓶を開けた。
液体ばかりを飲んだので動く度に腹から水の音がした。
「流石に、今日はあんまり食べられそうにないわ」
瓶に口をつけながらパステルがそう言った。しかし、十分に食べるのだろう、そう思うと苦笑した。
とうに昼食の時間は過ぎていた。今から町に戻るのは難しい。それに、神の吐息が復活したとしても直ぐに効果があるものなのか分からない。急いで気分の悪くなる町に戻る事もない。効果を確かめてからでも遅くはない。
傷に薬を塗り、打ち身に湿布を貼り、満身創痍で動きたくもない。それでも動かなければ瓶詰めの遅い昼食は取れない。
少しの酒と瓶入りの保存食を運び、渡していく。食べるのも食べないのも自由だ、だがいくら腹が水分で膨れていても食べると言うパステルに付き合わざるをえない。パステルの体力回復方法は食事だから仕方がないのだ。
水分など簡単に流れてしまう。薬を飲んだからといって体が本当に求めているのは栄養のある食べ物で、薬ばかりに頼っていては自身の持つ治癒力が衰えてしまう。
無理矢理食べたはずの昼食だが、直ぐに瓶の底が見えた。
マスカルとグレナンデも素早く空き瓶を増やした。誰も疲れきっているのは同じだった。だからといって胃が受け付けるかどうかは別の問題だろうに、誰も吐き戻しもせずに平らげた。疲れきっても食事は必ず摂る、冒険者として、それだけの体力と気力は持ち合わせていなければならない。そうでなければ粗暴な生活に体がもたない。
その日はまだ陽が高かったが、パステルとグレナンデを一旦寝かせて体力の回復を図った。パステル達が眠っている間、マスカルと見張りについた。野外では誰かが見張りについていないと安心して眠りにつくのは難しい。眠るにしても深く眠りはしない、どこかで警戒をしている。まるで獣のように、いつでも動けるように、そんな状態でも休んでいると言い張っている。
体に嘘をつき続けるといつしか本当になると信じて。
呪われたように疲れ切った体に鞭打って枯れ枝を集める。持ってきた多少の燃料と共に燃やし、火を点ける。
料理をするわけでもなければ、灯りにするわけでもない。しかし簡易の拠点とする場所では必ず火を灯す。火の揺らめきの向こうに、何かを見るわけでもない、それでも変わり続ける火を見ずにいられない。
「何故昼間なのに炎を絶やさぬようにするんだろうな」
マスカルが枝を火に投げ込みながら呟く。自分の行動に理由を探しているのだが、見つからないらしい。答えを求めている呟きではないだろうが、沈黙だけが支配する見張りは辛い。
「安心するんでしょうね。きっと。夜闇に光があれば安心するし、温かければ尚癒される。炎は何かを燃やさなければそこに居続ける事ができない。それに共感しているんじゃないですか?」
ずり落ちる眼鏡を押し上げながら、自論を展開する。本当は理由なんてないのだ、好きや嫌いに本当の理由がないのと同じに理性が答え得る理由など上辺だけのものだ。それでも答えを探し続ける、哀しい性を持ち合わせているのが理性だ。時にはそれがとても愛おしく感じら、時に恨めしく感じられる。無駄な知識がなければ感じることも無いのだろうが、その無駄な知識も無ければ困る時もある。
「燃やさなければ、居続ける事ができない。そうだな、生きていくには何かの命を奪わなければいけない。それでも生きていくんだ」
また火に枝を投げ入れて、熱に浮かされたようにマスカルは呟く。それが疲労の為か、火に当てられた為なのか判断はできない。
どうしようもなく空を仰いだ。
山の向こう側と続いているとは思えないほどの抜けるような青が広がっている。白い雲がほんの少し赤みを帯び始めていた。夜の足音が聞こえそうな、そんな風が吹いている。
「もうすぐ星が出ますね。あぁ、早くフカフカの布団で眠りたいですよ」
それにはマスカルもただ頷いた。単純な欲求は直ぐに叶わないと思うと余計に欲しくなる。今手に入るなら、この肉体疲労を差し出してもいい。
明日こそは温かい安全な布団でぐっすりと眠りたい。陽が高くなるまで寝て、この全身の疲れを消しさってしまいたくてならなかった。
起きたパステル達と交替し、眠りについたのは空が赤く染まり始めた頃だ。次に意識を手に入れたのは夕食が鼻孔をくすぐったからだった。
起こされたのではなく、匂いにつられて起きたのだった。目をこすって眼鏡をかけ直すと、鍋から美味そうな湯気が立っていた。パステルとグレナンデが二人だけで美味い物を食べている。
自分が起きた事にまだ二人とも気づいていない。
その証拠に、パステルが楽しそうに自分の悪口を言っている。目の前に居ても言われるのだが、その時はもっとわざとらしく言う。
こっそり隣で横になっているマスカルを揺り起す。直ぐにマスカルは目覚めた。二人と鍋を指す。状況を把握したマスカルは出来るだけ音を立てぬように身を起こし、見つからぬように二人の背後に回った。
そろりそろりと背中に近寄り、
「わっ」
背中を軽く押した。
「ぎゃあっ」
声を上げて驚いたパステルを確認し、すぐさまその場から飛び退く。
それでも間に合わなかった、脊髄反射の反撃は下腹に食い込んだ。驚かしただけなのに、悶絶する結果となった。パステルを驚かすのにも命懸けだ。
「何やってんのよ! 馬鹿じゃない」
裏拳が当たった相手が自分だと分かると好き勝手に罵る。それでも体を気遣ってくれているのか、いつもならなぎ倒し、馬乗りになって殴るという暴挙を今回はしなかった。
何度も馬鹿だと言うが、言葉とは裏腹に拳が当たった事に驚いている様子だった。殆ど条件反射で出る動きは本人が一番驚く。
勝手に体が動いている、無意識下の攻撃は力の加減もなく自然に出てしまうので、最も素直な攻撃となる。それがかなり痛いのは身をもって知っている。
分かっていても、つい無防備な背中を見ると驚かしたくなる。悪戯心はいつになっても消えない。自分はいつかこの心の所為で死んでしまうのではないかと心配している。
それでも自分は驚かし続けるだろう、楽しいから。
「マスカル。彼のようになりたいの?」
グレナンデが静かに背後へ声をかける。
自分が悶絶しているのを冷たい目で見ているそのままで、杖の先端を手の平に打ちつけ、背後のマスカルに警告している。警告に姿を現したマスカルへと杖が振られた。グレナンデの殴打は軽々と片手で受け止められた。
警告に従って何もせずに姿を現したマスカルに、無言で杖を振るグレナンデの気が知れなかった。
腹部の痛みがある程度治まり、喋るにも、座るにも、支障がなくなった所で鍋の中身を訊ねた。グレナンデではなく、パステルが作った適当鍋だった。今回は運良く美味いものが出来上がったのだそうだ。
「量がないから二人だけで始末しようとしていたのに、あんた達が勝手に起きたんだから。文句言わないでよ」
と、嫌そうな顔をした。
腹を優しく撫でながら、パステルが始末しようとした適当鍋を所望した。仕方ないとは言いつつも、パステルは金属のカップに注いでくれる。
スープには一切具が無く旨味の出た汁だけだった。鍋の具は完全に殲滅されていた。
それでも適当に作られた鍋の味は生きていると実感させてくれた。
湯気で曇った眼鏡を拭くふりをして、目に溜まってしまった滴を落とした。自然と湧き上がる思いを握りつぶそうと必死に我慢する。それはいとも簡単に限界を越え、瞼を閉じても溢れてしまい、自分ではどうしようもなくなった。
零れた雫は頬を濡らし、顎を伝って手に落ちる。込み上げてくる何かが息を詰まらせ、苦しめる。
ただスープを飲んでいただけなのに、どうしようもなく嬉しくなった。
今日も生きて過ごせたのだと、今生きているのだと、実感したそれだけで涙はとめどなく流れる。
もしも、低級悪魔との戦闘で音が響かなければ、気力を使い果たして正気を失っていたのかもしれない。
もしも、パステルが意識を引き戻してくれていなければ術も消え去り、首の骨を折って死んでいたかもしれない。
もしも、飛び出した時、単独で宙に放り出されていたら死んでいたかもしれない。
今日の事を振り返ると自分は少なくとも三度死んでいてもおかしくない。今もしぶとくスープを口にして、生き残っている。
涙が勝手に流れ続ける。
慣れているはずの生活は不意に恐怖と感謝をもたらす。それはとても苦しく、嬉しく、明日への活力となる。悲しいわけでも、嬉しいわけでもなく、どちらでもある。込み上げてくる、どれとも表現し難い感情に揺さぶられた心が酷く胸を痛める。息が出来なくて、視界が悪くて苦しいハズなのに、何故自分を支える全てが愛おしく感じるのか理解できなくなる。
突然声を押し殺して泣き始めた自分は周囲からどう見えるのだろうか。
同じような場面に何度も経験しているハズなのに、今頃涙するのはおかしな話だ。言い訳なら出来る。だが言い訳した所で涙声は聞き取れないだろう。
温かな手が背中を擦った。それは上下に引っ掻くようなものだったが、触れられるといった安心感を与えてくれた。
「そんなに不味かったわけ?」
眉を寄せて笑う、そんな顔が想像できるパステルの言葉だった。
いつも通り悪態をついて返したい。それなのに言葉は嗚咽となって消え、涙だけが生まれる。無理矢理息を止めて、呼吸を整える。肩で息をしながら、やっと絞り出した声はかすれていた。
「胡椒が多過ぎます」
背中を擦っていた手で頭を掴まれ、髪の毛をグシャグシャに掻き乱された。
理由は分かっているだろうに、分かっていないように振舞ってくれる。それが心を楽にしてくれた。
そうして涙は止まった。