完璧彼女を造りましょう

11.「新鮮な空気を」







 恐怖だったのか、恍惚だったのか、タウは息すら忘れて墓穴から這いだしたラムダに魅入っていたのです。墓場の土で汚れ、先ほど棺桶を開けて死者を冒涜した人間族を、です。タウが他の場面で他の者がそんな事をしている現場にいたのならば、確実に殴り倒しているでしょう。その者が墓穴から出てきた所を引き摺り出して、長い説教と共に拳を十分に利用して故人への謝罪を求めたはずです。

 タウはこの時、初めて墓穴から出てくる人間を見ました。手を上げなかったのは、この時が初めてだからだったかもしれませんが、きっと出てきたのがラムダだったからです。

 凝視しているタウを余所に、ラムダは箱を荷物に仕舞い込み、愛用のシャベルで墓穴へ土を投げ込み始めました。もうプシー嬢の墓に用はないのです。

「タウ、もう棺桶を閉めたから臭いはマシ?」

 ラムダに声を掛けられ、タウは我に返りました。タウは長い時間魅入っていたように感じていましたが、ラムダが這いあがってから声を掛けるまでの僅かな時間でした。時間の感覚は常に一定ではないのです。

「まだ鼻が曲がりそうな臭いがする」

 ラムダが手にした箱を示し、タウは鼻を押さえました。タウにすれば棺桶の蓋が閉じたからとしても腐敗臭は未だに鼻孔をくすぐっており、酷い状況には変わりありませんでした。最初は持っていなかった箱からも臭いがしており、ラムダは大事そうに抱えています。

 ラムダの目的は箱の中の物だったのです。

 それが一体何なのか、タウは知りませんがプシー嬢の棺桶に収まっていた何かだという事は分かりました。そうでなければ臭いの理由が分かりません。

「イェプシロンを迎えに行こう。動けば臭いも変わる、新鮮な空気を」

 自分の目的が終わり、プシー嬢の墓穴を埋め戻したラムダは、転がったタウに立つよう無言で要求しました。ラムダ自身は要求した自覚は無いのですが、目が命じていたのだとタウは言います。

 鼻を手で押さえたまま、タウはカンテラを片手に立ち上がり、ラムダから距離をとりつつイェプシロンを迎えに行きました。愛用のシャベルを握り直してラムダは後に続きます。悪臭が後ろに続く事にある種の恐怖を覚えながら、タウはイェプシロンの匂いを探しました。移動はしていません。

 イェプシロンはずっと学府長と相談をしていたのです。

 灯りも無いままに聞こえる会話にタウは驚きました。イェプシロンは学府長の為に蝋燭を点けていると思っていたからです。

 やけに明るい月明かりだけが、墓穴の前で喋っているイェプシロンを照らしていました。

「イェプシロン、灯りは点けなかったのか?」

 カンテラの灯りを向けると、眩しそうに目を細めるだけでした。イェプシロンが持っていたのはチョークだったので灯りをつける事はできません、その事実にタウが気付くのは後です。

「もう燃え尽きたよ」

 学府長が大きく否定の意を体で示しますが、タウには見えませんでした。

「それより、なんだか酷い臭いがするけど? 目的の物は見つかったのかい?」

 土を払いながら立ち上がったイェプシロンは悪臭の元を訊ねました。この時、イェプシロンはラムダの目的がただの墓暴きではない事は分かっていましたが、何を求めてプシー嬢の墓を選んだのかは判りませんでした。森林学部の元副学長の墓と聞いて、多少の興味があったのは確かです。高価な副葬品、特に学術的な、もしくは森貴族に効果的な何かだと希望的観測をしていたようです。

「あぁ、学府長が来学期から受講料を半額にしたいと申し出てくれたんだけど、確約書を書ける紙を持ってないかい? ラムダ。口約束を破るような事は無いと思うけど、ご老体だ、記憶が無くなってる、なんてことが有っちゃ困る」

 イェプシロンは自称・丁寧な交渉術で、学府長に来学期からの受講料を半分にさせる確約を取り付けていたのです。その間、学府長は棺桶の主と一緒に狭い暗闇の中に滞在していました、これがイェプシロンの言う丁寧な交渉術です。言葉が丁寧なら良さそうです。

 シャベルを地面に突き立て、ラムダは肩に掛けていた鞄を降ろしました。大事に抱えていた箱を先に鞄へ仕舞い、鞄の横に縫いつけられたポケットから厚手の紙をイェプシロンに手渡しました。

 紙を受け取ったイェプシロンは簡単に破けてしまわないか、手で確かめた上で学府長へ手を差し伸べました。

 イェプシロンの顔には不気味な笑顔が張り付いていました。

「イェプシロン、待ってほしい」

 危うく、学府長を縛っている縄にイェプシロンの手が触れる直前でした。ラムダの制止にイェプシロンは振り返り、タウは批難の視線を向けました。

 学府長が入った棺桶を墓穴の縁で見下ろすラムダは棺桶の中に興味深い物を確認したのです。確認するまでの間、ラムダは動きを止めました。動きを止めたラムダを別の形で理解したイェプシロンは自分に溜め息をつきました。

「えぇ、そう、そうですね。先に棺桶から出しちゃ確約書に署名してくれなさそうですもんね。タウは学府長に頼みごとは無いのかい? 僕は受講料の値下げをお願いしたんだ」

 学府長は目を白黒させました。

 イェプシロンはタウやラムダの要求も学府長に呑ませるつもりでした。学府長は受講料を下げると約束しただけで、誰に約束したとも答えなかったのです。猿ぐつわをされていたので口答できず、身振りで答える事しか出来ないのをイェプシロンは良く分かっていました。

 しばらく何を問われているのか分からなかったタウは何度も瞬きをしました。そして、何を問われているのか分かった途端、何度も頷き、照れ臭そうに言いました。

「そうだな。学生寮の壁や床も古いし、あ、ガラス窓も割れてる所を補修して使ってるんだ。学生寮が新しくなれば住み心地が良くなる、かもなんて。それに管理人さんの給料も安いんだよ、なー」

 学府長は渋い顔をしました。

 しかしタウの願いも当然で、当時の学生寮は老朽化が進んでいたのです。

 通路は一部が崩れ、割れていないガラスは学生が持ち込んだ数枚しかなく、風が吹けば不協和音を奏でている状況だったのです。それは学生部屋も同じで、天井から水が滴り落ち、壁の塗装は剥げ落ち、一部が抜けた床で足を踏み外した学生が下の部屋に落ち、安眠妨害で成績も落ちていたそうです。

 タウは以前の学生寮について楽しそうに教えてくれましたが、学生寮ではなく何処かの廃屋だと思っていました。タウが住んでいたのは男子学生が住む学生寮で、長い期間苦情が上がっても放置されていたそうです。

 女子学生が住む学生寮はまだマシで、正体不明の茸が廊下に生えているだけだったそうです。当時の学生寮の廊下は石造りでした。通常、石に茸は生えません。

 学生寮の老朽化問題は学府長の耳にも前々から届いており、解決しなければならない問題でした。自分の代では見送る予定だった学生寮の建て直しを前倒しする事になった学府長は渋々頷きました。

「タウ、それは前々から問題になってただろう。今じゃなくても次の会議で可決されるんじゃないかい?」

 イェプシロンは学府長を横目に、タウの願いを変えるよう勧めました。でも、実際は学府長が可決させるつもりは全くなかったのです。学生寮の建て直しは時間と予算が多くかかります、学府長にしてみれば学生寮など予算の無駄なのです。

 学生寮には学府から予算が出されており、そのお蔭で学生は通常の貸し部屋よりも安い値段で学生寮の部屋を借りる事ができるのです。受講料を払うのがやっとの学生でも安心して生活できるのが学生寮でした、タウもその一人です。

「いや、前から何度も頼んでるんだ。確実にやってもらわないと困るのは俺だけじゃない」

 自己利益の為だけに全体の受講料を下げろと頼むイェプシロンと、自分だけでなく他人の為に学生寮を建て直せと頼むタウ。何も知らない学生なら、イェプシロンに賛美を送るでしょう。学生寮に住んでいる学生は一部です、受講料は全ての学生が払うのですから。学生はイェプシロンに賛美を送っても、私は送りません。

「そう。という訳で、タウのお人好しにも呆れる程だ。学生寮の建て直し、その間の学生への対応も申し出たそうな顔をしていますね」

 再び、イェプシロンの顔に奇妙な笑顔が張り付いていました。

 震えているのか頷いているのか判断できないような動きをして、学府長は棺桶の中から出ようともがいていました。手足を縛られて、猿ぐつわをされた学府長が身をよじる度に棺桶の主が居心地悪そうに音を立てます。

 その様子をラムダは黙って見守っていました。

 黙って見下ろすラムダを、見張っているのだと学府長は感じていました。ラムダは全く興味の無い学府長など見張っていません、ラムダが見ていたのは学府長と棺桶の主が動く度に見え隠れする棺桶の底を見ていたのです。

「ラムダは?」

 タウに問われ、ラムダは振り返りもせずに即答しました。

「学園内にある全ての墓所の権利」

「ラムダ、それは止めておこうか。個人が特定出来るのは駄目なんだろう?」

 珍しくタウが賢明な理由を思いつきました。死者への念、冒涜、知識や副葬品などの独占はラムダへ通じません。死者への念や冒涜に動じるようでは墓暴きなどできません。知識や副葬品の独占などラムダはしません、大切に分け合い、未来に役立てるのです。言い訳だけなら、十分出来るほどラムダはご両親の言葉を聞いていました。

 ゆっくりと、残念そうな目でタウとイェプシロンを振り返るラムダ。タウの言い訳には納得したのです。

「駄目だね。それに月見してるんだろう? それで良いじゃないか、後は勝手にやれば」

 イェプシロンは、今夜のような事がまた無いとも限らない、と考えていたのです。今夜のように学府長を脅せる機会など滅多にありません。滅多にないのに、再びあるのではと考えるのが浅ましいというのだそうです。

「勝手にはまずいだろう。でもな、ラムダ。イェプシロンの言う通り、月見をしてるんだからいいだろ」

 僅かながら、ラムダは目線を下げて夜でなくとも分からない程度むくれていました。

「分かった。今夜の事について沈黙して欲しい、こちらが望むまでの沈黙。何かに記すのも駄目、表現を沈黙」

 それは学府長が何者かに埋葬された事、ラムダとタウ、イェプシロンが学府長を掘り起こした事、ラムダが墓を暴いた事、イェプシロンが学府長に頼み事をした事、ラムダが墓から何かを持ち帰る事、全てを黙認せよと言っているのです。

「それもそうだね、忘れていたよ」

 全く、忘れてなどいなかったのにイェプシロンはわざとらしく吐くのです。それは重大な事に気付いてしまったからです、ラムダの頼み事などロクな事はないと。

 イオタお嬢様が言うには、ラムダは大変な変わり者だそうです。イオタお嬢様が言うので、ファイも同じ事を言います。ご両親は、あまり変わっている訳ではないと言います、ラムダが変わり者ではないと否定はしません。

 変わり者のラムダの頼み事は、一般的にもイオタお嬢様的にもロクなものではありません。実はラムダによる被害の大半に合うのはイオタお嬢様です。お嬢様自身が言っていました。

 大半の被害はお嬢様に回ってくるので、少しはイェプシロンやタウが被っても気にしないで構わないと思うのですが、それは駄目なのだそうです。家族と友人は扱い違うのだと。ラムダの友人は数が少ないので特に大切にしなければならないそうです。多ければ粗末にしても良いのかというと、そうでもないらしいです。

 私にはよく分かりません。

 私に分かるのは、ラムダの頼みでイオタお嬢様とファイが忙しく焼き菓子を作ったり、講義の途中で拉致されたり、拉致された流れで遺跡まで連行されたり、そのまま遺跡探索という名で遺跡に監禁されたりする事が多々あるというだけです。後半はご両親もしばしば実行します。お嬢様は嫌がっているのですが、本当は嬉しいのです。しかし、突然の拉致は止めて欲しいそうです。

 ラムダの頼み事は全てイオタお嬢様が受ける被害のようなものではありません。時には夜の墓場探索への同行という楽な頼み事もしますが、タウは大変嫌がります。夜目が利くイェプシロンも何故か嫌がります。

 学府長への頼み事は、家族や友人へのものとは異なるはずですが、一般的にはロクなものにならないのです。ロクな頼み事とは一体何なのでしょうか。

 イェプシロンはラムダが他の頼み事をする前に、足元に生えていた草から一本を選び出して根本から摘みました。草の傷口を優しく撫でて紙面に当てました。草を器用に滑らせると紙面に黒い文字が残ります、この文字はラムダが削り取ったような文字とは違い長く保存しておく必要が無く無駄な加工はありません、タウも酷い臭いだとは感じませんでした。

 丁寧な交渉の内容を丁寧にイェプシロンは書き上げます。

 草の香りがする文字を確かめ、イェプシロン、タウ、ラムダの頼んだ内容を学府長が確約する書面の出来上がりです。無いのはイェプシロン、タウ、ラムダ、学府長の名前で、学府長が自ら望んで約束をする事になっていました。

 今度こそイェプシロンは学府長を縛っている縄に手を掛け、署名をするように頼みました。あえて棺桶から出ないように片手で胸部を押さえつけながら。

 何度も震えるように頷いた学府長は、イェプシロンの書いた書面を凝視しました。口約束を忘れたとは言えなくなったのです。いいえ、正確には受講料を半額にし、学生寮の立て直しとその間の学生への対応を確かに行いつつ、今夜の出来事を表面上忘れなければならないのです。学府長として棺桶の中に居るよりは良い条件だったのでしょう、外された上半身の縄を振り払い、イェプシロンに握らされた草を握りしめて署名をし、自らの血と指で血判を押しました。

 署名の文字は震えて乱れ、大変読みにくい代物でしたが、血判は学府長のものでした。それに満足したイェプシロンは書面を片手で仕舞い込み、学府長を押さえていた手を放しました。