勇者様と魔王様

2.煩い、黙れ





 透明な液体が零れんばかりに注がれる。

 同時に強い酒気が広がり鼻孔を刺激する。周囲の人垣では何人かが鼻を押さえ、何人かは感嘆の声を上げた。

 分厚い硝子の杯のそれを一気に飲み干すと、今度は歓声が上がった。

 歓声も、酒も、実に美味かった。

 ただ、目の前に並んでいる土色の顔が可哀想だった。机を挟んで、同じように同じ物を飲んでいるのに彼らの表情は悪かった。

 対して、感じる周囲の熱気に負けぬほどエクサは紅潮していた。

 久しく感じる肉体の熱さに興奮し、エクサは更に頬を染めていた。何もかにもが楽しく、可笑しく見える。それなのに頭は妙に冴えわたり、目の前の顔色から、次に誰が机に抱き着くのかさえ分かる。

「次、お前らだぞ」

 未だ注がれた酒に口を付けようとしない連中に、周囲がざわめいた。見た目から限界が近いことは分かっていたが、飲まなければ勝負がつかない、勝負がつかなければ賭け金は返ってこない。

 周囲の高揚は酒気だけではなかった。



「あんた酒強そうだな。俺らと飲み比べしねぇか。負けた方が全部の代金をもつんだ」

 最初に声をかけてきたのは一人の男だった。

 初めて入った酒場、カウンターで一人飲んでいたエクサは快くその賭けを受け入れた。一人で飲んでいるよりも情報が手に入る、そう踏んでいた。しかし、入るのは酒と歓声、掛け金だった。

 声を掛けてきたのが一人だったから、一対一で飲む量を競うものだと思っていたが、席は六つ埋まった。相手は五人だった。

 周囲からは勝負を降りるようにと促されたが、エクサは降りなかった。タダで酒が飲める、それだけで十分だった。

「その勝負受けて立つ。負けた方が代金全部持つんだろ、俺は払う気ないからな」

 エクサが余裕を見せつけると、五人は歯を見せて笑った。

 盛り上がったのは当事者たちだけではなかった。

 いつもの事なのだろう、カウンターの奥から大きな籠が出され、次々に賭けを宣言しては硬貨が投げ込まれた。

 エクサも全ての持ち金を賭けた。当然ながら、自分に。

 そこへ角席で立ち飲みしていた男が酒瓶を片手に割って入った。どちらかと言えば大柄な、そして見事な体を作り上げている男だった。エクサはその男に見覚えがあった。いや、知っていた。

「おい、エクサ。お前一人で楽しいことするなよ。俺も混ぜろ」

 無理矢理エクサの隣に椅子をねじ込んで男は陣取った。酒臭い息で男達に、構わないだろうと半開きの目で問いかけ、承諾させた。

 男が加わった事で、狭くなった机を周囲が換えさせた。

 横に五人が座れる長い机が明け渡され、五人と二人が酒瓶を挟んで座った。男が加わったことで更に場は盛り上がり、硬貨が宙を舞った。

 エクサの隣に座った男も自分達の勝利に賭けた。籠を持っていた女が苦い顔をしていた。既に酔っぱらっている様子の男、そして見知らぬエクサに賭ける者は殆どいなかったようだった。

「よぅしっ、私はこの二人に賭ける。ケルビン、いいだろ」

 そこへ髪を一本にまとめた女が重たそうな袋を放り投げた。

 大柄ではないがそれなりの肩幅もあり、筋肉の質も悪くない、胸の豊かな脂肪だけが勿体ない。もう少し全体に脂肪があった方が持続力もあるだろうに、本人は気付いているのか、エクサは心底勿体ないと感じた。

 髪を一本にまとめた女の隣で、もう一人の女が頷いた。

 袋の中を確認した女が小さく口笛を吹き、他に参加する者がいないか叫んだ。誰もいないと確認した上で給仕が七つの杯を運んできた。

 最初は快調に喉を鳴らして飲んでいく、殆ど同時に七人は大きな杯を机に置き、次の酒を待った。給仕が新たな酒を配り、空の杯を回収していく。飲み干す度に周囲で歓声が上がり、場は否応なしに盛り上がっていった。

 二十以上の杯を空にした時点で六人に減った。五人の内一人が酔い潰れたのだった。揺すっても起きないその男を置いて更に杯を重ねていると、立て続けに二人が意識を手放した。机には四人が残った。

「よっしゃあ、これで対等だな」

 笑いながらエクサの隣で男が拳を天井に突き上げた。その体が揺れ、エクサにもたれかかり、危うく倒れそうになった所を支えられた。体を揺らしながら男は椅子に座り、次の杯を待った。見た目にはもうそろそろ潰れてしまいそうだ。

 それに勝利を見た相手の男達は給仕に更に強い酒を持ってくるように伝えた。もう飲み続けるのが難しいと言っているようなものだったが、エクサは特に気にしていなかった。

 思っていた以上に男は酒に強いようだが、エクサに勝てる様子はない。既に目は虚ろで呂律は回っていない、顔も赤くなっている。残るもう一人の男は顔を土色にして時折俯いては手で頭を支えている。限界に近いのだろう。

 だが、エクサも酔っていない訳ではなかった。顔の火照りが感じられ、自分の手が冷たくて気持ちいい、喉の奥で酒が踊っていた。

 給仕が運んできたのは明らかに度数の高い酒。匂いだけでもむせ返ってしまいそうな酒が杯に並々注がれていた。周囲で見ていた何人かが鼻を押さえた。

 机に置かれたそれに相手の男達は一瞬怯んだ。自分が注文したくせに怖気づいたと見られるのが嫌だったのか、口の端から零しながら嚥下すると杯を割る勢いで机に叩きつけ、そのまま机に突っ伏した。

 無理に嚥下した男に合わせてエクサも嚥下した。

 想像していた以上の酒気が口内に広がり、鋭い味が舌の上で転がった。同僚の仲間にも味あわせてやりたい程の酒だった。

 喉を伝って腹に直接流れ込む液体を心地良く感じていると、隣の男も同じく飲み干した。杯に残さぬように吸い取ると静かに置いた。

 目の前で倒れた四人の間で土色の顔をした男が目の前に置かれた杯を手に震えていた、飲めば勝負はまだ続く、飲まなければ一人残った男は後から何を言われるか知れない。少なくとも五人で二人に挑み、負けたと言われ続けるだろう。

 虚ろな目を泳がせている男の手から杯を引ったくり、エクサは一気に飲み干して男に返した。それを黙って見ていた男は返された杯を眺めた。

「お前らの勝ちだよ」

 悔しそうに、でも安堵の溜め息と共に土色の顔で男は言葉を吐きだした。

 それに歓声が上がる。加えて嘆く声が入り交じる。隣の男がカラカラと笑いエクサの肩を激しく叩いた。

 そこへ集められた賭け金が分けられ、エクサ達にも配当された。かなりの額の配当金にエクサは気分が良くなり、その場にいる者たちへ酒を出すように半分を給仕へ渡した。

 再び上がる歓声を背にエクサは席を立った。

 最後に出された強い酒を一瓶買い、エクサは酒場を出た。その後ろを慌てたように隣で飲んでいた男が追った。

 追いついた男はエクサの隣を歩き、勝手に自分が宿を取っていない事を話し始めた。

「つまり、部屋に泊めろと」

 いつの間にか暗くなった夜空に浮かぶ月を眺めながら訊き返すと、男は正直に頷いた。部屋に招く事を承諾すると男は嬉しそうに頭の後ろで腕を組んだ。吐息に酒の匂いが混じる鼻歌を撒き散らし、男は軽くステップを踏む。

 前へ、後ろへ跳ねて、男は暗い路地裏に手を突っ込んで引き戻した。

 その手には鉈を持った男の服を掴んでいた。男の手から鉈を奪い取り、逃がすのを黙って見ていたエクサも拳を背後へ振った。拳は薪割り用の斧を振り上げていた女の額に当たり、女は斧を握ったまま倒れた。

「大金見せびらかすと、出るよなぁ追剥」

 男が呟き足を横に出すと、もつれるように男が一人現れた。手には短い棒を持っている。

「今は随分と気分がいい。こいつらを連れて帰れ」

 エクサが満面の笑みで男の目の前で鉈を折り曲げて見せると、男は喉を鳴らして女を担いで走り去った。その背を見送り、エクサと男は宿へと向かった。

 宿に事の次第を伝え、男の分の前金を払うと変更された部屋に案内された。

 無理矢理ベッドを詰め込んだような部屋は掃除も行き届いておらず埃の臭いがした。お情け程度の小さな窓を開けると少しはましだった。布団を叩いて埃を落とし、扉も開けて換気すると最初より大分ましになった。

 殆どくっついた状態のベッドの上に座り込み、早速眠る準備を始める男に、初めてエクサから話しかけた。

「ヴァスティス、理由を聞かないのか」

「聞いて欲しいのか」

 エクサは頷いた。

 エクサは飲み比べに参戦してきた男・ヴァスティスを良く知っていた。

 酒好きで、サイコロ勝負で事実上負け知らず、女神・リーリアリの信者にして最高神官の一人。

 直接リーリアリに拝謁出来る特権を利用して良く御神酒を担いで現れ、よく酒盛りをしている。エクサの良く知った男だった。

「聞いて欲しい、そして協力して欲しい」

 酔いが回った所為、それだけではない頭痛の理由をエクサは語った。



 鈍く光る刀身を見続け、長い時間が過ぎていた。それは刹那にも似ていたが、確かに長い時間だった。

 天使を殺すために、神を傷つけるために作られた武器の数々。装飾的、それ以上に実用的な武器の一つ一つには確かに魂が宿っていた。持ち手を握ると力強い感触がある。武器であると同時に、自らの一部に変化するようだった。

 女神に命じられるまま、エクサは愛おしいとさえ思える武器へ入念に手入れをしていた。一つ、また一つと手に取って、時には名前を呼びながら職務を遂行していた。

 楽しい時間は突然の知らせで破られた。

「女神がお呼びです」

 伝令は流れるように部屋へと滑り込んで、一言叫んで出て行った。

 エクサが返事をする間もなかった。ただ、その声に溜息をつき、手にしていた槌を強く握りしめた。今度は力を抜き、振りかぶり、用意していた板に振り下ろした。紫色の光が爆ぜ、硬質な音が響いた。

 手入れを終えていない武器を数え、エクサは職務を続けた。



 職務を果たし、エクサは急いだ。雲を敷き詰めた神殿の一部屋へ走り込むと、既に十九の同僚が並んでいた。

 女神はその前、氷嚢を頭に乗せて気怠そうに体を横たえていた。女神の顔色からして完全なる二日酔いで、しかも迎え酒をしたらしく酒瓶が一つ転がっていた。

「遅い、お前が一番最後だ」

 部屋に入るなりエクサは女神に一喝された。

「申し訳ありません。職務が終わらなかったもので」

 エクサは膝をついて頭を下げた。

 その様子を同僚たちは不安気に見守った。二日酔いの女神は何が引き金となって暴れ出すか分からない。

「エクサ、立て」

 密かに安堵の溜息をついてエクサは立ち上がった。女神の顔色は悪いが酒気は抜けつつあるようで、思考は明瞭だった。立ち上がったエクサは十八番目の天使として女神の前に並んだ。これが一体何のための招集なのか、遅れた結果は何を意味するのか、内心冷や汗を流していた。

 時に女神は無意味に招集を行い、天使たちを翻弄する。招集され、遅れれば当然ながら怒りを買う。しかし、時には遅れることが喜ばれる場合もある。女神の判断基準は不変ではない。

 この時も集められた者達は一体何を命じられるのかと、エクサと同じ心境だった。

「お前、命じていた仕事はどうした?」

 一番目に女神は問いかけた。

「女神のお呼び立てとあり、中断して直ぐに飛んでまいりました」

 一歩前に進み、答えた。

 それに頷いて女神は次の者を指名した。次の者も同じような返答をし、最後にエクサの番がきた。

「職務を果たし、来ました」

 滑る氷嚢を頭からどけ、女神は立ち上がった。

 真っ直ぐ、エクサを射抜く女神の視線に、エクサは内心滝のような冷や汗を流した。何をされるか分かったものではない。逃げるか、受け流すか、反撃するか、そんな隙があるのか、次の瞬間を耐える用意をした。

「エクサ、お前を私の代理として地上に出す。早急に準備を済ませろ」

 女神の言葉にその場は騒然とした。

「待って下さい。俺は最後に此処へ来ました。それなのに何故、俺なのですか」

 小波のような同意の意見がリーリアリの頭痛を酷くした。

「煩い、黙れ」

 一喝した後、女神は自らの声に頭を抱えた。もたつく足で元居た雲の上に転がり、女神は酒瓶を手にしてその場にいる全員に止められた。

 小さく、響く舌打ちが広がった。

「私は仕事をしているお前達を呼びにやった。そしたら、どいつもこいつも、仕事を途中で投げ出してきやがった。これから私が命ずることは神の命であっても途中で投げ出す事が許されない。よもやエクサしか残らないとは思わなかったぞ」

 自身が神であることを忘れているかのような物言いに、エクサは頭痛がしてきた。何を命じられるのか知れない、その仕事を単独で行わなければならない。事と次第によっては同僚を捕まえて手伝ってもらわなければならない。

 ずっと武器庫で武器の手入れをしていれば良かった、今更ながら出てこなければと思い始めていた時だった。

「エクサ、お前は私の代理となり魔王をやれ。魔王だぞ、分かったな。準備しとけ」

 女神の命に一同は沈黙した。

「女神、女神・リーリアリ。無礼を承知で申し上げます、まだ酔ってるでしょう」

 叫ぶように吐き出したエクサの横を氷嚢が通り抜けた。遠くで氷嚢が壁にぶつかり、弾ける音がした。しかしエクサには振り返る余裕などなかった。

「確かに、まだ酔っているようだ。次は外さん」

 女神は伝令をしていた者に武器を取ってくるように命じ、自らゆっくりと身を起こした。怒っている訳ではない、それでいて笑っているようでもない、二日酔いに彩られた表情が恐ろしかった。

 しかし、エクサには切り札があった。

「武器庫の鍵は俺が持っています」

 いざとなれば、扉を破ってでも持って来いと言う女神だが、神殺しの武器さえ収めている武器庫の扉はそう簡単に壊せない。最終手段として女神の酔いが覚め、正気になる時まで鍵を持って逃げる。最悪の手段だが仕方ない、エクサは恥を承知で逃げる構えに出た。

 今回はその必要はなかった。

「仕方ない、今は大目に見てやる。今日は機嫌が良い」

 不意にエクサの顔に影が差した。鋭利な殺気を感じ、咄嗟にその場から飛び退こうとしたエクサの額にリーリアリの爪先が突き刺さった。

 首から上が吹き飛んだ気がした。エクサは浮き上がった体をそのままに捻り、背中から落ちないように受け身をとった。

 カラカラと笑う女神、思わず拳を握りしめる同僚、今にも駆け出しそうな自分にエクサも思わず笑っていた。女神にとって武器庫の武器など飾りでしかない、分かり切っていたのに多少なりとも安堵した自分に笑った。

「流石は私の天使。その根性で地上を制覇してこい」

 簡単に難題を押し付ける女神へエクサは問いかけた。

「俺は、戦いの女神・リーリアリに仕えています。女神の教えは、生き残った者が勝者です。ならば既に地上は勝者で満たされています、もう制覇する必要はないのではないでしょうか?」

 形式的な問いに女神は微笑んだ。

「そんなもんで御神酒が増えれば苦労なんぞせん。しかも、今回は私だけの厄介事ではない。だが、私の天使でなければならない。別段、私が魔王として出向いても良いんだが?」

 エクサは即答した。

「俺がやります。魔王の役目、確かに十八番目のエクサが引き受けさせていただきます」

 自らの女神を魔王にするなど、エクサは恐ろしくてできなかった。許されるなら、女神は喜んでその役目を買って出るだろう。基本的に破壊活動を好む性格だ。

 例え女神が魔神となっても従う気持ちはあるが、自らの意志で魔王という暴君にさせたくはなかった。

「よく言った。事の次第は今から教えてやる、お前らも聞いておけ。もしかするとエクサだけでは果たせない職務になる」

 真剣な眼差しに二十の天使は膝をついた。

 女神が語り始めたのはある男の話だった。



 何度も相槌を打ちながらヴァスティスは大人しくエクサの話を聞いていた。

「女神らしいと言えば女神らしい」

「無茶苦茶な選定方法だろう」

 思わずヴァスティスは頷いてしまったが、慌てて首を横に振って見せた。正直過ぎるヴァスティスの反応にエクサは真面目な顔をして返した。

「今回の件に関しては、女神だけが無茶苦茶じゃなかった。そもそもカンデラに魔剣を渡した男、そしてこの話を女神に持ちかけたツァコも相当、滅茶苦茶だ」

 眉を寄せてヴァスティスは話の続きを促した。



 最初に男・カンデラの願いのような脅迫を聞いたのはカンデラが祈る教会の神・ツァコだった。当初から欲望にまみれたその願いを叶える訳もなく、その内に諦めるだろうと高を括っていた、しかし十年以上に渡って続けられる脅迫に疲れていた。

 この熱心な願いが、本当に国や愛の為ならば叶えるに足る時間が過ぎていた。どうしてそれが他のものにならないのか、ツァコは半ば呆れていた。そして、この熱心さに応えなければならないのだろうか、とも悩んでいた。

 長年に渡る願いは、小さなきっかけ一つでいつ恨みに変わってもおかしくない程に育っていた。

 そしてツァコはリーリアリに相談を持ちかけた。

 現在、ツァコとリーリアリは他宗教だが、元を辿ればどちらも二柱の女神に辿り着く。いわば同じ存在だ。それが時代と共に変化し、大規模宗教の主神と小規模宗教の女神に分化した、今はそれを知る存在は少ない。

 エクサを含め、リーリアリに仕える天使はそれを知っていた。

 ツァコと密会する女神が「自分の分身から酒を受け取って何が悪い」と言い切ったからだ。天使はそれ以来ツァコと女神の関係について可能な限り調べ上げた、そしてあまりにも古い過去の関係にまで辿り着いたのだ。

 この時も賄賂の酒を受け取り、ツァコの悩みを共に担ぐことになった。

「つまるところ、勇者になり損ねたカンデラ王は狩りがしたい。俺が仕留めるから魔王という獲物を放してくれ、ってのが願いだ。なら、獲物を放してやれ、と提案したのが私だ」

 その獲物として選ばれたエクサは奥歯を噛んだ。まるで狩られるために、負けるために地上へ降りろと命じられているようだった。死こそは敗北、撤退も次に勝つための手段、

 勝利こそが最高の供物、エクサは負けることが心底嫌いだった。

 そんなエクサの心境を読み取ったのか、女神は更に続けた。

「欲しければ与えてやればいい。だが、獲物が噛みつかない、とは限らない。狩人が獲物に喰われることも十分にある」

 顔を上げたエクサの目に映ったのは意地悪く笑う女神だった。

 爪も、牙も、抗う術を何も持たない獲物をカンデラは狩るつもりだろうか。そうならば、それが間違いだと女神は言う。

「天使は神に仕えている、って意味で悪魔と同じだ。魔王なんてのは悪魔の一部なんだ、天使がやったところで同じだ」

 力に分別は無い。見方が違うだけだ。

 だからといって、天使と悪魔を一緒にされると天使は時々困るのだが、女神は細かなことを気にしない。

「それで、俺が獲物役をやるんですね」

 予想していた以上の難題だった。天使でさえ良ければ他の暇を持て余している神の天使に任せて欲しい、いつも小規模だからと小馬鹿にする天使たちに。エクサは何度か女神に従い、他の神との会合に参加したことがあるが、その度に他の神の天使は神の居ない所で眼と言葉でエクサを蔑んでいた。

「裏表の激しい他の神の天使ではいけないのですか?」

 同僚が引きつった表情で訪ねた。

「そうだな、他の奴らの天使は応用力が無いから、無理だ。魔王となれば戻れん。しかし、私の天使は応用力があって、役目を終えても天使に戻ることができるだろう。それに下手をすれば神を交えた宗教戦争に発展するからな。これは地上で済まさなければならん」

 確かに、一つの考えに縛られる天使の思考は神に委ねられる。全ては神の為に。一度、その身が汚れたと認識したならば、もう二度と天使には戻れないだろう。その点において、自慢するような事でもないが、女神は適当な性格だ。だから天使の思考も、適当だ。

 小規模の宗教、そして姿を偶像として残していない女神の天使なら、地上の者は簡単に天使が魔王を務めているとは分からない。知られなければ悪魔の魔王だ。

 褒められた気はしなかった。

「という建前で、平和だと御神酒減るから少しぐらい乱れている位が良い。他宗教もこれに乗じて襲ってくるから、魔王として殴っていいぞ、エクサ」

 天使ならばエクサを知っている者もおり、その正体をすることもできるだろう。これ見よがしに襲ってくるのは想像できる。魔王が乱立していた時代の傷も癒えていない今なら、直ぐにエクサの正体を地上に知らせ、宗教戦争を勃発させようとはしないだろう。

 しかし、魔王として、他宗教の神の天使を襲う理由を与えてしまう。それはこちらも同じだ。

 つまり、魔王として合法的に殴ってこい、と。

「魔王の役目、必ず成し遂げてみせます」

 女神への御神酒が増えると天使に回ってくる酒も増える、魔王として他の天使を殴れる、堂々とではないが布教活動も出来る、不甲斐ないカンデラ王を鍛えなおしてやることが出来る、ツァコ神に貸しができる。

 エクサはそう自分に言い聞かせ、はやる気持ちを抑えて武器庫へと向かった。



 思わずヴァスティスは噴き出していた。リーリアリが無茶を承知でカンデラの願いを叶えた理由、それが御神酒と他神に対する嫌がらせ。これを他の信者が聞いたらどう思うか。

 他の宗教では考えられないような神と天使のやり取りが可笑しかった。

「おい、エクサ。地上では神がどんな扱いをされているか知っているのか?」

 口の片側だけを歪ませ、エクサは苦々しく吐き出した。

「知っている。女神の分身でもあるツァコは愛と希望を司る主神だ。崇め称えられ、この国でも祀られている神だ」

 そして多くの人々から畏敬の念を持たれている、人とは全く異なる存在とされている。現時点での地上の主権を持つ神の一柱。認めたくない事だったがエクサは事実を語った。



 再び女神の部屋をエクサが訪れると、服を着替え、髪の濡れた格好で女神は背を向けていた。

 湯浴みを済ませた後だった。先程よりはスッキリとした様子でリーリアリはエクサに座るよう促した。

 何を言われるか覚悟を決めて耳を澄ませた。

「武器庫に行ってたそうじゃないか、何を持っていく」

 何を手に戦いを見せてくれるのだとリーリアリの目は言っていた。それに嬉々としてエクサは答えた。

「両手で扱う剣を持って行こうと思います。俺は重たい剣で相手の武器を砕くのが得意ですので。それに、武器は派手な方が良いかと思いまして」

 楽しげなエクサにリーリアリは笑って頷いた。

 リーリアリ自身は素手の戦いが最も好物なのだが、それがいかに不利になり人間の世界で魔王の象徴となるには難しい事は良く分かっていた。

 それにリーリアリはエクサの性分も良く知っていた。武器を壊し相手の戦意を奪う事で有利に運ぼうと、あわよくば素手の戦いに持ち込もうとしている事も。

 武器を持たずに戦おうとする者は少ない、それは天使も同じだった。女神の性分は特異なものだった。

「そうだな、地上では姿形は意味を持つ。魔王なら派手な武器が良いだろう。残念ながら、私はお前に武器を与えてやれるが、姿は与えてやれん。そこんとこはコイツになんとかしてもらえ」

 女神が手を振ると、その隣からツァコが靄のように現れた。

「今回の件は本当に済まない。本来なら私が解決するべき問題だったのだが、私の天使にも、地下の悪魔にもこの役目を与えるわけにはいかず、君に一任する形になってしまった。私から協力できることは少ないが、君に姿と変化の能力を送らせてもらうよ」

 一方的に言い訳をしたツァコはエクサへと歩み寄った。そして一息エクサに吹きかけた。

「ついでにこうなった原因の純愛物語でも聞かせてもらえ、笑えるぞ」

 先ほどとは違う息を一つ吐いてツァコは頭を抱えた。リーリアリの言う、純愛物語をツァコから聞いたエクサも頭を抱えた。

 それでも心の整理をし、神の祝福を得たエクサは直ぐに地上へ降りた。

「負けたら強制帰還だからな、楽しんで来い」

 背中を向けたまま、肩越しに忠告するリーリアリにエクサは笑って見せた。

「もとよりそのつもりです」



 適当な相槌を打ちながら頷いていたヴァスティスもエクサの話が終わると、暫く考えた後に体を起した。

「エクサ、お前は本当に苦労する性分だな」

 期待を込めた視線をエクサが送っていると、おもむろにヴァスティスは自分の荷物から地図を取りだした。エクサも持ってきた地図を広げた。二つの地図に大きな相違点は無かったが、エクサが持っている地図には無い国境が幾つかあった。

 国境を書き加えながらエクサはヴァスティスの言葉に耳を傾けた。

 現在地はカンデラ国王が治める国の端の方だと言う事。神を十数年に渡り脅し続けていた王の名がカンデラだったのでエクサは直ぐに合点した。カンデラが魔王を求めたのは近くに魔王の出現が無くなったからだったと思っていたが、カンデラが倒したと嘘をついた以後、殆ど魔王の出現はなかった。

 出現していてもカンデラの国からは遠く離れた場所だった。それもいつの間にか討伐され、今現在魔王は確認されていない。

 それぞれの国内事情にはそれ程詳しくはないが、未だ魔王乱立時代の名残で悪魔、魔王に対する恐怖が根付いているのは確かだった。

 エクサが魔王として知れ渡った時点で各国の標的になる事は明白だ。

 それこそエクサの望みだった。しかし、現在の魔王勢力は実質上エクサのみ、それではエクサが楽しめても時間が引き延ばせない。

 国の総力を充てられれば押しつぶされるのは目に見えている、エクサは魔王となったが戦争をしに地上に降りたつもりはなかった。

 無駄な血を流すのは大嫌いだった。特に戦争は弱者に最も降りかかる、力無き者が抑圧される、傷付く、それが何よりも嫌いだった。

「最初は国の総力を挙げて数で攻めてくる事は無いだろう、様子を見て討伐隊を派遣する程度だ。昔取った杵柄で来る連中を相手にしている内は良いが、力を付けたと見られると一気に攻められるぞ」

 それはエクサも予想していた、だからこそ戦争に入る前にエクサは倒されるつもりだ。もしそれが叶わないようなら信者か仲間の天使に討たれる手筈になっていた。それでも手加減無しに戦う、それがエクサの使命であり信念だった。その信念が今いかに迷惑であっても曲げるつもりは全くなかった。

「そうなる前にヴァスティスが俺を討伐しに来ればいい、昔取った杵柄だろう。それに、人より先に悪魔を配下にする。奴らにも試練を与えてやらなければならん」

 両手剣を叩き、出来るものならやってみろとエクサは無言で伝えた。ヴァスティスは拳を握り、エクサに突き出した。

「当然だ、真剣勝負に負けるつもりは無い」

 突き出した拳を戻し再びベッドに転がり、ヴァスティスは目を閉じ、寝息を聞かせた。

 直ぐに寝入ったヴァスティスを尻目に、エクサは乏しい蝋燭の灯りで地図を見入った。エクサが望むような相手が残っているのなら、とヴァスティスが教えてくれた場所を確認していく。どれも遠かった。

 ヴァスティスが協力してくれれば、思った瞬間その考えを打ち消した。

 これは女神が与えてくれた鍛錬の場、協力を求めるのも情報程度に収めておく。エクサは楽しみを残しておく性格だった。

 あまり考えないのがリーリアリの影響なのか、信者や天使も深く考えずに行動する傾向があった。それでも生き残る勝者だけがリーリアリに祝福を与えられた、エクサとヴァスティスもそうだった。

 リーリアリは生き残ることが勝利だと教えていた、同時に死は敗北だとも教えていた。リーリアリの考えからヴァスティスは一度も負けたことは無かった。しかし、その考えは受け入れられ難く、多くの信者を集められないのが悩みの種だった。