クエスト名:神の吐息
9.魂の冒涜者
それは夕方、詰所で武器の入念に手入れをしていた時だった。
部屋の扉がノックされ、暗殺者と思しき若い僧侶が再び姿を現した。
教会の鐘は五回鳴ったのを聞いただけで、八回鳴ってはいなかった。約束の時間にまだ早いと知りつつも若い僧侶の用件は想像がついていた。ガリア司祭からの呼び出しだろう。
こちらの準備が整わない内に呼び出し教会で始末、いや説得する予定なのだろう。この若い僧侶にその役目が言い渡されているのか、自ら手を下すのかは知らないが、愚かだとしか言いようがない。
自分達は秘密裏に始末されるような行儀の良さを持ち合わせていない。
「ガリア司祭様がお呼びです。皆様いらして下さい」
既にまとめていた荷物を抱え、にこやかに笑う僧侶の言葉に従った。
若い僧侶は真っ直ぐ教会に向かわず、大きな家の裏手へと案内した。マスカルがそっと町長の家だと教えてくれた。どうして町長の家に案内されたのかと睨みをきかせていたが、僧侶は井戸を指し示した。
「こちらからおいで下さいとの事です」
若い僧侶は器用にダボダボの服で井戸の中へと降りていった。
中には降りられるように梯子が打たれており、水面より少し高い所で板が横に渡されている。若い僧侶はそこから横へ消えた。横穴があるようだ。マスカル、グレナンデ、自分、パステルの順に降りて僧侶についていく。
横穴は頭を下げて通れるほどの大きさで湿っぽく暗い。
先頭の若い僧侶が手にしたランタンで辺りを照らすが、後ろには届いていない。自由に動けた昨日のトンネルが懐かしくなるのは何故だろうか。
それ以前に、何故これほどまで狭い空間に縁がある土地なのだろうか。この土地の住人は穴を掘るのが趣味なのか。
暫く窮屈を感じながら進んでいくと、行き止まりになり、上方へ抜けられるようになっていた。こちらも梯子が打たれており、上れるようになっている。多分教会の床下に続いているのだろう。
若い僧侶が先に上り、重たい蓋を開けるような音が響いた。順に上り、パステルが出てきた所で金属の蓋は戻されて口を閉ざした。
僧侶は軽く埃を払い、ランタンを壁の金具に引っ掛けて人数を確かめた。
薄暗いその部屋には木枠の備え付けられた棚に本が並んでいた。机が壁際に寄せられており、通常はこの出入口を隠すよう上に設置されているのだろう。
部屋の様子から書庫の一室と思われる。だが、誰もが立ち入りできるような書庫でないのは並んでいる本の名前からも想像できる。禁書、発禁の類が目に留まる。
グレナンデも目を泳がして背表紙に何かを探している。具体的に何を探しているというわけではない、有益な物がないかを探しているのだ。それもパステルからの熱烈な視線に中断し、金属性の扉の前で待っている僧侶の後ろについた。
灯りの少ない薄暗い通りを誰にも会わずに抜けると、急に明るい場所へ出た。
何本もの蝋燭が灯され、大きな扉とピアノと教壇がある閉め切られた部屋。天井からはシャンデリアが吊るされ、壁には宗教絵画が並んでいる。数多く並べられた長椅子で部屋の殆どを埋め尽くしている。教壇で宗教者が喚くための場所だ。
喚くために男が一人教壇にいた。呼びつけた本人のガリア司祭だろう。そうでなければどこかに本人が隠れている、見つけ出したら後悔させてやる。
「ようこそ皆様いらっしゃいました。有難う、グノー下がりなさい」
声は教壇の男から発せられた。
その言葉に案内してきた暗殺者と思しき若い僧侶・グノーは恭しく礼をして教壇の脇にある小さな扉から出ていった。どうやらグノーに始末、もとい説得させるのではなく、自身で手を下すようだ。
流石に単独で四人を相手にするほど馬鹿ではないだろう、もしその馬鹿だとしてもこれからする事に全く関係はないのだが。
「さて、皆様には積もる話があるので少々早くご足労いただきました。時間を守れなかった事については申し訳ありません」
胸の高さまである壇上から降りもせず、上から見下しながら、優しく語りかけてくる。どうしてその表情も声色も柔和そのものなのに敵意と悪意が見え隠れするのか。どうして片時も本を離さないのか。偏見なのか、嫉妬なのか自然と目つきが悪くなった。
長い説法でも始まるような、つまらない時間の到来を告げるような言葉にわざとらしく溜め息をしてやり、わざと視線を外す。例えそれが立腹させる為の仕業だと知っていても感情は込み上げてくる。込み上げる感情をどうしようと相手の勝手だ。
「時は常に一定ではない。それは神の言葉です」
グレナンデがそれらしい言葉でもって司祭に返す。
本当に信仰する神の言葉かもしれないが、自分の記憶にはなかった。グレナンデが信じる神には「勝者のみが我が信者」という素晴らしく分かり易い言葉があった事しか覚えていない。
ガリア司祭とグレナンデを横目に長椅子の陰に目をやる。何者かが隠れている可能性はある。マスカルとグレナンデに隠れるように、コッソリと通路を移動する。ガリア司祭に動きがばれないようにコッソリと。
幾つか長椅子の足元を見て回ると、教会の中なのに棺桶が置かれている。しかも蓋に釘が抜かれたような痕跡がある。
一つ、最悪の可能性が頭に浮かんだ。司祭が死霊使いである可能性だ。自分たちが出発した翌日にガリア司祭は町に戻っている。つまり、自分達を死霊で襲ってから町へ戻る事は十分に可能だった訳だ。その時に依頼の件を聞いていたかどうかは分からない。知らなかったとすれば単純に冒険者の死体が欲しかったのかもしれない。可能性は所詮、可能性だ。考えても司祭の思考は分からない。
今は結果の出ない思考よりも、現実の問題に向かう。この教会では教会の中にわざわざ棺桶を設置するのかもしれないが、無駄に死体が起き上がっては大変だ。
長椅子は床に固定されている。長さは十五名程が座れるほどで、足は六本。長椅子の足と足との距離は棺桶が入るほどだ。
足で優しく棺桶を長椅子の下に入れてやる。木と石が擦れる音はしたが、長々と文句を並べている司祭たちの耳に届いたかどうかは分からない。もしかしたら自分が視界の端から消えている事にすら気付いていないかもしれない。
少しずつ、長椅子の下に棺桶を入れていく間に司祭の語尾が荒くなってきた。
会話が食い違い始めたのか、価値観の相違に気が付いたのか、時間稼ぎの会話が続けられたのに腹が立ったのかもしれない。
その時、自分は部屋の半分を巡り終えていた。
「貴女の神と我々の神は違うのだ!」
教壇を強く殴りつけて怒りをぶつける。実際に痛めたのは自分の拳だけだったのに気付くのはいつになるだろうか。
パステル達が集まる場所に小走りで戻ると、自分が移動していた事に気付いたらしい。ガリア司祭は自分を睨みつけ、歯を見せて怒りを示した。幼稚な怒り方だ。
「私が言いたい事は簡単です。皆様が働いた成果が見えません。確かに皆様が神の吐息を取り戻したという証がありませんからね。ですから、報酬をお支払いする事はできません。町に持ち込まれた悪しき者も教会で処分して差し上げます」
奥歯に物が挟まったような言い方をする。穏便に事を済ませる気がないのに、言葉だけは優しくあろうとする偽善者が何を言っても変換されてしまう。
「てめぇらなんざに払う金はねぇ、って事ですね。音が聞こえる証明もできませんし。良く分かりました。空き巣に入ったような司祭が勝手なこと抜かしてんじゃありませんよ、泥棒がいつまで居直れる気でいるんですか? 状況見て考えて下さいよ。金で司祭にまで上った口ですか、それは失礼しました」
一人で面白可笑しく言ったつもりだが、当のガリア司祭は手にした本を握りつぶしそうな勢いで力を溜めている。そんな腕力もないから本は安全だ。後で中身を確認もできる。
その時、扉を叩く音がした。意外にも音は正面の大きな扉ではなく、教壇脇の小さな扉からだった。
「話はついたかの」
それは町長の声だった。
教壇脇の小さな扉が開き、町長が姿を現した。
「町長、丁度いい。今ここで、この司祭に音が鳴っている事を伝えてください、依頼は達成されたと」
代わりにガリア司祭を説得するように頼んだ。町長には神の吐息が出す音を耳にする事が出来る、当の本人が言っていたのだ。
町長は片目を閉じ、何かを探すように右や左を向いた。そして悩んだ様子で首を傾げる。何が問題なのか、腕を組んで唸り始めた。突然、顔を上げ、片目を閉じたまま困った様子でこう言った。
「今は無理じゃ。この教会の中では音は聞こえんのじゃ。しかし、今朝は確かに音がしておった。依頼は達成されたのじゃよ、ガリア司祭」
どうやら、この教会の中までは神の吐息が届かないようだ。教会の中にまでは音が必要なかったのだろうか。
いや、神の吐息はそれほど不完全なのだろうか。屋内にまで届かない程度の音、それでは屋内ならば退魔の効果がないという事だ。あれほど大規模な装置を設置した者がそれ程甘い機能を許しただろうか。
自分なら、そんな詰めの甘い装置を設置したりはしない。したとしても何か裏がある。
笑い声を上げたのはガリア司祭だった。嬉しそうに本をめくり、興奮した面持ちで両手を広げて大きく笑った。
「やはり、やはり間違いではない。神の吐息、そしてこの教会が作られた時代は別。神の吐息が作られた後に教会が作られた」
手のひらを天に向け、高く笑うガリア司祭の言っている意味が分からない。どうやら、ガリア司祭の推測では神の吐息が作られた時代と、教会が出来た時代が異なる。神の吐息の効果が教会内に届かないことで確信を得たらしかった。
一体それに何の意味があるというのか、町に来たばかりの自分に分かることは少ない。
「町長、やはり依頼金を払うことはできません。これから調査に多くの費用がかかります。こんな連中に払う余裕はありません」
自分達を目の前に、やはり、ときたか。この肩書きだけが司祭のガリアは頭が悪過ぎるようだ。嫌味で言ったつもりだったが、本当に司祭職を金で買ったのかもしれない。約束を堂々と破るような人格の持ち主が司祭という職に就けるというのは大問題だ。
最悪の場合、実力行使も仕方がない。だが、いきなり刃を向けるのは合わない。自分は、一度眠って貰ってから、こんな教会ではなく、ジックリと長時間かけて説得できる場所へ移動する。
教会の誰にも気づかれないように、通ってきた路からガリア司祭を運び出す。当然だが町長は協力してくれるだろう、ガリア司祭を説得することが出来ればすぐ問題は解決する。力強い拳で問題は解決する。
「契約違反ですね。そういった態度したら、こちらにも考えがありますよ」
懐から本を取り出し、開いて見せた。知らない者が見れば読書を始めようとしている様にしか見えない。知っている者が見れば魔法を使うという脅しに見える。当然、司祭なら後者だ。
「いいえ、もう考える必要などありません」
司祭が一声上げると、手にしていた本が光った。
**
思わず目を背け、腕で顔を庇った。
視界が元に戻るまでの間、耳だけが状況を教えてくれた。壇上でガリア司祭が町長の所へ移動し、突き飛ばした。町長の小さな悲鳴と錠が下りるような音がする。
耳が集めた情報通り、町長は出てきた扉から離れた場所で目を擦っており、ガリア司祭が小さな扉から鍵を抜いた所だった。
「閉じ込められましたね。良いんですか、この人数相手に逃げ道を自ら塞いだんですよ。本当に馬鹿ですね」
足元の棺桶を確認しながら、町長の傍に走り寄ろうとした時、壇上の死角から影が滑り出してきた。
それは人の形をしていた。しかし、あまりにも歪で眉をしかめてしまった。右手と左足が汚い縫い目で繕われ、奇妙に膨れ上がった腹部からは金属のような物が見え隠れしていた。まるで継ぎ接ぎをされた人形のようだった。
「な、なんじゃ。この気味の悪いモンは?」
町長の言う気味の悪いモンは一昨日見た新鮮な死体とは違い、明らかに加工された死霊だった。しかも、手には斧を持っており、鎧まで身に着けている。
「いやぁ、外から音が入るのも、外に音が漏れるのも困るんでね。町長、あなたもこの場で死んでもらいますよ」
厭らしい笑顔を浮かべ、ガリア司祭はやけに響く声で高らかに笑った。
「あなたさえいなければ、この町を実効支配することも難しくは無い」
神経を逆なでするような笑い声に、口元を歪め投擲武器を投げる。ガリア司祭まで一直線に飛ぶ投擲武器を、加工済みの死霊が死霊と思えぬ動きで叩き落とし、再び身構えた。
「呪文も無しに動くなんて卑怯でしょ。というか、こんの馬鹿な司祭がこの前の死霊使いなのね」
視力が戻ったらしいパステルが剣を引き抜きながら盾を構えた。不意にパステルの視線が足元に向けられる。
「残念だが、この教会は外に音を出さない為に幾つも細工がされている。町長の言う通り中まで音も届かない、彼は息を殺してずっと待っていただけなんだよ。私の下準備は完璧だ、そう完璧だ」
ここは、死んでいるのに息を殺す必要があったのか問題にすべきなのだが、ガリア司祭のわざとらしい言い回しは反応を待っているとしか思えない。
それ以前に、自分はパステルに伝えなければいけない事がある。口を開いて、一瞬息を溜めた自分は司祭の言葉に出遅れ、結果として司祭の言葉を奪う事になった。
「さぁ、畏れ」
「パステル、足元に棺桶があります。気を付けてください」
言ったが早いかパステルは低い唸りと共に何かを蹴りつけた。その後に高い悲鳴が続き、ガリア司祭の宣戦布告は完全に打ち消された。
「ちょっ、この馬鹿眼鏡! 知ってたんなら先に言いなさいっ。驚いちゃったじゃない! 馬鹿馬鹿バカ眼鏡っ」
馬鹿を連呼されたが、忘れていた物は仕方がない。むしろ、地道に一人で棺桶を椅子の下に動かした労力を考えて、多少は褒めて欲しかったのだが、無理な話だった。
「すみませんね。忘れてたんですよ、本当に」
出来るだけパステルの気分を害さないように言ったつもりだった。無駄だった。
「この馬鹿眼鏡、あんたの売りは頭でしょうが。そんなんだからモテないのよ」
色々と間違っている。少々の腹立ちと偏見、自分が見てきた事に対する統計を加えて、冷静に言い返す。
「それとこれと、関係ありません。頭がよければモテるんなら、頭の中まで筋肉で出来てるような連中は絶対モテませんよ。でも、実際は連中の方がモテてます」
自分の見解だが、明らかに頭の中まで筋肉で出来ているような連中の方がモテているのは確かだ。実際、連中の方が目立つし、何よりも分かりやすい。対して自分のような魔法使いは何をしているのか分からない。魔法事態は目立つのだが魔法使い自体は地味で目立たない。
考えていると、腹立たしさが増してきた。
「ゴチャゴチャと、うっるさい」
頭に血が上ったパステルは最初に手にしていた剣を床に突き刺し、余分に腰へ差していた剣に手を掛け、引き抜いた勢いをそのままに投げつけてきた。
慌てて頭を抱え、しゃがみこんだ。
背後で何かに剣が突き刺さった音がする。
「あっ」
思わず、といった風な声が聞こえた。
声のした方に視線を向けると、町長が目を点にして自分の背後を指している。剣が突き刺さっている場所だろう。丁度、振り返った先に深々と突き刺さった剣と貫かれている物が目に映った。
確かに、思わず声を上げたくなる理由も分かる。
パステルの放った剣は加工された死霊の体に深々と突き刺さっており、鎧の隙間を見事に貫通し壇上の端に固定されていた。狙っても出来ることではないのに、パステルは無い胸を反らした。
「よし! 狙い通りね」
絶対に嘘だ。思っていても口にしてはいけない言葉は幾らでもあるが、この時この言葉がそうだ。分かっていても口から出てしまったから仕方がない。後悔は後でするものだ。
「嘘ですね」
二本目の剣が飛んでくるかと予想したが、今度は本体が長椅子の背を蹴りつけて、パステル本人が跳びながらやってきた。
まさか、本人が直ぐに来るとは思ってもいなかっただけに身構えたが、パステルの視線は自分に向けられていなかった。
視線の先は先程までいた場所、視線の先を追うと幾つもの手が伸びていた。生気を失っているその手は男女さえも分からなかった。
しっかりと固定され、規則正しく並んだ長椅子の背を蹴り、跳ねるように自分の方へ向かってくるパステル。このまま、上手くいけば勢いそのままに壇上へ上がる事が出来る。しかし、壇上へは長椅子が三つ分足りない。
足りないなら足してやればいい。
加工された死霊の位置と自分の位置は、パステルから見て直線。自分へ真っ直ぐ進んできているのなら、自分が前に出て椅子の分の土台になってやればいいだけの話だ。
パステルに踏みつけられても大丈夫なように加工された死霊に向き直り、本を開き直し、魔法をかけるフリをする。
「パステル、壇上であの馬鹿を捕まえて下さい」
背中を向けたまま声を掛ける。返事は近くで聞こえた。
「あんたにしちゃ、上出来よ」
足を踏ん張り、全身に力を込める。ここで自分が崩れればパステルの体勢も崩れる。今でさえ、足場の不安定な椅子の背を渡ってきているのに、ここで勢いを落としては転ぶだけでは済まない。
背中に衝撃が走る。それでも全身に力を込めてパステルが移動するまで動かない。衝撃が足まで抜け、つま先が蹴りつける。崩れてはいけない、今は我慢の時だ。
目の前の死霊にパステルの影が差した。
「動くな」
死霊に叫ぶパステルの声が響く。しかし、死霊使いでもないパステルの命令が死体に通じる訳もなく。死霊は固定されたその場から異常に大きな腕を振り回した。視界の上方で火花が散り、パステルの影は見えなくなる。
最悪の考えが過る、しかし後方で何かが激突した音と共にパステルの悪態が聞こえた事で打ち消された。
「無茶をする」
マスカルの声だった。
「もうちょっとだったのに、あの気持ち悪い死霊が動かなきゃいいのよ」
全く持ってその通りなのだが、死霊を動ないようにするための行動だったような気がするが、今回は聞き流す事にする。まともに動けなくなった自分自身の足を必死に動かそうとするが、動けない。
目の前で腕を振り回す加工された死霊は剣の柄に引っ掛かって僅かに動く程度。だが、その腕が鼻先を掠める。
正直に言うと、結構無茶だったのかもしれない。動く首を捻り、上体を無理矢理翻して床に転がった。
下がった視線を上げると、床でマスカルがパステルを抱えていた。マスカルがパステルを受け止めたのだ。即座に治療が必要なほどの大きな怪我をしている様子はなく、自分の異変に気付いて跳ね起きた。
パステル一人の土台になったとは思えない程の衝撃が足に残っている。
「まさか、ここにきての疲労ですか」
考えてみれば連日の疲労は殆ど抜けていない。パステルやマスカルとは基礎体力が違う、ここにきて疲労が蓄積した足が限界に達したのかもしれない。いや、先ほどの衝撃が抜けきっていないのだ。それだけだ。
こんな時に動けなくなるなんて事は、出来ない。
「こんの馬鹿眼鏡。馬鹿言ってないで、さっさと起きなさい」
パステルの声が届くが、同時に加工された死霊の腕も届きそうになる。更に転がってそれを避けるが、床と長椅子の間で棺桶の蓋が開閉しているのが目に映る。腕をついて上体を起こし、本を開いて息を整える。
今、この状態で出来ることは少ない。
一番短い魔法を一息に吐き出し、出現した光の矢をガリア司祭へ向けて放った。小さな火花を散らし、幾つかの矢がガリア司祭の前で消滅し、残った矢がその体へ突き刺さった。
「ムカつくんで、一発打ち込んでからですよっ」
言い訳をしつつ、足の痺れが取れるまでの時間稼ぎをしたつもりだったが予想していた以上にガリア司祭の魔法抵抗率が高かった。多少、魔法が消される事は予想していたが、予想以上に魔法が打ち消された。運が良かったにしても、消された数が多すぎる。
「さぁ、祝福を」
視界の外、響く声でグレナンデが高らかに宣言した。
体力の無さに溜息を吐いていると、自分の体から燐光が出で泡のように全身を包んだ。内側から力が溢れ出るような感覚に襲われる。この感覚には覚えがあった。
グレナンデの仕業だ。僧侶の補助魔法は先ほどまでの足の痺れを完全に消してしまい、尚且つ全身に力を行き渡らせてくれた。
体の自由を取り戻し、椅子に掴まりながら立ち上がる。
自力で立ち上がった自分を見て、ガリア司祭は明らかな舌打ちと共に、手を振って必死に指示を出しているようだった。その顔からは焦りが見えた。長椅子の下蓋で何度も開けようとして失敗している様子が視界の端に映る。
「何故だ、術は成功したのに」
勝手に喋り出す哀れな司祭に眼鏡を押し上げて答えてやった。
「長椅子の下に棺桶を滑り込ませたんですよ。丈夫な椅子を憎みなさい、泣き叫びなさい」
持ち込んだ棺桶の数は覚えていたらしく、現れた死霊の数が持ち込んだ数よりも少ないことに不安になったようだった。これが墓地ならばこんな事はできなかったが、わざわざこんな場所に棺桶を引っ張り出してきたのが悪い。それでも、四人で相手をするには死霊の数が多すぎる。
一気に火をかけて焼き払ってしまいたかったが、残念ながら長椅子が木製で火をかければ自分達まで焼けてしまう可能性があった。そうでなくとも、教会内で炎を用いた魔法を使えば気付いた者が出てくる可能性が高い、いくら説明をしても教会を焼こうとしたとして理解されるだろう。
竜の幼生も、報酬も、手にしていない。疲労と共に腹立たしさが体の内側で燻っていた。
「町長、この死霊使いと死体を片付ければいくら出します?」
死体から逃げ、壇上に上がろうとしている町長へ訊ねた。可能ならば今すぐに逃げ出したい、と顔に書いていた町長は片目を閉じて口を歪めた。
考えてみれば、この町長よく精神が保てているものだ。この冒険者を嫌う町で、悪しき者もいない土地で、知り合いだった死霊の群れと同じ部屋にいるというのに気は確かなようだ。一般人なら気を失っても仕方がない状況だ。
「この状況で、何を言っているんだゼラニウム」
マスカルの憤りを含んだ叫びが聞こえる。聞こえるだけでマスカルは今近くにいる死体の処理に手間取っている。切れば切るだけ細かくなるだけで、死体は動き続けているからだ。パステルのように盾で殴りつけて押しのけている様子ではない。
「そうよ、金貨一袋以上じゃなきゃ許さないんだから」
マスカルの声がした近くでパステルの声がした。首を動かして声の方向へ目を向けると、二人が背中合わせに死霊と対峙しているのが映った。その近くでグレナンデが杖を振り、死霊を殴りつけては灰にしている。
苦戦している。だからこそ、ここで約束を取り付けておきたい。事前に請求したのと、後から請求するのとでは金額に大きな違いが出る。後から請求しても支払ってもらえると思えない。約束を取り付ける理由はそれだけではない、約束をして守る。そのために生き残らなければならない。途切れそうな気力を保たせなければならないのだから。
町長はやはり片目を閉じて口をへの字に曲げ、壇上に辿り着いた所で、嫌そうに答えた。
「四人で銀貨一袋しか払えない。これ以上は無理じゃ」
思わず腕を上げた。パステルがかなりの額をふっかけたが、予想以上の報酬だ。神の吐息を捜索した報酬よりも大分安いが、あれが破格過ぎただけだ。
死霊使い一人と大勢の死霊相手に、しかも教会の中では死霊の動きも鈍い上に最悪でも常駐している僧侶が他にもいる、四人で銀貨を一袋は十分な報酬だ。その他、町長の付けで買った道具を含めば十分お釣りが出せる。決して出さないが。
「交渉成立ですね」
喜びの声を上げたのは自分だけではなかった。パステルも腕を突き上げて喜びを示し、盾で目の前の死霊を殴りつけた。
「状況を見ろ。愚かな冒険者が四人いた所で、この私に指一本触れることも出来はしない。私に近寄ることも出来ない」
壇上でガリア司祭は嘲笑う。何故だか無性に火力をぶつけてやりたくなったが、ガリア司祭は町長へとゆっくり歩み寄っていた。壇上で燃える物は教壇とカーテン。この状況では報酬を払ってもらう町長にまで火が及んでしまう。
町長は壇上の傍まで寄ってきた死霊と、壇上でゆっくりと歩み寄るガリア司祭に追い詰められていた。
一番近くにいるが、死霊の群れに圧されて魔法使いの自分は町長へは近寄れない。それを知っているガリア司祭は死体を肉の壁として動かさない。壇上へ登ろうにも加工された死体がそれを許さない。下手な魔法は仕えない。
攻撃は出来ないが、補助なら出来る。一時的に、空を飛ぶことも出来る。
「死体愛好者の頭は死体と同様に腐ってるんじゃないですか」
ほんの少し跳躍力を飛躍的に上昇させる補助。その補助は早い魔法だ。対象を一人にしかとれないが、今はそれだけでも十分だ。
「私にやれってのね、人使い荒いわよ。馬鹿眼鏡」
嬉しそうなパステルの声が飛び上がった。
自分とパステルとの付き合いは長い、それだけに自分が使える魔法をパステルは熟知している。だからこそ、自らに現れた効果だけで意図は伝わる。
今、パステルの両足には羽の形をした光が纏わりついている。それはグレナンデの肉体強化のような淡い光ではなく激しく燃え立つ炎のような光だ。天使の靴を履いているようだ、と履いたこともない連中が語る。
自分と加工された死霊は未だに直線上にある。そして、町長とガリア司祭ともほぼ直線上に位置する。加工された死体に背を向け、自分がパステルに振り返るのと、パステルが弾かれた距離を一歩で跳んできたのは同時だった。
振り向き様、手にしていた本を閉じ、素早く懐に仕舞い込む。前傾姿勢で両手を握り、パステルの片足を受け止めた。
「っしゃあらぁ」
先程のような衝撃は無く、固い枕を受け止めたような感覚が手にある。手に乗っている足のつま先から方向を確かめ、後方へパステルを放り出した。まるで羽毛の詰まった枕を投げるような感覚だが、確かにパステルは跳躍した。
背後で加工された死霊が腕を振っていた、しかし今度はパステルが弾かれた音はなく、代わりに壇上で僅かな着地音がした。
「さぁ、観念なさい。首を飛ばされたくなかったら死体を止めなさい」
振り返ると、壇上でパステルがガリア司祭に剣を向けている所だった。その間にはまだ死霊が三体立っている。無理に飛び込めない距離ではないが、怪我は避けられそうにない距離だ。パステルの足から光の羽は消え始めていた。
対して、ガリア司祭は町長にあと一歩と詰め寄っていた。ガリア司祭が腕を伸ばせば届く距離だ。ガリア司祭に町長が捕まれば面倒な事になる。
「そちらこそ、大人しくしたらどうだ。それとも、報酬を払う本人がいなくなれば大人しくなるのかな」
厭らしい笑顔を顔面に張り付けて、ガリア司祭はゆっくりと町長へ手を伸ばす。わざと、この距離を縮められないだろうと時間をかけて町長を追い詰めていく、その様子が本当に厭らしい。
「魂の冒涜者、愚鈍なる死霊使い。あなたの神になど興味はないけれど、その名を貶めるのはその程度にしなさい。同じ司祭として恥ずかしいわ、今すぐにでも懺悔しなさい」
グレナンデの声だった。
死体の群れの中、グレナンデは先ほどまでパステルが居た位置、マスカルの背後にいた。いつも二人の時はそうしているのだろう、お互いの死角になる所をさり気なく補っている。
グレナンデが杖を大きく振れば、マスカルが頭を下げて杖の通過を待ち、マスカルの前の死霊を打つ。大きな動作のグレナンデに隙が出来れば、その隙に割り込もうとする死霊を切り落とす。
上手い連携だ。しかし、二人でなければできない連携方法は二人だけの期間が長かった事を物語っている
「魂の冒涜者? いや違う。魂の探究者と呼べ、これは不老不死への探究でもあるのだ。老いることも無く、記憶が朽ちていくことも無い。そこから永遠の信仰が生まれる、それこそが神の望む永遠の信仰でしょう」
神への信仰心など毛ほども無いが、明らかに解釈を間違っている、この司祭。
この町の神、ガリア司祭が信仰する神など知りはしないが、永遠の信仰などが目標だとしたら大変面倒な神だ。
自分の記憶は宗教に拒絶反応を起こす部分もあるが、拒絶しない程度に思い出してみる。しかし、そんな面倒な神はいなかったような気がする。面倒だから拒絶しているのかもしれない。
「永遠の信仰などありはしない。現に、貴様が操る死霊も腐っている」
さり気なくマスカルは「も」を付ける。意識してか、意識していないのかガリア司祭も腐っていると言う。確かに頭だけではなく、根性も腐った司祭だという事はよく分かった。
グレナンデとマスカルに注意がそらされている間、自分は壇上へ上がれるような場所が無いか、気付かれないように移動を始める。そして、パステルは静かに気配を消しながらにじり寄る。死霊の群れで阻まれているものの、喋る事の無い死体は自分達の行動を意図して知らせることはしない。
「これは、未だ術が完成していないからだ。この術が完成すれば永遠の信仰が得られるのだ。そうすれば、この私を魂の冒涜者などと誰も口にはしない。それに私も魂の冒涜など許しはしない、ただ劣化させるだけなどという冒涜を」
長々と叫ぶガリア司祭は寸での所でパステルの剣を躱した。パステルが舌打ちをすると、ガリア司祭は弾みに近い状態で町長を掴んだ。
町長が捕まった。
逃げようとする町長の服を掴んで引き寄せ、首を絞めるような格好でガリア司祭はパステルと向き合った。
当初の行動からして、司祭職を持つ者の行動ではなかった。
神の吐息が聞こえなくなり、不安な町を放置したまま出掛ける。追いはぎを死霊に変えて冒険者を襲う。偶然通りかかった不運な冒険者が預けた荷物を強奪する。当人がその場に居なかったにしても、依頼をしておいて約束した報酬を払わない。大量の棺桶を教会内に持ち込む。町長を冒険者共々殺してしまおうとしている。
どう考えても、頭が悪い行動ばかりで、行き当たりで行動しているようだった。そんなガリア司祭が町長を捕まえれば、人質にするでもなく即座に死霊へ変えてしまう可能性は高かった。
「そうだ、私は冒涜を許さない」
町長の服を掴んで引き寄せ、ガリア司祭は言葉を最後に吐き出した。
パステルが盾を突出して死体を押しのけて進もうとする。自分も投擲武器をガリア司祭に向けて放っている。マスカルとグレナンデも魔法なのか、叫びなのか知れない声を上げている。
町長の、片目を閉じ、口をへの字に曲げた顔が体ごと消えたのはその時だった。
死霊の群れに引き倒されたのか、ガリア司祭へのささやかな抵抗なのか、いずれにしても悪い状況だ。
ガリア司祭の背後に、渋い顔で片目を閉じた姿を見つけたのは瞬きの後だった。死霊の群れはパステルを押し返し、町長が消えた場へ群がっている、ガリア司祭の背後には空間が出来ていた。
一体、いつの間に。幾つかの可能性が浮かんでは消えた。
「そうじゃな。魂を冒涜する者を許してはいかん」
町長の手はガリア司祭の顔、耳を掴んだ。手が耳を引っ張ると司祭の後頭部が見えた。