勇者様と魔王様

3.お前か。うぉまえが元凶かっ





 翌朝ヴァスティスが目覚めると、既にエクサはヴァスティスの料金も払って宿を出発していた。

 なんとなく、エクサなら黙って行くだろうと予想はしていた。もしも魔王と討伐隊一員として会うのなら、もうしばらく先で構わなかった。

 顔を洗って宿を出たヴァスティスはその足で酒場に向かった。

 昨夜は酒場で人と会う約束をしていた。時間になっても相手は現れず、結局ヴァスティスは機嫌を良くしてエクサを追って出てしまった。

 もしかすると今なら居るかもしれない、そんな予感がしていた。

 ヴァスティスの予感は的中し、約束の相手は客も少ない店内のカウンター席でエクサと一緒に早い朝食をとっていた。

「遅かったな、ヴァスティス。この男、お前の知り合いだとか言っているぞ」

 さも当然のようにエクサはヴァスティスを呼んだ。

 先程、勝手にエクサと別れたつもりになっていたヴァスティスは拍子抜けした。しかし引き攣る顔を押し隠して隣に座った。

「昨日は悪かった。宿に行ったら、この人が此処で待とうと言ってくれたから」

 エクサの隣に座る約束相手はヴァスティスの朝食を頼み、悪びれた様子も無くヴァスティスを手招きした。一体これ以上どこへ呼ぶつもりなのか、と苦笑いしながら先に出された水を口に含み、まだ眠っている頭を起こす。

 もしかするとエクサに見えるのは別人かもしれない、そう願っての小さなヴァスティスの抵抗だったがエクサはやはりエクサだった。

「エクサ、飯に出るなら誘ってくれ」

 瑞々しい野菜を食み、振り向くものの、エクサは全く返事をしない。罪悪感はあるようだが、慣れない体なのか表情は乏しい。

 咀嚼だけを続けるエクサを諦め、ヴァスティスは昨夜の約束の相手を横目で見た。

 約束の相手はそれに気付き、眉尻を下げて笑い、酒を一杯注文した。一杯の酒でヴァスティスに謝罪の意を示そうとしているのだ。

 ヴァスティスは快く謝罪の意を受け取り、唇を濡らす程度に減らした。

「昨夜は済まなかった、入口までは来たんだ。でも、ちょっと苦手な人がいたから、そのまま帰っちゃった」

 手元に朝食が用意され、素手で摘まみながらヴァスティスは適当に相槌を打った。現れなかった理由が理由だけに、もし会えなければどうするつもりだったのだろうか。相手を心配したが当人は気にしている様子はなかった。

「そうか。で、要件って何なんだアルゴン」

 エクサは飲んでいた水を吹き出した。

 むせ返ったエクサにヴァスティスとアルゴンは驚いた。何がエクサをそうさせたのか不思議でならず、思わず苦しむエクサにどうしたのかを訊ねた。

「こ、この、この男がアルゴンか」

 片手で口を押さえながらもう片方の手を伸ばし、エクサはアルゴンの服を掴んだ。

 アルゴンは記憶を辿り、服を掴んでいるエクサに覚えがないか必死に頭を巡らせたが、今日が初対面だとしか分からない。

「僕がアルゴンだけど。僕は何かしましたか」

 息を整えてエクサは両手でしっかりとアルゴンを掴んだ。決して逃がさぬように、肩に手を掛け、服を掴んだまま顔を上げて叫んだ。

「お前か。うぉまえが元凶かっ」

 エクサの突然の叫びにアルゴンは身を引くが、それをエクサは許さなかった。無理矢理アルゴンを引き寄せ、鼻が当たる程近い距離でエクサはアルゴンを睨みつけた。

「僕が君に何かしたかな」

 エクサの形相に怯えるアルゴンは離れようと必死に腕を伸ばすが敵わない。手加減をして力を抜いているアルゴンに対して、エクサは真剣だった。力加減を忘れそうになりつつも、服を破らぬように力を込めていた。

 その様子に一番困惑しているのがヴァスティスだった。

「お前が何かしたかだと。いや、してないな」

 アルゴンを放し、エクサは距離を取り必死に自分の心を鎮めるよう努めた。しかし、憤りがどうしても収まらない。胸に言葉を収めている事ができなくなったエクサは一気にまくしたてた。

「だが魔王の残党が弱いのも、国王が神を呪うのも、御神酒が減ったのも、元は全部お前じゃねェか。責任取れ、俺の心労を推し量れ」

 エクサの気迫に押され、訳も分からず目を泳がせるアルゴンとヴァスティス。

 語気を荒立てながらエクサは事の次第をかいつまんで説明した。

「お前がどこぞの勇者に成り損なった馬鹿に魔剣を渡したばっかりに、そいつが呪詛かけてんだ。楽しく駆け落ちなんてしてるんじゃねェぞ。しかもお前らが強い悪魔から討伐していったから根性のある悪魔が残ってないんだ、俺が面白くない」

 知らぬ者が聞けば妄想狂言としかとれないそれにアルゴンは真剣に耳を傾けた。そしてエクサの言葉の意味が納得できた。確かに元を辿れば自分の行為から出たものだと知り、エクサに頭を下げた。

「そうなのか、それは僕が悪かった」

 素直に謝るアルゴンにエクサは段々と落ち着いてきた。元々はアルゴンが悪いが、エクサの心労が増えた原因はアルゴンの所為だけではない。

 現在国王のカンデラが嘘をつかなければ、カンデラ自身が縛られる事はなかった。カンデラが神を呪わなければ、神が困らず女神に相談が持ちかけられることもなかった。エクサが職務を投げ出していれば、魔王役を申し渡されなかった。

 何よりも強い悪魔達が残っていればエクサはこれ程にまで心配しなくても良かった。

 町に入る前、魔王の居城に降り立ったエクサは未だ残る悪魔を配下に加えようとした。それなのに、エクサの一撃で誰もが昏倒し、沈黙した。あまりの事にエクサは人間の町で情報を集めようとした矢先にヴァスティスに出会ったのだ。

 その悪魔を討伐していたのはアルゴンやヴァスティスなど地上の討伐隊。人にとっては必要だった存在であり、平静の世を担った英雄達だ。女神の祝福が受けられる資格を持つ程の英雄達なのだとエクサは何度も自分に言い聞かせた。

「違うんだ、お前は元凶だが他の事が重なった結果が今だ」

 アルゴンとヴァスティスに対しての恨み言を必死に飲み込んだエクサの傍らで、アルゴンは呟いた。

「魔王残党が弱いのは僕らの所為だけどね」

 それを聞いたヴァスティスはアルゴンの肩を叩き、アルゴンとヴァスティスは屈託なく笑った。

 それにエクサは沸騰した。

「自覚してるんじゃねぇか、お前ら」

 思わず席から立ち上がりエクサは二人を指差した。

 自覚しているが反省の様子がない二人に無性に腹が立った。魔王討伐を行っていたのだから当然の結果なのだが、それが今のエクサの消化不良に大きく関わっている。

「俺はお前らに言っていいはずだ。殴らせろ、気が済むまで殴らせろ」

 両の拳を合わせ、にじり寄って来る現・魔王兼天使の覇気に元・勇者と神官は怯んだ。

 隣に置いてある両手剣ではなく拳で殴らせろと迫って来るエクサが、もし他の神の天使だとすればヴァスティスは安易に受け入れただろう。しかし、自分が信仰する女神の天使、しかも女神のお気に入りの天使の一つ。

 殴られたら痛いのは十分に分かっていた。

 消化不良のあまりにエクサは十分な判断が出来なくなっているのだと、アルゴンは思わず腰のジーメンスを掴もうとした。ジーメンスの柄を手で確かめる前にヴァスティスがアルゴンの肩を押さえた。

「なぁエクサ、よく考えろ。お前は神の使いだろ、こんな事してていいのか」

 昨夜の飲み比べの時には言わなかった台詞をヴァスティスは今更ながら告げた。

 ヴァスティスの言葉で不意に表情を和らげ、エクサは納得した。一度目を閉じて何度も頷いて、静かに瞼を上げた。

「そうだな、それもそうだ。俺は魔王として来た。ならここで魔王討伐隊を殴り倒してもなんら問題ないわけだ。試練として」

 和らいだ表情の中、目は輝き、昇る覇気は更に色濃くなった。試練という言葉だけにエクサは全てを正当化しようとしているように見えた、少なくともヴァスティスとアルゴンには見えた。

 半ば八つ当たりだったエクサの行為に正当な理由が付け加えられた為に、エクサはアルゴンとヴァスティスへ向けて容赦なく職務を遂行するだろう。

「そ、そうだ。僕が強い悪魔を紹介するよ。それでどうだろう、僕達に暴力をふるうより悪魔達を配下に加える方が君に利益が有るはずだ」

 自分の身を守る為にアルゴンは必死だった。

 それはヴァスティスがアルゴンの隣から移動し、斜め後ろに下がったからだった。戦いとなれば真っ先に前へ出るようなヴァスティスが自分の後ろに下がった、それがアルゴンを必要以上に不安にさせていた。

 アルゴンを射るエクサの眼は、怒りを含んでいたが冷静だった。

「気絶させて送り返したのがいるから、そいつらが来た場所を教えるよ。それなら君も満足できるだろう」

 口をへの字に曲げ、あからさまに残念そうな顔をするエクサ。

「俺達を殴り倒すことはいつでも出来るだろう、だから今は戦力を増やす事に専念しろよ」

 それでも苦い顔をしてどうしようかと固く握っていた拳を解き、腕を組んだ。アルゴンを見たまま考え込んだ様子でエクサは椅子を戻し、座りなおした。水が半分ほど残った杯に手をかけ飲み干し、エクサは酒を一杯だけこの杯に注ぐように頼んだ。

 悩みがまとまらず酒を飲むエクサにアルゴンは呆れた。酒に溺れているように見える、中毒の症状だろうか、今の内に逃げた方が良いだろうか、逃げられるだろうか、アルゴンは悩んだ挙句に椅子から腰を上げかけた。

 途端にエクサが酒を飲み干し、杯を置いた。

「よし分かった。それでいこう」

 晴れた顔でエクサは地図を取り出し、アルゴンに広げて見せた。何があったのか分からないが、それに頷いたアルゴンはエクサの地図を指差し、数箇所を教えた。教えられた場所に印を付け、エクサは地図をたたんで礼を言った。

 何故、今酒を飲んだのかアルゴンがエクサに問うと、真顔で返した。

「悩みは酒で流すのが一番だ」

 飲酒はたしなむ程度のアルゴンにはエクサの言動が理解できなかった。神を信じる者は盲信者になるのか、それともただ酒が飲みたいだけなのか、その両方か、訊ねたところで理解できないだろう。

 座りなおして朝食に手を付け始めたエクサとヴァスティスを尻目に、アルゴンも水の入った杯に手を伸ばした。そして不意に自分の約束を思い出した。

「そういえば、アルゴン。俺に要件ってなんだ」

 言葉を奪われたアルゴンはそのままヴァスティスに返答した。

「それなんだよ。僕に家を探して欲しいんだ」

 片方の眉を上げて、ヴァスティスは不思議そうに黙ってアルゴンを見つめた。

 家が欲しいだけならば直ぐに手に入れられるだろう。元々は勇者で金遣いも荒くない、未だ潤沢な資金を持っているはずだ。そうでなくとも、知り合いや恩を売っている相手に一声掛ければ簡単に屋敷の一つや二つは用意してくれる。ヴァスティスが知るアルゴンはそれが出来る。

「金なら貸さんぞ」

 ヴァスティスが手を振ってみせると、アルゴンは笑って否定した。

 もしかすると、資金が無くて建てられないと言うのかと思えばそれでもなかった。更に困惑して説明するように促した。

「お金はあるんだ。家を探して欲しいっていうのは、家を建てる場所を探して欲しいんだ」

 アルゴンが言うには、流浪の旅は好きだがいずれは定住する場所が必要となる、その為に以前から定住できる場所を探していたが未だ見つからない。との事だった。

 それが最近、急に要り様になったので世界をまたにかけているヴァスティスに相談を持ちかけた次第だった。

「それなら相談相手は俺じゃないだろう。専門家に相談しろ」

 家の専門家の名前を挙げようとしたヴァスティスに、両手を挙げてアルゴンが制した。

「確かに、それならヴァスティスじゃなくてもいい。実は家が必要になったのは子供が生まれるからなんだ」

 照れ臭そうにアルゴンは頬を掻いた。

 突然のことにヴァスティスは驚きつつも祝辞を述べた。隣で聞いていたエクサも祝杯をあげようと、店に一番良い酒を頼もうとしたがそれはアルゴンに止められた。

「まだ、直ぐ生まれるわけじゃないけど、安心して産んでほしいから」

 何度も頷くヴァスティスは、黙ってそれは何故だと問いかけた。

「実は、さっきエクサが言っていた駆け落ち相手。今の奥さんが悪魔なんだ」

 はにかんでアルゴンは答えた。

 それに黙って何度も頷き、腕を組んだ。一拍置いてヴァスティスは顔を上げた。エクサは危なく椅子から転がり落ちそうになった。

 しかし、アルゴンは二人の様子を無視して語る。

「僕の奥さんは、見た目が人間と殆ど変らないけれど立派な角が生えていて、しかもその角が薔薇の形をしていて本当に可愛いんだ。髪も長くて、太陽みたいな金色で赤い薔薇がよく映えて、鈴を転がすような澄んだ声で、もう美人で美人で、独り占めしたいくらい。それも美人なだけじゃなくて優しいし、柔らかいし、僕の心配をよくしてくれるし、料理は得意じゃないけど手先は器用だし、可愛いし」

 アルゴンの惚気話を笑いながら聞いていたが、なかなか本題に入らないのでいつ止めようかヴァスティスは困っていた。他人の惚気は酒の肴にならないとエクサは黙々と朝食に向かっていた。

「それで、今、その奥さんは」

 ヴァスティスが切り出して、やっと惚気話を止めたアルゴンは口元に手を当てて更に笑った。見たい、かと何度も問いかけると誰の返事も待たず席を立ち上がり、手招きをした。見に来いと示すアルゴンに渋々ヴァスティスは従った。

 黙って過ごそうとしていたエクサの首筋を掴み道連れにして、ヴァスティスは軽い足取りのアルゴンを追った。

 店の奥、個室にアルゴンは入って行った。アルゴンに続いて個室に向かい、薄い紗をくぐると、髪に薔薇を挿した女が座っていた。アルゴンが言う通りなら薔薇は角、人によく似ていた。

「美人でしょ、自慢の奥さん」

 隣に座ってにやけた顔で胸を張り、先程の惚気話から、顔が引き締まらないアルゴンは自分が世界一幸せだと触れまわっているようだった。

 他人の惚気がどうしてこうも煩わしいのか、そのまま引き返そうとしたエクサの首に手を回してヴァスティスも個室に入った。

 入口側をヴァスティスに取られてエクサはアルゴン達と向かいの席に座り、軽く頭を下げるアルゴンの妻に会釈をする。その動作で薔薇の香りが辺りに漂った。

 金色の髪も長く、頭にある薔薇も赤い。どちらかと言うと美人の分類には入るが、アルゴンの言うほど人並み外れて美人だとは見えない。隣に置いてある小さな鞄から見えている棒針のような物で編み物をしているのかもしれないが、今はそれで器用だと披露してはくれないだろう。

 突然の訪問者に、少しだけ困った表情を浮かべているのが印象的だった。

「テルルといいます」

 鈴を転がすような、とはいかぬまでも十分可愛らしい声だった。

 先にアルゴンが自慢しなければ美人だったのだが、無駄な期待をしてしまったエクサとヴァスティスにはそう見えなかった。

「というわけだから、君に相談することになったんだよ」

 テルルの隣に擦り寄り、アルゴンは肩を合わせた。それに頬を染めて、テルルはアルゴンを見返し視線がぶつかる度に目を泳がせた。

 これだから新婚者は、内心悪態をつきつつエクサは夫婦を眺めるしかなかった。

「俺なら悪魔だの天使だの人間だのツマラン枠を取っ払って相手にしてくれるからだろ」

 ヴァスティスが大袈裟な身振りで心地良い弾力の椅子に体を埋めた。

 それにアルゴンが頷き、続いてテルルも頷いた。

 アルゴンが探していたのは家そのものではなく、家を建てる土地柄。人と悪魔が共存しても構わない、もっというなればヴァスティスの言うツマラン枠を持たない土地を求めている。

 それを相談できる相手は差別なく相手の話を聞ける、尚且つ多くの土地を往来している者に限られてくる。アルゴンにとってそれはヴァスティスだった。

「大体の事情は分かってくれたか」

 身を乗り出して問うアルゴンにヴァスティスは手の平を見せて制し、自分の荷物から地図を取り出し机に広げた。それはこの地域周辺の地図ではなく、世界を示した地図だった。机一杯に広げられたそれを見せ、現在地に小さなサイコロを置いた。

 それから指で国境をなぞり、大体の範囲を示しては「此処は駄目だ」と呟く。

 更に他の範囲をなぞり、同じように呟く。それを繰り返すと地図で殆どの場所が駄目だった。ヴァスティスが駄目だと言う度にテルルの表情は悪くなり、机の下でアルゴンの手を握りしめているのが見えた。頼りない、それが守らなければという気持ちにさせるのだろう、エクサもテルルを何とか安心させてやりたいという気持ちになっていた。

 エクサも広げている地図に見入り、何処か場所は無いものか探した。そして唯一残った大陸であり国を見つけた。

「ここはどうなんだ」

 北にある大陸は女神のお気に入りの大陸で、時折、他の神と会う時に降りる場所でもあった。エクサ自身、実際に降りた事は無い。女神の話を聞く限り、田畑が多く、豊かな土地らしい。

 エクサの言葉にアルゴンも頷いた。

「僕もそう思ってた、確か肥沃な土地で食料の輸出国家。ここから海を隔てた隣の大陸。僕は行った事ないけど」

 眉をハの字に曲げ、口をヘの字に曲げて顔を歪め、髪を引っ掻きまわすヴァスティスは全身で困った、を表現していた。そして口の中で何かを呟いては止める。

「らしくないな。はっきり言え、ヴァスティス」

 自分との葛藤が終わったのか、腕を組んで正面からアルゴンとテルルを見据え、問いかけた。

「素直に答えてくれ。ここは常識なんてものが通用しない、それでもいいのか」

 ヴァスティスの突飛な問いかけに三者は頭の中が真っ白になった。

「肥沃な農業王国で、俺が知っている中で一番平和で、悪魔も人も天使も関係無い。確かにここ以上に種というものを気にしない土地は他に無いだろう。そんな小さなもの気に留めるに値しないと知ってるからな」

 短く、荷物を取って来るとだけ言い残し、ヴァスティスはその場から離れた。

 その背を追い、エクサも夫婦を残して個室を出た。

 定住先を求めているのはアルゴンとテルルだ、夫婦だけで相談する時間が必要になるだろうと気を利かせたつもりだった。

 ヴァスティスは最初に座っていた席に座り、残った朝食を片付けていた。荷物はずっと持ち歩き、取ってくる分などなかった。

 やっと朝食を摂り終わり、黙り込んだヴァスティスは小さくエクサを手招きした。そして、エクサの耳を引っ張り、囁いた。

「エクサ、お前あいつらについて行け。アルゴンと一緒なら悪魔も襲ってくる」

 かかる吐息に鳥肌が立ち、エクサはすぐさま身を引いたものの問い正そうとした。だが、質問を投げかける前にアルゴンとテルルが個室から出て、決意を伝えた。

「有難う、ヴァスティス。そこに行ってみるよ。迷っている余裕もないし」

 確かな心の下に、アルゴンはテルルとの安定した幸せが掴めると信じて行き先を決めた。

 謝礼にとヴァスティスにワイン瓶を渡し、置いていかれた地図を広げて大まかな道のりを聞くと折りたたんで返そうとした。

 受け取らずに持って行け、と言うヴァスティスとアルゴンが押し問答を始めた。結局、折れたのはヴァスティスだったが、地図の代わりにと押し出したのはエクサだった。

 地図と天秤に掛けられた気になったエクサは多少気を悪くした。

「じゃあ、エクサを連れて行けよ。寄ってくる悪魔の方に用があるだろうからな」

 道の途中に魔王の配下だった悪魔達が居るだろう場所もある、アルゴンに恨みがある悪魔が纏わりついて襲ってくる可能性もあった、エクサに断る理由もない。

 どこまで考えを読まれたのか知れないがヴァスティスはきっかけを与えてくれたに過ぎない。

「完全な不案内だが、用心棒ぐらいにはなる。エクサだ、宜しく」

 エクサは渋々といった表情をつくり、差し出した手をアルゴンとテルルは力強く握り返した。

 それを見届けたヴァスティスは、最後に祝辞を告げて去った。

 残った三者はアルゴンが用意していた馬車に荷物を積んだ。テルルの為にと、柔らかな布団が積み込まれた馬車の荷台は小さいが丈夫な作りで、馬車の揺れを荷台に伝えにくくしていた。更に荷台には屋根代わりに厚手の布が掛けられ、雨や風がしのげるようになっていた。小さいながらも充実した荷馬車にアルゴンの愛が伝わった。

 アルゴンとテルルを荷台に乗せ、エクサが手綱を取り早々に町を後にした。目的地まで急ぎたい、会いたくない相手がまだ近くにいるかもしれない、とアルゴンが必要以上に急かせたのだった。

 手綱を引くエクサが町から離れて行くのを遠くから幾つもの目が見ていた。それはエクサの試練を受け止めきれなかった悪魔と、新たな魔王の復活を聞いた者達だった。思いもよらぬエクサの行動に困惑した。

 魔王が何処かへ行ってしまった、と。

 集まっていた悪魔達はそれぞれの思惑に従って動き始めた。一部は棲みかへと帰り、一部は自分が魔王になろうと争いを始め、一部は人の町へと潜り込んだ。

 人の町に入った一名の悪魔は噂を流した。魔王が再び現れ、北へ向かった。今度こそ終わらぬ乱世が訪れる、早く準備をしなくては。早く準備をしなくては、と。

 噂は動揺を生み、困惑を国に広げた。瞬く間に広がったそれは数日を掛けて国王の耳にも届いた。

 歓喜したのは誰であろうその国の国王だった。

 驚きの中に喜びを隠しつつ、カンデラは噂の真偽を確かめるように命じて、その夜は久し振りにジーメンスと会った。

 カンデラを見下げた様子はそのままに、カンデラの狂った悦びを不審に思いつつも自分を解放するようにジーメンスは言葉を掛けた。しばらく身動きをしていないジーメンスは眠たくて仕方が無かった、何も出来ないのなら怠惰な眠りに落ちていたかった。

 眠気に襲われていたジーメンスを起こしたのは鎖越しのカンデラの手だった。久しく触れられていなかったジーメンスは驚き、カンデラの表情を窺った。

 カンデラは笑っていた。

「魔剣よ、血が欲しいか」

 その目は冷静に狂っていた。少しずつ、自ら狂気を育んできたカンデラは、表面上のみ冷静に、しかし心の奥底で神を脅迫し続けていたそれが如実に現れていた。アルゴンが人を嫌った理由をそのままカンデラはとっていた。

 血が欲しい、解放して欲しい、それは紛う事無きジーメンスの欲望だった。

 だが、それはカンデラも同じだった。

 本当の地位が欲しい、女王の付属物ではなく自分の地位を確立したい。現状から解放して欲しい、良心から苛まれ、嘘をつき通さなければならない今から脱却したい。昔と同じ栄光に輝きたい、尊敬を一身に受けたい。

 ジーメンスのそれはいつか満足できる、ある程度の欲求が満たされれば良かった。

 カンデラの欲求はそれが出来なかった、栄光も地位も生が続く限り求めるものだった。一度得てしまった悦楽に浸り続けたかった、それには周囲の者が常に尊敬の念を与え続けなくてはいけなかった、常に今以上の念を。

 壊れたカンデラの器にジーメンスは笑わずにいられなかった。

 魔剣、ジーメンスを求めているのはカンデラ自身だった。ジーメンス自身を求めているのではなく魔剣を求めている。身の丈に合わぬ力をカンデラは求めていた。人の為に作られた物ではない力は、本来の持ち主以外に災厄と破滅をもたらす。アルゴンに与えられなかったそれらをカンデラは容易に受け取るだろう。

 ジーメンスは可笑しくてたまらなかった。

「俺の力が欲しいのはお前だ、真実も語れない憶病者め」

 ジーメンスの罵倒を承諾と取ったカンデラは幾重にも巻きついた鎖の錠を切った。垂れた鎖を払い、無理矢理隠し縛り付けたジーメンスを解放した。以前は握る事を拒否した柄を力強く握り締め、冷たく灯りを反射する刃にその顔を映した。

 年を取り、刻まれた皺と異様に煌めくその目さえも魔剣が見せる偽りと感じた。既に、カンデラの目には都合の良いものしか映らなくなっていた。

 以前に作らせた鞘の中から無事な物を選んで、ジーメンスを収めてカンデラは地下から出た。陽光すら自分が纏っているような感覚に襲われ、世界の全てが自分に傅いているように思えた。

 カンデラが感じているそれをジーメンスは黙って笑った、全てが嘘と偽りの中で息をしている人間の考えることなど下らない、と。

 偽りを真実に塗りつぶそうと奔走している、出来もしない事をしようとしている、眠気も消えたジーメンスは久し振りの光に解放された実感を覚えた。この時、確かにカンデラとジーメンスは光を見ていた。

 しかし、カンデラとジーメンスの光は全く違うものだった。

 噂をばら撒いた本人が現れたのはジーメンスを解放してから三日後だった。兵に命じて情報を集めた、というよりも本人が見つかるように噂を撒いていた。

 兵に連れられた噂の発信源はカンデラの前に現れた。それは楽器を持った青年の姿をしており、国王を前にたじろぎもせず優雅にお辞儀をした。

 女王が身分を問うと青年は悪魔だと名乗り、魔王が現れたと報告した。そして芝居がかった調子で声を高らかに上げた。

「確かにこの目で見ました、この耳で聞きました」

 謁見前に兵の質問と同じ答えを青年は繰り返した。ルクスが聞く事は事前に兵や臣下が何度も聞いていた、それはルクスの耳に入っていたが本人から聞きたかった。

「して、何故悪魔のお前がそれを知らせる。魔王を筆頭に我ら人に害を為すのがお前達」

 扇子を鳴らし、ルクスは鋭い眼で青年を見下ろした。怯まず青年はルクスに応えた。

「悪魔とて乱世を望む者ばかりではありません。私は人と関わりを持たず、静かに生きたい。やっと平和な時代が来たのです、それを争いの時代に戻されたくないのは人も同じではありませんか。それに、魔王を討伐するのは人の役目ではなかったでしょうか」

 流れるように述べた青年は頭を下げた。そして下を向いたまま顔を上げようとはしない。口に扇子を当ててルクスは考え込んでいるようだった、それを見たカンデラはジーメンスを片手に立ち上がり青年に近づいた。

 黙って眺めている女王を尻目にカンデラは青年の目の前に立った。本当の悪魔ならジーメンスが何かを伝えてくるはずだった。ジーメンスは僅かに震え、確かにこの青年が悪魔だと伝えた。

「お前が悪魔だとすればこの場で切り捨てても良いのだぞ」

 カンデラが脅すと青年は頭を下げたまま、口の端を曲げた。

「その覚悟で参りました。しかし、切られてしまうと魔王の姿形はお教えできません」

 上から見下げていたカンデラやルクスには青年の視線の先にある物が見えなかった。下を向けた顔で、青年は上目使いにカンデラが持つ剣を見ていた。カンデラやルクスと会話をしているが、興味を示していなかった。

「お前の望みが平和だというのなら、必ずや訪れるだろう。知っている事を全て申せ」

 ルクスの言葉に青年は顔を上げ、快諾した。

 エクサの容姿を青年は説明したが、ありふれた姿形に角があるだけだった。しかも、ただ一つの特徴である角さえ簡単に隠せてしまえるという事だった。

 青年の言葉通りに絵を描かせても、城内でさえ似たような顔の者が十人はいた。絵を国中にばら撒いたとすれば、一日で城に入りきらないだけの数が集まる。誰もが簡単に予想できた。

 直接青年に会わせるしか方法がない、しかし何処にいるのかさえ分からない。何か方法は無いのか、とカンデラが苛立ちを臣下にぶつけると城に留まるように命じられた青年が勿体ぶった様子で告げた。

「その剣なら分かるでしょう。魔剣と謳われたジーメンスならば」

 カンデラは青年の言葉に頬を引きつらせた。

 今までジーメンスは唆し、罵倒こそしたが、能力をひけらかしはしなかった。魔剣とは一方的にカンデラが呼んでいただけだった。他者の口から魔剣だと聞かされ、真実自分の手にある剣の恐ろしさに腕が痛んだ。

 そして、魔剣を知る青年に危機感を覚えた。カンデラが知らない事を知っている、何をどこまで知っているのか、気が気ではなかった。

 城内に入った時点で青年には常時兵を配し、全てを監視している。もし何かあれば沈黙させられるように準備もしている、それでも青年は限りある自由を悠々と過ごしていた。むしろ監視されていることすら楽しんでいるようにも見える、カンデラには理解し難く、腹立たしかった。

 カンデラとは逆にルクスは青年に何度か問いかけをし、その度に返される洒落た答えに笑って見せる余裕があった。

 ルクスには捨てきれない希望があった。ジーメンスの本来の持ち主であるアルゴンだ。

 死体が見つからない事で未だに生きている希望を捨てきれないでいた。魔王が出現したことで再びアルゴンが現れるのではないかという妄想を会って間もない青年に訊ねていた。

 会って間もないことが重要だった。そして身近な存在ではなく、非現実的な存在である必要があった。青年はまさに非現実的な存在だった。

 ルクスは自分の希望が夢物語だと知っている、もし希望が現実であったとしても今を棄てる気は無く、ただ少女のような夢を語れる相手を探していた。それに悪魔だと名乗る青年はうってつけだった、ただそれだけだった。

 自分よりも青年との会話が自然な女王にもカンデラは腹が立っていた。十数年連れ添っているカンデラよりも青年に話しかける、そして何気なく笑う。

 夢は夢だと自覚しているルクスと、歪んだ夢に溺れているカンデラには深い溝があった。

 二人の溝が周囲にも感じ取れるようになったのはカンデラが自分から出掛けると言いだした時だった。青年が唆したからだと周囲は囁いた。

「何故あなたが行くのですか。あなたでなくとも良いでしょう」

 ルクスは眉を顰めてカンデラを止めた。

 しかし、カンデラはそれを拒んだ。

 カンデラの数少ない拒否にルクスは不審がり、その理由を訊いた。

「魔剣を扱うには強い心が必要です。今は鞘すらありません、扱えるのは私だけでしょう」

 カンデラの説明は尤もに聞こえた。ルクスも説明には納得したが、未だ存在すら怪しい魔王の為に国王を玉座から動かす気は無かった。

 魔王の居場所が分かれば討伐隊を出す、それでも間に合わなければ騎士団を出す、国の象徴でもある国王を動かすことは危険過ぎる。例え国内であっても国王を無用に動かすのは得策ではない。

 実権が女王にあるとしても国王を正体不明の魔王に向かわせる訳にはいかない。何より国王の行動が空振りであってはいけない、存在もしない魔王という虚像に立ち向かっては権威が無くなる。

 居場所が知れるまで待つよう、ルクスはカンデラを説得した。

「その場所が分からないから魔剣で探すのです」

 カンデラは譲ろうとしなかった。

 頑ななカンデラにルクスは驚き、爛々と目を輝かせるその目を訝しがった。カンデラの心の奥が一瞬だけ覗いた気がした。その目は待ち侘びていた魔王の出現を喜んでいるに違いなかった。ルクスは直ぐにでも出陣しようとするカンデラを許さず、臣下の一人に目配せした。視線に応じた臣下は前へ出て膝を曲げた。

「調べなさい」

 ルクスが命ずると臣下は頭を下げ、走った。

「魔王ならばそれ相応の力があるはず。離れていても探知することができるでしょう」

 調べるから今しばらく待てとルクスはカンデラを止めた。焦りを腹に収めてカンデラはそれに従った。

 何度も魔王が出現した為に、出現の真偽を確かめる術が編み出された。それは城に仕える魔術師が数人で力の集まる点を探し、複数の場所でそれを行うことにより場所の見当が付けるというものだった。地理的に力の集まる点は既に分かっている、それを除いて他に力の点があれば魔王である可能性は高い。

 その力はマナと呼ばれる。

 魔術師と呼ばれる者はそのマナを操り、自然には起こり得ない現象、魔法を操る事ができる。その魔法により強くマナが反応する場所を探す、その為に城ではマナの探知に長けた者を常に配置している。

 願わくば、魔王の出現が嘘であってほしい。国を想うルクスの願いは数日の後に打ち砕かれた。

 魔術師達からの連絡はカンデラを喜ばせるものだった。確かに魔王出現の可能性がある場所が分かった、そして数日間で移動している。

「国境までの距離は」

 カンデラが知らせに来た魔術師へ聞くと、広げている世界地図を指差し、更に詳細な国内の地図を広げた。ここ数日の移動距離から考えると、未だ暫くは国境には辿り着かないだろうとの事だった。

 それに一安心したカンデラが口を開く前に、女王が騎士団の一部隊に調べるよう命じた。

 もしもの為にルクスは魔術師達に探知を命じたと同時に最速の部隊を編成させておいた。用心深いのではなく、常に最悪の事態を考えてしまうのは魔王乱立時代に国を治めていた国王の背を見て育ったからだ。国を治める、それだけの重責を担ってきたルクスだった。焦りを胸に収めて次なる準備を進め、扇子で余裕を表しカンデラの様子を窺った。

 カンデラは今か今かと剣の手入れをし、いつでも出立出来るように準備をしていた。優秀な配下を集め、馬を選び、身体はそのままに心だけ若返っていた。

 今度こそ偽りない魔王討伐者の称号が手に入る、それだけでカンデラは昔に戻れるつもりだった。栄光と尊敬の眼差しが自分に集まった昔に。

 ルクスの制止を聞かずに動き出すカンデラに周囲は違和感を覚えた。一体何を喜んでいるのだろう、何故国王自らが動こうとしているのか、と。

「もし、確かめに出かけるのなら私もご一緒させていただけませんか」

 女王と国王の溝がはっきりと見て取れるようになった頃、青年が言いだした。特別に編成された部隊、最初の最速部隊ではなく、二番手の探知を担う部隊に同行させて欲しいと青年が頼んできたのだった。

 魔王の姿形を見た事がある青年が同行すれば、確実に見つけた相手が魔王かどうか分かる。しかし、それは城で居る時より監視が薄くなるということだ。

 ルクスは躊躇した。国王であるカンデラを動かすよりも青年を動かす方が国にとっては良い、しかしそれで青年を取り逃がすような事があってはならない。もし青年の目的が魔王との接触であれば避けなければならない

 そして疑問がある。密かに魔術師に青年を調べさせたが誰も悪魔だとは分からなかった、逆に悪魔だと認めたのは魔剣のみ、魔剣の意を知るのはカンデラのみだった。魔王の出現を聞いてからのカンデラの様子がおかしい事を考えれば、青年が悪魔という事も怪しい。疑えば疑うほど、全てが怪しく思える。ルクスは疑心暗鬼に囚われそうだった。

「同じ母親として約束しましょう、この城に戻ってきてケーキを焼いて差し上げますよ」

 何故かルクスは青年の言葉に頷き、渋々ながら部隊の同行を許した。

 驚いたのはカンデラだった、そもそも青年が女だとは知らなかった。しかも気付かぬ内に女王と青年は想像以上の仲になっていた様子で、部隊に同行させた事実がカンデラ以上に青年を信用している証拠に思えた。

 当然と言うべきかルクスは部隊に青年を回収すべく信頼のおける数人を加えた。

 それすらカンデラには見えていなかった。青年達を加えた部隊は最速部隊に続いて早朝に出立した。

「一応呼ぶ時に面倒だ、名前を聞いておく」

 探知部隊の隊長が青年へ乱暴に問いかけた。周囲から聞いてはいたが本人の口から訊ねるのが隊長の流儀だった。

「あぁ、私ですか。モノです。そう呼んでいただきたい」

 青年、モノは柔らかく笑った。