完璧彼女を造りましょう

7.「汗と香水の匂いだ」





 タウの顔色が戻り、脈も正常の範囲内に戻った頃に手首を放し閉ざしていた口を開きました。冗談を言ったつもりの無いラムダは、タウに問いかけました。ラムダなりに丁寧に、でも確実に伝わるように。

「冗談は、言っていない。本の中に彼女を造るつもりはない、そう言った」

 激しくタウは頷きました、そして未だ顔の青いイェプシロンも小さく頷きました。目頭を押さえ、髪を掻き揚げて心拍数を下げようとしているようでした。

それが無駄になるのかを考えもせずに平常心を取り戻そうと努めているようでした。そうやって取り戻した平常心を彼らは自ら手放したのです。ラムダが手放させたのではありません。

「そうか、『彼女は自分で造るものだ』なんて空耳だね」

 イェプシロンの必死の抵抗は、ラムダによって簡単に打ち砕かれました。

「いや、言った。だから」

 タウが最初に机に突っ伏しました。続いてイェプシロンが椅子に寄りかかり、背中から沈みました。彼らだけでなく、近くにいた給仕が手にしていた荷物を放り投げ、遠くからラムダ達を見ていた何人もが悲鳴を上げて倒れました。

 悲鳴を受けて鳥が飛び上がり、誰かが駆け寄ってきました。何があったのか腰が抜けている様子の者に訊ねて、答えに失神する者もいました。ラムダは意図せず騒動の中心になってしまう時があります。この時もそうだったそうです。

 ラムダ自身も、騒動の原因は自分にあるのだと分かっているようです。その原因になる理由は全くもって分からないとのことですが。原因であるために多少は騒動を鎮火しようという気はあるのですが、ラムダは何もしません。以前に、倒れた者を救護室に運ぼうとした所、更に騒動が広がったそうです。それ以来、何もしないのが賢明だと確信したそうです。

その通りです。現実的に、ラムダが下手に動けば騒ぎが大きくなるだけです。

 倒れている何人かが回収され、タウが溜息一つで起き上がった頃、ラムダも一つ溜息を吐きました。それだけで誰かが倒れてしまう程、花が咲くような溜息だとよく喋るご両親の友人が形容していました。

「だから、手伝ってほしい」

 髪を掻きむしるタウは口を真一文字に結び、イェプシロンを叩き起こしました。やっと目を覚ましたイェプシロンは急に上げた頭を椅子の背に当てて鈍い音をさせました。そこで正気に戻り、目を白黒させてラムダを見返しました。

「何を手伝えって?」

 タウが諦めたようにラムダへ訊ねました。

 目を細めて、ラムダは珍しく周囲を気にした様子で目を泳がせました。そして、立ち上がり、タウとイェプシロンにも立ち上がるよう示して歩き出しました。

 顔を合わせて、タウとイェプシロンは慌てたようにラムダの後ろを追いかけました。

 ラムダの珍しい行動の連続に、タウとイェプシロンは慌てていました。タウとは最高学府に入ってからすぐ、イェプシロンとはその半月以上後に友人となったそうですが、彼らは今日のようなラムダの行動を知りません。

ラムダは書館で禁書を貪るように読んでいるか、実習棟で実習を行っているのが常で、他はタウやイェプシロンがどこかに連れ出していました。それが今日に限ってラムダの方からタウとイェプシロンを連れ出したのです。

 二年程度の年月を友人と過ごしてきた彼らにとって初めての経験でした。

 二人が早くも遅くないラムダについて行くと、実習棟の一室に招き入れました。その実習室はいつもラムダが利用していて、書館の次にラムダが居座っているのでラムダ以外が使用することはまずありません。

 長い金属製のベッドや、真新しい薬品瓶が並ぶ広い室内。血液、薬品や石鹸の慣れた匂いに、タウは多少なりとも安堵しました。これ以上ラムダが妙な行動を起こして、談話室などに行けば無理にでも救護室に運び込もうと思っていた所でした。

 正気を疑われていたラムダは二人が入ったことを確かめて、扉を施錠させました。

 二人に金属製の簡易な椅子を勧め、ラムダは備え付けられている本棚から一冊の本を大事そうに引き抜きました。鋲が打たれた厚い本は青い背表紙の一部が赤茶けており、装丁の金属の一部は溶けていました。ラムダは触れる事を躊躇わせるような本を腕に抱え、立ったまま目的のページを静かにめくりました。

 そして、目を細め、金属音すら聞こえない程ゆっくりと慎重に本をベッドの上へ置きました。

 白く長い指が示すそのページを覗き込んだタウは笑みを浮かべて溜息を吐き、イェプシロンは肩を上下させました。

 修繕の痕跡があるそのページには目つきの鋭い女性の肖像画がありました。肖像画の下には虫食いのある名前と略歴が書かれていました。イェプシロンにはそんな物がなくても女性が誰なのか一目で分かりました。何故なら、毎日のようにページにある肖像画よりも綺麗な肖像画を見ていましたから。

「ラムダ。やっぱり本の中じゃないか」

 イェプシロンは、ラムダがこの女性を「彼女」と言ったのだと思ったのです。大間違いです。とてつもない大間違いですが、その時のイェプシロンは知りませんでした。ラムダについて何も知らないのと同じくらいに、愚かだったのです。ラムダは目を細めて、少しだけ視線を動かしました。困ってしまったのですが、タウもラムダの視線には気づきませんでした。

「確か、植物関係の魔術分野の、どっかの廊下で見たような覚えがある」

 タウは椅子に深く座り、頭を押さえ、イェプシロンに答えを催促しました。イェプシロンが答えを持っていることをタウは知っていました。植物関係の魔術分野の、どっかの廊下はイェプシロンが毎日のように通る廊下だからです。

「それは森林学部の魔術技巧分野の南廊下で見覚えがあるんだ。僕の学部ぐらい覚えてくれ。むしろこの学府では名前が短い方の学部だぞ、それでよく長ったらしい自分の学部が覚えてられるね」

 それだ、とばかりにタウは手を叩きました。

「錬金学部、肉体形成分野、超変身細胞構造分析コース。俺は自分の学部を言うために毎日練習してるんだ。少しは褒めていいぞ」

 略すと肉体細胞だそうです。タウが言うには学部名が脱落しているのは気にする必要は無いそうです。でも、他の学部に生体治療分野の細胞構造分析コースがあるそうで、そちらは略して生体細胞と、似ているので困る時があります。ラムダの専攻分野です。滑舌の問題ですが、大変迷惑な略称です。

「偉い、偉い。じゃあ、この女性の名前も分かるよね? 廊下に書いてあるだろう」

 意地悪くイェプシロンがタウに問いかけました。さり気なく本を手で隠して。

 覗き見ようとしたタウは口に手を当てて考え込みました。そして上目遣いにラムダを見て、代わりに答えてくれるよう期待を込めた視線を送りました。それは成功しました。

「プシー嬢。森林学部、魔術技巧分野の創設当時の副学部長。森貴族がほぼ独占していた魔術を開拓した人間族の功労者。プシー嬢の時代にはまだ混血が完全でなく、九割九分九厘、人間族であったと言われている」

 それだ、とばかりにタウは手を叩き、イェプシロンがタウの頭を叩きました。タウの固い頭を叩いて痛めた手を振りながら、イェプシロンは無駄だと思いつつも更に質問をしました。イェプシロンなりの優しさなのかもしれませんが、優しさなどという不確定なものを証明する事は難しいのです。

「じゃあ、遺伝割合で何割以上から種族の認定がされるか。これは専門だろう、肉体形成分野」

 現代では混血が進んだ為に種族の確定は難しく、血液を分析して得られる遺伝割合から国が種族を認定します。

混血が進む以前に各種族の遺伝子を調べ上げた、当時の分析において最高を誇る情報を基準に現代の遺伝割合は算出されます。各種族に特有の遺伝子がどれだけの割合含まれているのかを示すのが遺伝割合です。その遺伝割合において、最も多い割合で、尚且つ規定以上の割合を満たせば種族の認定がされます。

 私や、ファイの場合は人間族を利用しているので血液の分析ができれば人間族になるのでしょう。血液の採取が出来、尚且つ日々の点検で利用される薬品や油の類を取り除いた上で分析できれば、です。

 もし、遺伝割合において規定以上の割合を満たせなければ人間族に認定されます。人間族は多くの種族と混血が可能だった為か、それとも元来の特性なのか、他の種族の遺伝子パターンと似ている箇所を多々持っており、広い意味での誤差の範囲に含むことができるのだそうです。

 イェプシロンはその規定の割合を訪ねているのです。

「ふっ。俺にそれを訊ねるのか? 六割だ」

 腕を組んで踏ん反り返るタウは自信満々に答えました。

「珍しく即答だね、流石は専門。で、ラムダ答えは?」

 苦笑いを含みながらイェプシロンはラムダに答えを求めました。イェプシロン自身も知っていましたが、あえてラムダに答えさせました。その方が効果的でしたので。

「六割六分。約三分の二」

 タウは静かに息を吐き出し、耳を両手で塞ぎました。聞こえないと主張しているようですが、その様子こそが真実を語っていました。タウは自らの専攻分野の学習を進んでするような学生ではありませんでした。

 イェプシロンが再びタウに手を挙げた時、静かに、しかし背筋が凍りつく程美しい声が二人を止めました。

「話の続きをしても?」

 動きを急停止した二人は揃って頷きました。

 手入れをされたラムダの指先はプシー嬢の肖像画を優しくなぞり、肖像画が恥ずかしそうに瞬きをした錯覚に囚われつつ、流れるその指をタウは息を飲んで見ていました。指はある文字で止まり、二度、本を叩きました。

 上からその文字を覗き込み、タウは首を傾げました。読めなかったからです。

 イェプシロンも同じ文字を睨み付け、文字を読み取ろうとしましたが、劣化による紙の破損と虫食い、そして古すぎる言い回しで簡単に読めませんでした。

「りょくさ、緑彩文明? 学部の創設に立ち会った、彼女、没、墓所に、学内」

 読み取れる文字だけを拾い上げながら、イェプシロンは言葉にしようと口の中で何度も噛み砕きました。

「緑彩文明の学部は今の森林学部か、その創設に立ち会ったプシー嬢は、学内の墓所に埋葬された。で、合ってるのかい? ラムダ」

 眼鏡を上下させながら、イェプシロンは得意げにラムダへ問いかけました。イェプシロンの学部では古い文献を読み解くことも多く、解読に自信があったのです。

「これなら、イェプシロンに頼んだ方が早かった。殆ど正解。問題はその後の埋葬場所」

 眉を寄せるイェプシロンは整列した文字を睨み付けましたが、首を振りました。直接、本に触れないように指で破損部分を示します。

「こんな破損と虫食いじゃ読めるわけないだろう」

 今度はタウが睨み付けるように文字を覗くと、明らかに単語の部分に小さな穴が並んでおり、その後から紙が折れたのか深い折り目が付いておりインクが消えていました。分かるのは文字の数と文字の一部だけです。

 静かな夜に、誰か他の者が墓場にいるようです。しかも、土を掘るような音が断続的にしています。昼間の、別の場所なら気にも留めないような音にタウは耳を澄ませました。音が途絶えて別の音が混じりました。ラムダが慌てた様子もなく大きめの墓石を見つけ、その影に隠れました。

 状況が呑み込めたタウもイェプシロンを離し、ラムダが隠れた墓石の影に滑り込みカンテラの灯を消しました。イェプシロンも素早く近くの木に登り、身を隠しました。

 土を掘るような音が消え、疲労を含んだ吐息一つ、足音も無く気配だけが通って行きました。先ほどまで三人が居た場所を通り抜け、気配だけが去っていきました。

 口を押えて声が漏れないよう、必死に気配を消すタウはその匂いを、足音もなく駆け抜けた姿をイェプシロンは木の上から確認しました。気配が去ったことを確認したラムダは墓石の影から出て、灯を点け直し、二人が居る事を確かめた上で再び歩き始めました。

「こんな夜に、シャベルを持って墓場に来るなんて僕たちだけかと思っていましたけど」

「汗と香水の匂いだ。こんな夜更けに、逢引きか?」

 乾いた笑いを上げそうになり、イェプシロンは自分で口を塞ぎました。

 まだ声の届く範囲に先ほどの者がいないとも限りません、もしも声を上げて戻ってこられると厄介には違い無いのです。

 本来、墓場には墓守がおり、死者の安眠を守っています。この墓場では学府の中ということで警備員が代わりを務めます。深夜に無断で墓場に入る事は許されません、当然、許可が下りる事はありません。何故なら、墓場には死者だけでなく埋葬品等の金品が眠っている事もあるからです。

 墓を暴く行為は全ての種族において褒められたものではなりません。その為か、墓の中には多く知識や副葬品が保存されている事もあるそうです。学府はその保存と死者の安眠を徹底しています。

 ご両親の行為は何かと問われると、現代に必要不可欠な行為だと答えておきます。発掘調査は過去を知ることです。過去を知ることは、今に至るまでの経緯を知ることです。今は過去がなければ存在しないのです。

 過去に失われた物もあります。それは記憶、知識、技術、記録、血など様々です。戦争が加わるとそれに拍車がかかります。イオタお嬢様、ラムダ、ご両親、ご両親のご両親が生まれるずっと前、種族が混ざり合う原因となった戦争がありました。それは古代戦争と呼ばれています。ファイはその時代の形見です。ファイから考えられた私もきっとそうなるのでしょう。

 古代戦争は、たった一つの種族と他の全ての種族が対立したものでした。その一つの種族とは、対生物用兵器を造り出し、文明が発達し過ぎた種族だとご両親は推測しています。推測をするしかないのです、多くの記録は失われ、多くの記憶も失われた現在において本当に確かだと言える事は少ないのです。

 たった一つの種族と他の全ての種族が対立したという事すら、推測の域を出ないのです。

 それでも、発達し過ぎた文明の技術は有用でした。その原理の一部が知れると、応用され、生活の水準は上昇しました。だから発掘調査は必要不可欠なのだとご両親は語ります。そうでなければファイもいません、私もいません。私もいない、というと語弊がありますが、動かない私はただのベータ二六.九八という頭蓋骨です。考えも出来ない、身動きも出来ない、ラムダに月光浴をさせてもらうだけの物です。

 時に、信心深い者達は背徳行為だとご両親を責めます。しかし、その人達の生活を支えているのは文明の技術を応用したものです。今も発達し過ぎた文明の技術原理を更に解明しようとしています、ファイと私の存在が許されているのはその為でもあります。

 古代戦争はあまりにも遠すぎる出来事になってしまったので、技術の利用に抵抗が無いのも原因です。人間は警戒心の薄れた生物です。

 いずれにしても、死という概念を完全に理解できない私には機能が停止しているようにしか見えません。きっとイオタお嬢様やラムダ、ファイ、ご両親のような家族に何かがあれば分かるのでしょう。そんな日は来なくていいのです。

 だから、墓場にシャベルを持って出掛けるのは正しい事です。そう、一番言いたいのはそういうことです。学府が知識や副葬品を独占する事は許されないのです、そして厳しく独占する程に、独占は難しくするのです。

「逢引き、ね。こんな人間族なら近寄りたがらない夜の墓場で? シャベルを担いで?」

 夜中、友人を墓場に呼び出して、シャベル片手の人間族は黙って歩き続けています。友人の会話が耳に届いていないのか知れません。