非現実的な現実主義者
02




***

「どこぞの幼女趣味の童話作家と一夜を過ごした気分はどうだ? ファラッド」

新聞から顔を覗かせて、下請け事務所の所長はファラッドを迎えた。
早朝の事務所には、味の違いも分からない珈琲の匂いが漂っていた。

毎日机の上に新聞を積み上げて、午前中には読み終わっている。
その燃料に五杯以上の珈琲を飲み干して、脱臭効果のありそうな息を吐き出す。
実際に吐き出すのはファラッドや同僚の一二三へ向けての毒なのだが、
口を開くまでのその様子は絵になる。

事実、絵に収められればどれだけ心労が減ることか。

「火のない所へ爆弾を放り込むのは止めてくれませんか?
俺とカロルはそういった関係にはありません」

何度となく言った言葉だが、上司には効果が薄い。
珍しく目元で笑って、ソファで温かいミルクを飲んでいる一二三へ視線を向けた。
一二三は実に、悪戯をしたような子供のように、いや本当に脳内は子供かもしれない、笑いを浮かべた。

「今回に関しては一二三からの情報だ。
あと、無駄に電波を垂れ流している端末を使うのは止めておけ。
と、君の恋人にも忠告しておくことだ」

新聞を折りたたみながら、
見た目だけは彫刻のような上司は忠告をしてくれた。

(カロル、お前の通話機は盗聴済みらしいぞ。)

内心、ファラッドは友人に忠告した。
どこまで心で呟いても仕方がないので、次に会ったときにでも伝えるつもりだった。

「なんで一二三が情報源なんだ?」

振り返り、吐息をミルク味にした同僚に聞く。
一二三は自慢の長い足を組み替えて答えた。

「私がファラッドを追尾したから。
だって、風呂上りの全裸で出かけようとしてたんですよ~」

「誤解を招くようなことを言うな。
風呂上りで服を着る途中で電話があったんだ、ちゃんと服を着て出た!」

何故ファラッドは自分が必死に弁明をしなければいけないのか分からなかった。
一人で逆上せあがっているファラッドを横目に、彼の上司は新聞へ視線を落としながら興味もなさそうに訊いた。

「窓から?」

「そう、窓から」

一二三が楽しそうに続けた。
窓から部屋を出ることの何がおかしいのか、ファラッドは上司に問いたかった。

「あんただって窓から出入りするじゃないか。
むしろあんたの方が窓から出入りしてるじゃないか」

窓を出入り口と勘違いをしている節がある上司は深い溜息を一つ吐き、優雅な手つきで人差し指だけを上げた。

「ファラッド、上司への暴言は減給に直接繋がっている事実を忘れているなら、現実的に思い出させてやる」

「すいません。前言を撤回させて下さい」

ファラッドは素早く前言を撤回した。
彼は理不尽な減給を忘れるわけがなく、現実的に思い出す必要もなかった。


ファラッドの減給が行われる前に、ファラッドの撤回は許可された。
理不尽な理由で部下の減給をするのが趣味、ファラッドと一二三の上司プロフィールには記載されていた。
以前に、自分を解体するファラッドと一二三の夢を見たから暫くの間は減給すると言い出した日もあった。
本当の理由は珈琲を淹れたら失敗した腹いせだったに違いない。

なんにせよ、多少の減給など痛くもない給与だが、意味もなく減給されるのは嫌だった。
尚且つ、減給は五十パーセントから始まるところが恐ろしい。

「で、本題に戻るが。どこぞの幼児趣味の童話作家から仕事があったんだろう?
お前の『友人』で事務所に名乗ることもできずに依頼しようとする奴なんてあいつ位だ」

「そもそも、この事務所に仕事持ってくる方が少ないですもんね~」

喧嘩を売っているのかと思うような口ぶりで、一二三はソファで転がった。
この猫のような女をどうしてくれようか、ファラッドは苛立ちを隠せなかった。
いっそのことソファの上に身を投げて、押しつぶしてやろうかとも思ったが、
そんなものを完全に無視して珈琲を飲み干していくだろう上司に見られたくもなかったし、
軽々とファラッドから逃れもでき逆に押し倒すこともできる一二三には無駄だった。

だから、ファラッドは上司を利用することにした。

「一二三は減給の対象にはならないんですか?」

「ファラッド、良い質問だ。
精神的苦痛に対する賠償と、どちらが有効か悩んでいたところだ」

「あぁ、ごめんなさい。ごめんなさい」

ソファから身を起こして何度も謝る。
彼らの上司は物理的にだけではなく精神的に恐ろしいのだと刷り込まれていた。
取っ組み合いになれば、その細首など簡単にへし折れるのだが、そこに至るまでがどれだけ苦しいものになるか分からない。
そもそも、彼らはこの環境を提供してくれている上司が心のどこかで好きだった。

決して口には出したくないが、彼らは彼らの上司が創り出す今の環境に十分にとはいかないが満足していた。

「許してほしければ、そうだな、
車の中でハンドルを握りつぶそうとしているファラッドの恋人を連れてこい」

「だから、なんでそう爆弾を投げ込むんですか。
どこですか?」

ファラッドは、まさか嫌がっているカロル本人が来るとは思っていなかった。
わざわざ来るなら自分を深夜に連れ出したりしなかったはずだ。
嘘だろう、といった目で上司を睨むと眼鏡越しの冷ややかな視線が返ってきた。

「下の駐車場。東の端だ」

一二三は黙ってソファから飛び上がり、ファラッドの腕を掴むと事務所の扉から出かけた。

***

一二三に連れられ事務所から連れ出されたファラッドは見たくないものを見た。
昨日乗った車とは別の物に、同じ運転手が乗っていた。

所長の言うとおり、運転席のハンドルを握りつぶしそうな顔つきで唇を歪めていた。

「捕獲だー! お縄だー! 拉致だー!」

一二三は適当なことを言いながら運転席のドアを開けてカロルを引きずりだした。
カロルも大した抵抗はしない。
下手に抵抗をしてドアを外されるのも嫌だったし、無駄な損害を出したくはなかった。

運転席から渋々カロルは降りた。
助手席で物言いたげな女が一人乗っていたが、ファラッドと一二三は放置することにした。

「さて、所長から連れてくるようにと命令されてな」

「御用だー! 問答無用だー! お昼はラザニアだー!」

暗に「昼食にラザニアを奢れ」と一二三はカロルの背中にしがみついた。
背の高いカロルの首に腕を巻きつけて腹を両足で挟む。
まるで、「お兄ちゃん、おんぶ」状態なのだが、カロルの内心は冷や汗が滝のように流れている。
首をへし折られる直前の状態でもあるのだ。

そうでなくとも、カロルはファラッドと一二三の上司には会いたくないのだ。
今ここで逃げても問題は解決しないだけではなく、悪化することを知っているカロルは大人だった。

「俺はなんでもいいぞ?」

「えぇい、俺にたかるな。
俺は昼までに帰る、絶対に帰るんだ」

「所長がその言葉を聞いたら絶対言うだろうね~
『絶対昼までには帰さない』って」

カロルだけを連れて事務所へ戻ろうとした時、
カロルが乗ってきた車のドアが乱暴に開け放たれた。

「わたくしも連れて行ってくれないかしら」

即答したのは一二三だった。

「嫌」

絶世の美女、世間一般にはそう言われる女性だろう。
パンツスーツを履きこなし、いかにも「世界は私の為に回っているのよ」と顔に書いてあるくらい自信に満ち満ちている顔だった。

「ふん、カロルは連れて行くのでしょう?
彼を連れてきた上司も連れて行くべきではないかしら?」

「所長が連れてこいっていったのは『ハンドルを握りつぶしそうな』やつ。
あんたはハンドル握ってなかった」

どうやら一二三にはカロルの上司が気に入らなかったようだった。
カロルが小さく溜息をついて手を振る。
一人で行かせてくれという部下の合図は上司に伝わらなかった。

「付いて来たいんですか?」

仕方なくファラッドが問いかけた。

「いいえ。あなた達がわたくしを連れて行きたいのよ」

自分の髪を指で払い、芳香をばら撒いた。
見とれたくなるほど様になる仕草だ。
残念ながら、一二三とファラッドには「綺麗な花には棘どころではなく毒がある」ことを知っていた。
その毒は美的感覚を混乱させるほどの免疫が必要だった。

**

花は美しいから毒があるのか、
毒があるから美しく咲くのか、
行動の断片を集めると後者であるだろうファラッドと一二三の上司は開口一番に毒を吐き出した。

「戻して来い。空き箱に入ってたからって拾ってくるなと何度言わせるんだ?」

カロルの上司を一瞥して、珈琲カップに新しい液体を注いだ。

「ほら~。帰れ、帰れ~。私たちが怒られたでしょ~」

ここぞとばかりに一二三は女に手を振った。
腹立たしい仕打ちに女は口角を下げただけだった。
自分の美貌というプライドを打ち砕かれているはずの女は、靴音高らかに事務所内へ入った。

「カロルの上司、フレイと呼んで」

「フレイ。出口は三歩下がって右だ」

卓上の植物の葉を指で弾きながら、フレイのプライドを無言の内に破壊した本人は悪魔で優雅に命令を下した。

「こちらのご婦人はご用件がないらしい。一二三、ファラッド、放り出せ」

「カロルからの依頼はわたくしの依頼でもあります。
あまり客人に傍若無人な態度をとっていると仕事がなくなりますよ」

勝手にソファへ座ったフレイは足を組んだ。
来客用のソファはその柔らかな仕草に軋んだ。
ファラッドと一二三は溜息一つ吐き、ソファごとフレイを持ち上げて足で事務所のドアを開けた。

ソファを担いで出て行った一二三とファラッドは二人だけで戻ってきた。

「さて、依頼人を確かめておこうか。カロル」

「……俺だ」

カロルは他に答えようがなかった。

正確に依頼人を確認し、形式的な手続きを済ませ、一二三とファラッドは指示を待った。
依頼遂行までの手順を決めるのは事務所長の仕事だった。
その仕事は他の誰にもできなかった、同時にさせなかった。

「期日が差し迫っているようだが、延長は可能だな?」

「せめて、断定しないように質問してくれないか?
今回に限っては可能だ。
しかし、可能な限り期日までに完了してくれ」

カロルは上司を完全に頭の中から除外し、書類を片手に悩みこんだ相手を見た。
その細い首を絞ることができたのなら、どれだけの精神的苦痛が減少することか。
そして、どれだけの事務処理や不必要な処理が激増することか。
カロルは天秤にかけ、いつも後者の負担に負ける。

「逢引の現場に案内しろ。
今から仕事にかかる、一二三は車の準備を、ファラッドは荷物をまとめろ」

逢引の現場ではないと喚いたのはファラッドとカロルだった。