鬼蘇死霊学実験

二 死霊学の理論







二 死霊学の理論



 死霊学は大きく二つに分けることができる。労働代行を目的とした肉体の利用と知識保存を目的とした精神の利用である。どちらを利用するかにより死体の準備から管理方法まで異なる。それぞれの基本的な理論は次の通りだ。



「うわぁ、大きいタンコブになったね」

 書館の長椅子に横たわったカイの頭上でニューは言った。見た目にも分かるくらいの大きなコブを作らせた張本人は、カイと同じくらいの荷物を抱えていた。

「すまん、お前を見るとつい。分かるだろ?」

 笑いを噛み殺しながら言い訳をした。満面の笑みなのに、やけに痛々しかった。こけた頬と目の下に広がる黒いクマ。疲労の為か顔は蒼く、唇は所々切れている。更に、埃に汚れた服が苦労を物語っていた。

 カイの髪を掻き上げて、傷の具合を確かめる。腫れてしまった部分を指で弾きたくなる衝動に駆られたが、ニューに止められた。

「分かるけどさ。それよりシグマ、今日も酷い恰好してるねー」

 カイに石を投げた当人の格好を見て、ニューは正直な感想を伝えた。シグマは笑いながら服を引っ張り自慢げに言い返した。

「はっはっはっ、お前の言葉の方が酷いぞ。勉強ってか、真面目にしてたらこうなったの。誰も好きで埃まみれの書庫に入り浸ってるわけじゃないからな」

 シグマは服の汚れが勉強の成果だと間違っていた。しかし、誰もそれを否定することをできずにいた。書館では清掃業務も大きな仕事の一つだったが、各学部内の書籍置場までは管轄していない。学部内でもそれぞれ扱いが異なるが、考古学部の書籍置場は各コースにあり、死霊学コースのそれは決して清潔といえる環境ではなかった。

 特に共有で利用できる書籍置場の最深部には誰も辿り着けず、初代死霊学コース長が作成した試料が未だに片付けを任されているというもっぱらの噂だ。つまり、誰も掃除をしていない。カイも時々資料を探しに入るが、顔を覆う布と手袋は欠かせなかった。

「ところで、ニューの荷物か? お前、転科するの?」

 ニューが持っていた鞄を漁りながらシグマは訊ねた。

「埃まみれ学部になんて、いくわけないよー。ニューは壊すのが専門だから、逆方向だよー」

 ニューは心底嫌そうな顔をしてシグマを見上げた。カイよりも少し身長の高いシグマだが、ニューにとっては見上げるという意味では同じだった。

「おぉ、言うねデコボコ学部。これ、どうせカイの荷物だろ。お前も同じことやってんだろ、お前の所の先生に持ってくって言ってたからな。ってか食い物ないのか?」

 シグマは勝手に鞄を漁り、食べ物が入っていないと分かると静かにカイの腹に置いた。

「ちっ。しけてやがるな」

 言い捨ててカイに背を向ける。その時、待っていたとばかりに起き上がったカイは自分の鞄をシグマへと投げつけた。

「好き勝手やってんな、てめぇ。謝れ、勝手に鞄を漁るな!」

 シグマは完全に不意を突かれた。頭に石が当たり大きなコブを作っていた上に、鞄を腹の上に置いたからすぐには起き上がれないと踏んでいただけに安心しきっていた。

 大量の紙束と専門用語集、筆記用具などが入った鞄はシグマが投げた石より大きく、重たかった。頭部に当たりはしなかったが、背中に鈍い重さがのしかかった。疲労困憊の身体でなくとも倒れるには十分だった。

「そんな元気あるんなら、自分で運びやがれ」

 床に伏したまま憎まれ口を叩く。シグマにはそれしかできなかった。背中の鞄を振り落とそうにもカイが鞄越しに圧し掛かっていた。

「あー、ニューも乗る!」

 更には面白がってニューまで圧し掛かり、転がろうにも転がれず、その場でカイとニューに押し潰されそうになっていた。必死に腕を立てて起き上がろうにもカイの鞄は重く、ニューは完全に背中へ乗っている。

 高らかな靴音を立てて救世主が現れたのはそんな時だった。

「あら、ごめんなさい。お邪魔だったかしら? むしろこんな所で仲良くヤッテル貴方達の方が邪魔よね?」

 黒いブーツが紺色を基調とした書館管理員の服から覗く。三人が見上げると、金縁の眼鏡が光った。

「堂々と公共施設内、しかも書館の中。楽しくヤルなら他の場所の方が良いんじゃないかしら? むしろ貴方達の学部の方が防音は良いわよね?」

 磨きこまれた靴と眼鏡が特徴的なその書館管理員は、シグマとカイの見知った顔だった。主に考古学部の棚を管理しており、シグマとカイは何度となく世話になっていた。花のような紫色をした巻毛が不思議な雰囲気を醸し出している女性だった。

 書館管理員の言葉にニューはシグマから飛び降り、カイは仕方なく鞄を下した。書館の中で書館管理員に逆らう訳にはいかない。文字通り書館から叩き出されてしまうからだ。そして、機嫌が直るまで書籍の捜索を手伝ってもらうことができない。

 書館にある膨大な量の書籍の中から目的の本を探すには多くの労力を必要とする。階ごとに学部の書籍は割り当てられているが、書館は広い。多くの者が手に取るような本は比較的分かりやすい位置にあるが、読む者が少ない専門書となると書館管理員の力を借りなければ目的の本を探すのには半日以上かかると言われている。

「自重します。仲良くなんてありませんけど」

 起き上がったシグマへ二冊の本を渡すと、書館管理員はカイとシグマを交互に睨み付け立ち去った。

 シグマが受け取った書籍を覗き見、カイは声を上げた。

「お前、それ禁帯出書籍だろ。なに、借りられるの?」

 書籍の背表紙にはしっかりと「禁帯出」の帯が掛けられており、読む為に必要な道具を絵と文字で表記されている。禁帯出書籍は様々な理由で持ち出しが禁止されている。書籍の内容や存在が理由だが、今回の場合は前者だった。

「今は、な。専門書の添削をするんだからって、グザイ氏が許可をくれたんだよ。学府内には通達が出てるから今なら禁書だろうが、保存用の隔離試料だろうが見放題。こーんな面倒な事をしてやってるんだ、これぐらい良いだろ」

 やつれた顔でシグマは口元を歪ませた。

 カイにとってそれは衝撃的な事実であった。グザイ教員が紙束を持って来た時に、許可の事など一言も口にしなかった。許可が下りている事を知っていれば直ぐにエータに必要な書籍を書き出してもらって書館へ走っていたのに。今でもエータは学部内で集めた資料だけで紙束と格闘している。

「でもなー、流石に修復中の書籍と手袋がいるやつは借りられなかったわ」

 シグマは拗ねたように手元の書籍の題名をなぞった。

 禁帯出書籍の帯にも描かれている手袋、シグマの言う手袋とは通常の手袋ではない。特定の書物を読むときに必須となる布製の手袋で、特殊な織り方の布を用いて書籍に噛みつかれないようにするものだ。ページの間に指を挟んでその先を消失しないように、文字と文字の隙間に住むとされる書籍の住人に引きずりこまれないように、俗に書籍に噛みつかれないようにする為に装着が義務付けられる。

 手袋が必須とされる書籍は禁帯出書籍に分類され、許可と手袋がなければ本に触れることも許されない。

「なんだ、それなら全部あるか。残念だな、手袋いるのか」

 禁帯出書籍の中でも手袋が必要ない書籍の大半は学部内の書籍置場にもあった。書籍の危険度は重要性に比例すると言われる程で、知識を得るには相応の準備と覚悟が必要でもあった。

 カイには準備をする為の資金が不足していた。禁書用の手袋は高価で、書館でさえも管理員と同じ数だけしかなかった。教員も所持が必須とされているが、カイの担当教員は必要としない為に持っていない。

「あれー、カイ持ってなかった? 黒いの」

 ニューはカイの鞄を探り、見覚えのある手袋を引っ張りだした。

 極めて薄い皮でできた黒い手袋はシグマも持っていた。シグマもポケットに手を突っ込み、同じような黒い手袋を引っ張りだしてニューに見せた。

「あー、似てるケド違うんだ。ニューは禁書の類はあんまり読まないから知らないだろ。禁書用の手袋は白っぽい色してるし、布製だ」

 首を傾げたニュー。日頃使う手袋は物理的な怪我を防ぐ為の物で呪術的な施しはなかった。布製と革製の違いは分かるが、手袋としては同じにしか思えない。

「俺達が持ってるのは専門の試料に触る為の手袋。直接触るとやばいから、試料とか俺らが」

 ニューの頭の中で物事を整理するのに時間がかかった。

 禁書用の手袋じゃない、試料用の手袋。カイとシグマの試料、試料に直接触ると危険。カイとシグマの専門、死霊学。死霊学の研究対象、死体とか死体とか死体とか。

 自分が今触れているこの手袋が、一体何の為の手袋だと言った。

 ニューは急に蒼ざめ、持っていた手袋をカイへ投げつけた。手先の器用さと力強さが相まって、手袋とは思えぬ痛みを受け止めざるを得なかった。

「ニュー、こいつだって流石に毎回消毒してるって。そんな顔してやるな」

「だってだって、だって! カイとシグマの試料ってドローって、グズグズってしてるんじゃないの?」

 カイとシグマから聞かされていた試料の状態を思い出してニューは総毛立った。実際に見た事はないが、想像しただけで食事が不味くなりそうだ。

「そんな試料は俺達じゃさわれないし、そんなの俺だって嫌だよ」

 自分の想像で食欲を減退させそうになっているニューを必死に落ち着かせ、カイは長椅子に座るように勧めた。ニューは興奮して赤いのか、恐怖に蒼いのか複雑な顔色を浮かべたて上目遣いに二人を見つめた。

「まずな、俺の専攻は死霊学の中でも労働代行っていうー。つまるところ死体を動かそうっていう分野。シグマは知識保存っていう、体は寝かせといて喋らせようぜって分野」

 どちらもニューにとっては気色の悪いものに変わりはなかったが、ドロドロともグズグズともしていなさそうだった。

「俺の方は体がベタベタしてるのも困るし、むしろ普通の人間より綺麗なんだよ! 手を洗って綺麗にしようね、って甘い綺麗じゃなくて、十日ぐらい風呂に入らなくても臭わない位綺麗」

 どう説明しようか迷った末に、カイが出した答えは風呂だった。カイ自身は毎日水だけでも浴びなければ気が済まない。十日も風呂に入らないというのはカイにとってとてつもなく長い時間で、これ以上綺麗だと表現する方法が分からなかった。

 カイの例え話はよく分からなかったが、その意気込みだけは伝わった。シグマは頬を引き攣らせながらも頷き、ニューは分かったフリをする。

「そもそも、変な臭いの元を殺してから呪術を施して『動け』って命令を吹き込むから、この時点で普通の人間なんかよりすげー綺麗」

 これ以上ない程に噛み砕いた説明に、流石のニューも分かった。糸の付いていない操り人形だということに。その人形が気色悪いだけ。ニューの悪寒は消えない。

 シグマの専攻についてもカイは説明しようとしたが、シグマがそれを制した。

「自分の専攻くらい自分で言わせろや」

 段々と活き活きし始めた二人に挟まれたニューは後悔していた。なんでこんな所にいるんだろうか、どうしてこんな気色悪い説明を聞いているのか、なんでこんな奴らの友人をやってるんだろうか。早く終わらないだろうか、と心底願っていた。

「知識保存ってのは鮮度が一番大事だ。肉体から抜けて行っちまうギリギリに魂を封じ込める。だからその後の肉体の管理が重要になってくるわけだが、入れ物の肉体が無くなるとまた魂が抜けちまうからな」

 カイの横でニューは小さく頷く。とりあえず頷いておけば終わると思ったからだ。

「という訳で、そんなに嫌がられるもんじゃないから安心しろ」

 カイは胸を張った。その突き出した胸をニューは小さく握った拳で優しく叩く。小さく素早いその拳を避ける余裕も隙間もなくカイは受け止めた。

「やってること自体が嫌なんだよー!」

 それでも最後まで二人分の説明を聞くだけ免疫がある、とは思っても口に出せないシグマとカイだった。頭脳労働者は肉体労働者を抑え込むのが大変だと知っているからだ。



 ニューが小さな拳を握り、二人の友人にひとしきり文句を言い終わると、三人は同じ長椅子へと崩れた。

「ところで、その許可って道具も借りられたりするわけ?」

 カイが背もたれに深く身を預け、ニュー越しにシグマへ訊ねた。シグマはポケットを探り、次々に小石や糸くず、布切れを床に広げた。ニューの目にはゴミにしか見えないそれらだったが、カイには実験道具の見本とゴミに見えた。やはり、大半はゴミであった。

 シグマが最後に広げたのは斑模様の紙だった。最初は大半を占める薄黄色であっただろうが、何が原因か白い点が幾つも浮かんでいる。

「あー、一応借りられるな。こうやって色んな所に申請して、仕事やってます感を出すの好きだからな。ウチの先生。でも禁書の手袋は借りられないぞ」

 再度紙をポケットに突っ込み、床に落ちた小石と布切れを拾い上げた。床に広げられたままの糸くずなどは拾い上げない。遠くから書館管理員がシグマたちを睨みつけているが、熱烈な視線は三人に届かなかった。

 シグマの言葉に、カイは渡されている下書きをくった。

「なぁ、シグマ。お前どこまでやってる?」

 グザイから渡ってきた下書きを示し、視線も下書きに向けたまま訊ねた。

 シグマは視線をニューの頭上へ向けて、結んでいる両方の髪の毛を手の平で持ち上げながら思い出そうとした。髪の毛の弾力が心地よく手の平をくすぐり、手から脳髄へ伝わった感触を分解し、再構築した後に自らが借りた禁書の題名を見て思い出した。

「半分は気分的に終わってる。内容の点検なんて学生がやってもたかが知れてるし」

 それでもシグマは他の書籍と見比べておかしな点がないかを調べる為に禁書を借りに来ていた。単純に自分がゆっくりと読みたい禁書も借りたが、半分は締め切り間近の下書き添削の為だった。

 カイは目線を左右に動かし、何事かを口の中で呟き、下書きの一部をなぞった。

 思考活動に集中し始めたカイを見て、ニューとシグマは指が追うページを覗き込んだ。文字よりも図式が多いページに、ニューは目眩を覚え、シグマは嫌な予感がした。

「変な文字がいっぱい並んだ式なんて見たくなーいー」

 ニューは頭を振って見たものを忘れようとした。錬金学部のニューには考古学部の図式など覚える必要もなければ、覚えたくもなかった。見ただけでも頭が拒否する、解説されようものなら頭痛がする、展開されたら直ぐ様机に突っ伏して眠ってしまう自信があった。

「なんだ? 実践方法か。流石に学府でも試料までこんな書籍なんかの為に提供はしてくれないぞ。こっそり医療学部に横流しでも頼むのか?」

 医療学部は道具を用い、呪術ではなく物理的、医療学的に治療を行う技術を探求している。その学生の殆どが医療技術を習得する為におり、技術の探求ができる者は少ない。その理由は技術の被検体が少ないことだ。

 現時点において、医療学で治療できない傷や病の大半は神聖学部の治療により解決することができる。医療学部とは逆に、神聖学部は祈り、呪術的に治療を行う。医療学部と神聖学部のどちらにも治療できない傷や病は少なく、二つの技術を用いれば時には死者すら蘇るとさえも言われている。しかし、この二つの技術は互いに相入れぬ存在として認識している。

 医療学部には学生の技術向上の為に、と自ら被検体となる者もいる。その大半が死後の体を提供する為、死霊学コースではその横流しを常に狙っている。得られたことはないが。

「いやぁ、閉鎖棟行ってくる。俺ができることって大半お前らがやってるし。なら、空論って言われるこの実験を実践してやった方が真実味出るんじゃねぇ?」

 カイは準備品の項目に目を通し、予定する荷物の重さを換算し始めていた。重たく、邪魔になるだけの紙束も今回は置いていくわけにはいかない。今の荷物だけで息を切らしているカイに増えた荷物を持ち運ぶ力は無い。

 横目で、わざと目線をそらしたニューを追いかけた。

「どうせ、閉鎖棟に行かないかって言うんでしょ? 行くよ、行きますよーだ。非力で虚弱なカイ一人で行かせたら死んじゃうし。それに、閉鎖棟って色んなものが転がってるんでしょ、良い物あるかもしれないし」

 閉鎖棟は文字通り閉鎖された棟だ。

 過去、実習棟として設置されたそこは植物により閉鎖されており、一部にのみ解放されている。正確には、学府が基地であった時代に造られた地下通路への入り口、回収した物品の研究所を兼ねた検問所として建てられた施設だった。

 戦争後には回収作業を進める為の施設として、学生の実践実習棟として利用する予定だった。実践実習棟として利用され始めた当初は何の問題も無かったのだが、戦争時に用いられた魔術からか、学府として利用を始める為に敷いた呪術からか、原因は明確ではないが地下通路には奇妙な生物が湧くようになった。

 自然に生まれた生物とは一線を画く特徴と強さに、学生の利用を禁止させざるを得なかった。それでも徐々に地下通路内での生態が明らかになるにつれ、一定以上の学業を修めた学生には立ち入りが許可されるようになった。

 しかし完全に内部の生態系と地下通路が把握されている訳ではなく、行方不明者が出ている。立ち入るには、行方不明になった場合でも学府に責任を問わないことを契約する必要がある。そこまでの危険を冒して閉鎖塔に入るのは、地下通路にまで侵入しなくても過去の産物を手に入れる事が出来、一階部分なら安全に帰還しやすいからだ。地下通路にまで侵入した証拠を持ち帰れば人物評価点が上がる。人物評価点は卒業に大きく影響している。

 最高学府を卒業できるかどうかで社会的な地位は大きく異なる。政府の要職に就くには学府の卒業が必須であることは暗黙の了解であった。最高学府の在籍期間に上限はない、入学には種族や地域の教育施設を卒業していることだけが条件だった。卒業基準も教育施設によって異なり、入学手続きさえしてしまえば三日後には卒業できる教育施設も存在する。

 入学こそ簡単だが、卒業となると課題は多い。専攻の課題に耐え切れず他の専攻へ移る者も少なくないが、そういった者の多くは卒業せずに就労していく。

 人材の輩出が目立つ最高学府だが、過去の産物を回収し、技術を解明する面も強い。戦争で失われた技術を蘇らせるという名目で創設された考古学部は、技術解明においては最高機関となる。

 過去の技術は現在の技術では理解不可能であり、意味の無いものもある。しかし、現代では遠く及ばず、発掘されたそれを利用するか、現在の材料で造り直すしかない物も多い。そしてその多くは有益で、今も活用されている。その最たる活用先が医療学の分野だ。治療には技術が必要となるが、神聖学部の治療とは異なり技術さえあれば誰でも使用することができる。神は時に気まぐれで、常に一定の恩恵を与えてくれるとは限らない。

 現代に大きな影響を与える過去の産物、それは道具であり、書籍であり、術式であり、総じて知識だった。戦争前の生活を夢見て胸を膨らませるだけではなく、現実的に懐も豊かにしてくれる。

 閉鎖棟は夢と地位、財産を身分に関わらず手に入れられる場所だった。

 しかし、閉鎖棟を利用できる者は多くない。

 地位と名誉を目的に無謀な挑戦をした者には、行動に伴う結果が与えられた。毎年、閉鎖棟からは行方不明者が出る。

「当然だな。俺を見殺しにしたくなかったら来い!」

 見殺しにしてやろうか、とニューは青筋を立てた。

 見殺しにされてしまえ、とシグマは小さく吹き出した。

「良く考えろ。俺が一人で閉鎖棟に入ってみろ、半日も経たずに荷物の重さでバテて動けなくなる。そうこうしてると、予定期間が過ぎて一応の救援部隊が助けに来て、一階で動けなくなってる俺を発見する」

 カイの説明する様子が目に浮かぶようだった。添削の締め切りを過ぎても帰って来ないカイを、担当教員のエータが心配して迎えに行く。もしくは学府が閉鎖棟の為に編成している救援部隊が迎えに行く。

 救援部隊は臨時教員や高学歴となった学生が雇われて編成される為、救助後には必要経費を請求される。その費用は高く、利用したくても出来ない学生は救援部隊の出動を拒否して友人などに救援を頼んでおく。救援部隊ほどの安定性はないものの費用は安く収めることができるので、高学歴の友人がいる学生はこちらに頼む。

 救援に向かった部隊からも行方不明者が出ていることもあり、学府としては学生だけで救援を行わないように呼びかけている。

 地上の出入り口のある一階は多少の安全が確保されているせいもあり、部隊も一階を中心に救援を行う。しかし、他の階になると格段に危険度が上がる。閉鎖棟を閉鎖棟たらしめている所以だった。毎年、行方不明者を出しても閉鎖棟が完全に封鎖されないのは、戦争時代を孕んだ地下通路への絶えぬ興味、時代の要求、なにより過去の最前線基地であった最高学府の存在そのものが理由だった。

 先駆者達の多くの犠牲により、閉鎖棟の一階は比較的容易に入ることが出来るようになったのは最近のことだ。

「一階で、しかも一人。そんな悲しい状態で発見される。その上に、添削の締め切りはブッチギリで破ってる。先生も驚くし悲しむ上に、風で帽子と偽の毛髪を飛ばされたコース長が人を馬鹿にした笑いで『やはり、エータ先生の学生さんには無理でしたか』とか言いやがるだろう。絶対に言うぞ、あの頭部隠匿者。そんな、嬉し恥ずかし青春の思い出を作ってたまるか」

 こちらも容易に想像できたシグマは、乾いた笑い声を上げた。頭部隠匿者の秘密はニューも知っていた。カイと一緒にその現場に居たからだ。不幸にも衝撃の瞬間に居合わせてしまった二人だが、ニューは視界に入らなかったようでカイだけがエータに睨まれ続けている。

「俺が言いたいのは、違う。ニュー、お前って錬金学部だよな。備品借りてきて」

 カイが借りて来いと言う物品に、ニューは薄桃色の髪を揺らした。