勇者様と魔王様

4.テルル、僕は貴女に一目惚れしました





 アルゴンとテルルの仲睦まじい様子にあてられたエクサはヴァスティスを多少恨んでいた。何かといってテルルに寄り添うアルゴンと、ちょっとした言動で頬を染めるテルル。

 しかし、エクサが想像していた以上に結婚してから歳月が経っていた。これほど二人がお互いに熱を上げているのだから結婚して間もないと思っていたのだが、既に十年以上が経っていると言う。

 手を握っただけで赤くなってしまう、そんな二人の様子はそれまでの長い結婚生活を想像させなかった。

 アルゴンとテルルの夫妻、エクサはそれぞれをよく知らずにいた。

 夕方から早くに休憩に入り、温かい飲み物を手に何気ない会話を重ねた。

「まさか、エクサさんが魔王なんですか」

 出会ったその夜、エクサが同行する理由を説明する上で今の職務を話した。

 テルルは驚いた、アルゴンは最初にエクサを友人の友人だと説明していた為だ。確かにそれは間違いではなかった、アルゴンの友人であるヴァスティスの友人のようなエクサだ、間違いではなかった。だが正しくは無い。それをエクサは指摘したのだ。

「正確には魔王の役割を職務として行っている神の使いです」

 自分が仕える女神・リーリアリについてエクサは口止めをした上で説明したが、テルルは宗教に明るくなかった。ただ酒飲みで面白い女神がいるのだと理解した。

 初対面に近いテルルとエクサだったが、直ぐに打ち解けた。アルゴンとエクサも共通の友人がいることで会話も弾み、同じく武器を手にして戦う性格から気も合った。

 打ち解けるのは早かったものの、全く異なる生活をしていただけにそれを理解するのには時間がかかった。

 まず、アルゴンとテルルは同じ寝床で眠らない。これは子供のできたテルルにゆっくり身体を伸ばしてもらいたいというアルゴンの意図だった。起きる時間も別々でアルゴンが先に食事の準備をし、起きたテルルに手伝ってもらいながら作り上げる。何かというとアルゴンはテルルと共に行動し、寄り添っている。テルルも進んでアルゴンの傍にいる。

 アルゴンとテルルの様子はまるで新婚夫婦のようだった。

 逆にエクサは単独で行動することが殆どで、周囲の見張りや悪魔探しに気を配っていた。それがエクサの役割であったが、休みをとらないのでテルルが心配した。

 エクサは困った。そもそも地上に降りて来たのは最近で、地上の情報も得たい、睡眠や食事は必要としていなかった。

 地上では主な大陸を占めているのは人間の国。他の種も大小の国を持っているが人間の国の方が多く、ヴァスティスが教えてくれた通りならば人間に近い種と人が暮らしているらしい。魔王の居城近くの町でそれは感じていたが、魔王の居城に近い為かもしれないと思っていた。

 人間に近い種は人間の形に近い種とも言えた。人から遠い種は姿形が似ていない、それには天使や悪魔が含まれていた。

 天使や悪魔は姿形の変形が可能なだけに似ていないというのは語弊がある。

 地上にある形は周囲から与えられた形であり、天使や悪魔はそれ自身の形を地上で表す事は少ない。その形も仕える神の影響が大きい、どうしても神の形に似てしまうのだ。神の思惑か、天使自身の願望かは分からない。

 形だけではなく、天使や悪魔の摂取するものは人間とは全く違った。

 魔術師達がマナと呼ぶそれを摂取するし、また信仰心などを助力とする。人間が摂取する食べ物を摂取する必要はない。エクサの知る天使や悪魔はそうだが、地上ではもっと広く解釈するらしくテルルのような角があるだけの者も悪魔と呼ばれているようだ。

 人間も天使や悪魔のようにマナを摂取する、天使や悪魔に比べて摂取量は少ないが確かに摂取しており、それにより魔法を利用できる。テルルの摂取量は人のそれと同じ程度だ。

 物理的視野に頼る傾向が強いらしい人間には姿形が重要らしい。天使として精神的視野に頼るエクサにとって難しい解釈だった。

 今は姿形が人であるエクサを見るテルルも同じだった。

 どうしても人間のように見えてしまい、食事を摂るように勧めてしまう。テルルは天使と接する事が初めてで、仲間の悪魔達も同じように食事を摂っていたからエクサが断わるのが不思議だった。エクサの説明を聞いても分かったようで分からない。

「食べられない訳じゃないでしょう。なら一緒に少しだけでもどうぞ」

 結局は少しだけエクサが食事をすることで落ち着いた。

 食料を減らすことを懸念したエクサは最後まで抵抗したが、テルルを困らせる気か、とアルゴンがと冷たくエクサに囁いたことで決着がついた。

 食事の決着がついた事で、更にテルルはちゃんと眠るようにと進言した。

 これはエクサも受け入れた、本来ならば睡眠は不要なのだが、他の神の能力を取り込んだ為か時折疲労が襲った。

 幾つかの理由が浮かんだが、それは地上で長期間人の形をとっている為か、女神から職務を言い渡された気疲れか、悩む所が多過ぎた。他の神の力を取り込んだ所為にするのが一番手っ取り早かったのだ。

 エクサが徐々に夫妻の活動に合わせる形で旅の形は整いつつあった。

 しかし、エクサの目的である悪魔が近付くと、二人には付近で待機してもらい、エクサが単独で出掛けた。そして落胆して帰ってくるのが常となりつつあった。

 肩を落としてエクサが待たせている馬車に戻ると、アルゴンとテルルが迎えてくれ、慰めてくれる。それが嬉しい半面、同じ行為を繰り返し、悔しくもあった。

 旅の道のりは短くは無いが、それほどゆっくりもしていられない。しかも未だに納得のいく成果が出ていない、待たせているのに申し訳ない気分になってしまう。相手が弱い事が悪いのだが、その原因が笑って迎えてくれる、それも何だか複雑だった。

「魔王も大変なんですね」

 手綱を持つエクサにテルルが語りかけた。それに愚痴を零してしまいたくなる衝動を抑えて曖昧な返事をした。

「私の父も魔王だったんです」

 エクサに届いた声は思いもよらぬものだった。いや、職務を言い渡された時に聞いていた話だったのだが、それをテルル本人の口から聞くとは思わなかった。

「お父さん、今頃どこに居るのかしら」

 自らの角である薔薇に触れながらテルルは遠くへと視線を向けた。その視線の先を追うようにアルゴンも遠くを見つめた。二人に何があったのか、エクサはツァコが語った純愛物語しか知らなかった。そして、それはツァコから見た地上であり、二人の見た世界ではない。それでもツァコは語り手として十分だった。



 ある晴れた日、アルゴンは当て所もなく森の小道を歩いていた。

 目的らしい目的を持たないアルゴンは気の向くまま足の向くままに一人流浪していた。先日まで魔王と名乗る者を仲間と共に倒していたが、三人目の魔王を倒した辺りからアルゴンは飽き始め、別れる決心をしていた。

 地位や名誉はアルゴンの心を満たすことなく、むしろ虚無感が胸の内を占めていた。

 アルゴンはその虚無感が何処からくるのか知っていたし、消えて無くならないのも知っている。それは討伐の合間、極限に追い込まれた時に見える人の感情や倒してきた魔王の姿からだった。

 人の美しからぬ心を垣間見ると、何故か体に重しが結ばれたような感覚に襲われる。そして倒してきた魔王は必ずしも家族がいなかったわけではない。

 倒しては現れる魔王に嫌気がさしていたのも仲間と別れた理由の一つだったが、一部の人の心に嫌気がさしていたのが一番の理由だった。

 だからこそアルゴンは一人、自分の為にと用意された式場と花嫁を棄てて唯一の相棒と呼べる剣だけを持ち、心無く彷徨っていた。相棒の剣も最初に討伐した魔王・モノから譲り受けた物で、よく喋る以外はとても都合の良い品物だ。

 モノは自ら魔王と名乗りを上げたのではなく、ただその姿形から恐れられ周囲から旗印のように持ち上げられただけだった。それでも、その剣術は鋭く、激しく飾りではなかった。アルゴンが知る中で最も強い魔王だった。何よりモノの言葉はアルゴンの中で燻っている、まるで炭が時間をかけて徐々に燃えるように長く問いかけてくる。

「私達とは、人とは何なのでしょうね」

 モノが剣を譲る時に呟いた言葉が今になって激しく頭の中を巡っている。それに戸惑って、頭を抱えてしまえばまだ楽になれるのかもしれない。それすら出来の悪い答えを知っているアルゴンには不可能だった。

 感情を露わにするには冷静で、平静でいるには思考が乱れていた。

 空は高く、白い雲が自由に泳いでいる。心地良い日光が身体に降り注ぎ、内とは対照的に清々しい。どうすればこの矛盾が解決できるか分からなかった。

 生死を賭けた闘いに身を投じれば無駄な事を考えずに済むだろうかとも一時期思ったが、その場すら分からなかった。南にある大陸では未だに魔王が四人居ると聞いている。その戦場に向かったとしても今までと違う答えが見つかる気がしなかった。もっと正しく云うならば、アルゴンは南にある大陸に渡るために乗らなければならない船が嫌いだった。

 行く先に答えがある事を望みつつ、アルゴンは歩いて行く。

 木漏れ日が差す道の先、そこが陽炎のように揺れた。それは輪を描き幾何学的な模様を展開しつつ弾けた。

 アルゴンは歩みを止めず、前方にあるそれへと向かった。木漏れ日から生えるように現れた者に、宙に描かれる模様に見覚えがあった。何度も同じ形態の物に遭遇している、そしてアルゴンを止められる者ではない。

 モノを魔王へと押し上げた種族、これを悪魔と人は呼んでいる。他の名前を付ける気にもなれずアルゴンもそう呼んでいる。魔王とは悪魔を統べる存在であるだろうと人が悪魔と国王をかけて作ったものだった。

 悪魔自体は幾つも重なりあう世界のどこからかやって来るという説が有力らしい。しかし、それは悪魔の言葉からであり証拠があるわけではない。

 幾つもの動物を合わせたような姿形から名付けられた者が、自己を別の場所からやってきたとして正当化しようとした事が発端となり、違う世界から来たと口裏を合わせているだけではないかとアルゴンは思っている。

 でも、実際に追及するにはつまらないものだと感じていた。

 今ここで生を受けている、生きている、存在しているのだから何処から来たのかなど関係はない。敵対するのなら、どちらが残るかを賭けるだけだった。

 宙に描かれた模様が徐々に消えてゆく中、アルゴンの前に立ちはだかった悪魔は腕を広げ、脇の下から更に腕を突き出して剣を引き抜き、盾を構え、口は言葉を紡ぎ始めていた。問答無用でアルゴンの生を閉ざそうとしている。

 自身の命を賭けた勝負にアルゴンは未だ負け知らず、そして今も負けなかった。

 繰り出される刃をすり抜けざま、鞘に収まったままの剣で腹を叩いた。悪魔の口から紡がれていた言葉が途絶え、身体が硬直した。それを認めたアルゴンは悪魔の持つ盾を剣に引っ掛け、未だ消えきらない宙の模様に放り投げた。

 出てきた模様の中に悪魔が姿を消すと、同時に模様そのものも完全に消えた。

「アルゴン、何故切らん」

 鞘から抜かれもせず、何も切れずにいる剣が問いかけた。剣としては殴る事が本分ではない。切れる時に切れない、剣の欲求は溜まっていた。魔王討伐の時期には毎日のように働いていただけに剣の欲求は一入だった。

 モノから譲り受けたこの剣は悪魔が原型らしく、時には人に近い形に戻ることもある。そのせいもあるのか、元来の性格なのかよく喋る。おかげでアルゴンは寂しいと感じる事はないが自分の行動に口を出されるのも困りものだった。

「なぁ、ジーメンス。妙な気配じゃないか」

 肌で感じる不可解なものを剣・ジーメンスに問いつつアルゴンは再び歩き出した。

 突然悪魔が現れた事に別段不思議はなかった。

 幾何学模様は悪魔たちの移動手段の一つだ。宙に模様を描いた所を見ると待ち伏せをされていたわけではなさそうだった。前もって模様を残しておくと正確な場所に移動でき、移動する時間も短縮できる。今回はそうではなかったようだ。

 襲撃される心当たりは大いに有り過ぎてどれか分からないが、それならば何か言ってきそうなものだ。だが何も言わず、ただ侵入者を排除しに来たような、そんな気がしていた。

 そして生き物の気配が急に途絶えた。森の中は生に満ちているが、それがぷっつりと消えている。目に見える景色は変わらない、ただ周囲にあった感覚が抜け落ちたようだった。

「何かいるな。切り甲斐のある奴が」

 嬉しそうな感情がジーメンスから伝わってくる。それを諌める為に飾りの付いた鍔の部分をアルゴンは人差し指で弾いた。硬い鉱物の飾りが爪に当たりアルゴン自身も多少痛みを伴ったが、ジーメンスも痛がったようなので良しとした。

 切りたくて疼く剣のお仕置きとして覚えた方法だが、段々と効果が表れてきたのか最近は指を向けるだけでも黙るようになった。切るばかりではなく打ち合う武器でもあるので痛みには強い、小さな事だがそれで意思疎通ができている証拠だと思っている。それとも、原型が悪魔という生物だけに弾いている飾りの付いている部分が急所なのかもしれない。確かめたことはないが求めている結果が出ているのでアルゴンは気にしていなかった。

 ジーメンスの言う「切り甲斐のある奴」が道の先にいるのなら求められる通り、鞘から解放しなければならないかもしれない。

 先程の悪魔もそうだが出来る限り傷付けず、殺さずに済ませてきた。それにも限度があるが力の及ぶ限りアルゴンは傷付けたくなかった。何より自分自身を傷付けたくなかった。相手が傷付く事で自分の心を傷付けたくなかった。

 アルゴンは繊細な心の持ち主ではない、むしろ逆でかなり鈍い。それでも傷は付くのだ、その傷は簡単に消えてくれるような代物ではなくなっていた。

「よし」

 アルゴンは歩みを止めた。

「さぁ準備をしろ。俺を解放するんだアルゴン」

 嬉々としてジーメンスが喋る。久しく欲求に応えてくるだろうと期待しているのが声の抑揚から知れる。今か今かとジーメンスは待っていたが、その時はやってこなかった。

「引き返そう」

 アルゴンの言葉にジーメンスは揺れた。

 何故だと声を荒げるジーメンスを無視してアルゴンは向きを変えた。目的があるわけではない、何処かに答えが落ちていないか探しているだけの一人旅に遠慮は無い。

 争う理由がなければ可能な限りアルゴンは避けて通った。臆病だと罵るのはジーメンスだけだ、その言葉も耳を塞いでしまえば聞こえない、その点は剣の形状が有難かった。

 来た道を戻ろうと足を上げた時、ジーメンスが今度は驚きの声を上げた。

「アルゴン、女だ。女が此方に走ってきている」

 それにはアルゴンも思わず振り向いた。人であるアルゴンの耳には届かなくとも悪魔であったジーメンスが感じ取るそれは主に悪魔の物だった。ならばその女も悪魔なのだろうとアルゴンは再び元来た道へ歩き出そうとした。

「アルゴン、俺を解放しろ。女の後ろに俺を満足させてくれそうな奴が来ている。もうすぐだ」

 仕方なく鞘から抜かぬ状態で柄を持ちアルゴンは振り返った。そこでやっと、アルゴンの耳にも届く距離で、誰かが息を切らして走っているのが分かった。

 音からしてもうすぐこちらに辿り着く。目に見えるだろうか、と少しだけ心配しながらアルゴンは待った。

 アルゴンの心配をよそに足音の持ち主は姿を現した。

 木漏れ日の中、緑のドレスを着て、薔薇を挿した長い金色の髪を振り乱し、女が走っている。その姿にアルゴンは目を見開いた。

 頬を紅く染め上げ息を切らしている女の背後に、女の背丈よりも大きい三つ首の犬が今にも追いつこうとしていた。明らかに女は背後の犬から逃げていた。その足に靴は無く、白い足が土で汚れていた。

 ジーメンスが急かす前にアルゴンは抜いていた。

 女の背後に迫っていた犬へと跳躍して頭から尻尾までを一気に切り裂いた。それでも犬は動いていた足をそのままに女へと迫り、頭を振った瞬間に左右に分かれた。頭を両手で守り、俯いた女の両脇に犬が崩れ落ちた。

 両手をそっと下ろし、肩で息をしている女にアルゴンは駆け寄る。ジーメンスを鞘へと仕舞うと手を差し出した。

 女が瞬きをすると潤んだ目から光る滴が伝い、それは胸を押さえている手へと落ちた。肩を上下させている女は必死に口を開くが、出てくるのは荒い息だけだった。

 アルゴンが更に手を突き出すと、女は首を横に振り、無理に息を整えた。

 喉から言葉を絞り出し、女は言った。

「ご恩人、お逃げなさい」

 言葉と同時に両脇に倒れている犬の体から幾つもの輪と幾何学模様が浮き上がり、展開しつつ弾けた。先程のそれよりも大きな模様から黒い物が生えてきた。

 アルゴンは女を抱えて走った。模様に背を向け十分距離をとってから振り返ると、黒く大きな馬に乗り槍を持った者がそこにいた。一見して人に見えるが悪魔が移動に用いる模様から出てきた事、その頭に生えた三本の角が正体を物語っていた。鞘に仕舞われたジーメンスが舌舐めずりをするような感覚をアルゴンに伝えていた。

 ジーメンスを抜かなければ勝てない相手だというのはアルゴンにも分かった。

「私を追っているの、あなたは逃げて」

 女はアルゴンから離れようと腕を伸ばすがその拍子にもたついた足が引っ掛かり、転びそうになる。

 女を受け止め、優しく木の根に腰を下ろさせるとアルゴンは女に笑いかけた。

 ジーメンスの望む通り鞘から抜き、空になった鞘を女に持たせてアルゴンは馬に乗った悪魔に歩み寄った。

 アルゴンの持つジーメンスを認め、馬上の悪魔は槍を持ち直し、口を三日月の形に歪めた。

「姫、もう逃げられませんよ」

 悪魔は女に言葉をかけ手綱を引いた。馬は嘶き前足を大きく上げ、目の前にいたアルゴンを踏み潰さんばかりに下ろした。

 足と共に位置の下がった頭を下から剣の柄で突き上げると、馬の体は妙な方向に跳ね上がった。馬に乗っていた悪魔は飛び退き槍を振る。途端に槍が軽くなる、先端が宙を舞っていた。槍だった棒を引く前にアルゴンの手が柄を掴み、引き寄せ、剣を握ったままの手が悪魔の鼻を捉えた。

 意識を弾き飛ばすにはそれだけで十分だった。

 重たい音を立てて馬と悪魔は殆ど同時に地に伏した。宙にあった模様が完全に消えている事を確かめ、アルゴンは女に向き直り、駆け寄った。

「大丈夫ですか」

 優しく訊ねるアルゴンに呆然としていた女の心臓は跳ねあがった。先程までとは違う心臓の速さに戸惑い女は更に顔を赤くした。馬上の悪魔を瞬く間に倒したアルゴンに心を奪われていた。

 渡されていた剣の鞘を押し付けるように返し、女は両手で頬を押さえじっとアルゴンの顔を見入った。角や牙もない人のそれなのに女は息をするのを忘れて見入った。髪から滴る汗が目に届くまで瞬きもできなかった。

 女は完全にアルゴンに見惚れていた。それを自覚してから初めて自分の姿を思い出し、髪を撫で上げスカートで足を隠した。

 鞘を受け取り、剣を収めるとアルゴンは女の様子をただ眺めた。

 身だしなみを今できる限り整えると女は再びアルゴンを見上げた。熱い身体が更に熱くなるのが感じられた。

 アルゴンが手を差し出すと、戸惑いながらも女は手を乗せ優しく引き起こされた。

「有難うございます、何てお礼を言ったらいいか」

 女は立ち上がってもアルゴンを見上げ、まだ落ち着かない鼓動に困っていた。届くはずもない心音が聞こえてしまっては大変と胸を押さえるが、高鳴りが手に伝わるだけだった。

「お礼。なら名前を教えて下さい、僕はアルゴン」

 女の手を持ったままアルゴンは正面から女を見ていた。

 体を小さくし、身を震わせながら女は口を開いた。

「テルルです。アルゴン様」

 その言葉に満足したアルゴンはテルルの両手を両手でしっかりと握りしめた。

「テルル、僕は貴女に一目惚れしました」

 はっきりと正面から目を見てアルゴンは女に伝えた。人や悪魔という考えは毛ほども感じていなかった。先程までどこかで見つかるだろう疑問の答えなどアルゴンにとって既にどうでもよくなっている。テルルを見た瞬間からアルゴンの世界は薔薇色に変わっていた。

 アルゴンの言葉が届くやいなや女は赤くなっていた耳を更に赤くした。そして目を少し伏せた後に零れんばかりの大きな目でアルゴンを見上げた。

「はい、私もです」

 テルルも正面からアルゴンへ返した。それがテルルの正直な今の気持ちだった。他種族だということよりも一瞬の胸のときめきが勝っていた。まるで雷に打たれたように心は痺れていた。何より手から伝わるその脈が心を繋げているかのようにすら感じていた。

 お互いの他は見えなくなっていた。

 そこに水を差したのはジーメンスだった。

「おい、こら、ちょっと待てアルゴン。お前はモノの答えを探してるんじゃなかったのか、そのテルルとかいう悪魔にうつつを抜かしてる暇があると思ってるのか」

 名残惜しそうにテルルの手を離し、今度はテルルの髪を一房優しく掴み、恥ずかしがるテルルの様子に目を細めながらアルゴンは髪の感触を確かめる。

 まるでジーメンスの言葉が届いていない。怒りを通り越してジーメンスは呆れかえった。

 テルルが足を痛めていると、見て取ったアルゴンは荷物を探って予備の履物を出した。裸足のテルルにと予備の履物を渡そうとするアルゴンに、汚れているからとテルルは遠慮する。

 裸足を心配して譲らないアルゴンに、テルルは伏せ目がちに暫く歩いた先に泉があるからそこで足を洗わせてくれと願った。それをアルゴンは快諾し、テルルを腰からすくい上げるように抱えて走った。

 落ちないようにとアルゴンにしっかりとしがみ付いて、その心音を聞きながら動揺を隠せないままテルルは泉のある方向を示した。

 その時のアルゴンは疲れ知らずだった。抱えているテルルはまるで羽根のように軽かった。自分自身の体すらかつてないほどに軽く感じられていた。テルルの示す通りに走っていると、直ぐに冷たい水を湛えた泉が木々の間に見えた。

 泉が見えてから走る速度を落とし、泉の一歩手前で足を止めた。

 ゆっくりとテルルを足から下ろして体を離すと、少しだけ残念そうな目をしてテルルは泉にしゃがみこんだ。アルゴンも靴を脱いで隣にしゃがみこんだ。

「冷たくて気持ちがいい」

 テルルは足の痛みが抜けていくようだった。

 テルルの緊張が和らいでいくのが分かり、アルゴンも安心した。ただジーメンスだけが不服だった。

「アルゴン、俺の鞘も濡れてる」

 テルルとアルゴンの間で鞘の先が僅かに水に浸かっていた。ジーメンスの鞘は刃から周囲を守るため、抑える為にあり、同時に服のようなものだ。実際に人の形をとれば鞘が服の形をとる。その為に鞘が濡れるのはジーメンスにとって心地の良いものではない。

 剣の形で身動きがとれないジーメンスは切に願うが、アルゴンの耳には届いていない。代わりにテルルがそっと鞘を水から出した。

「テルル、こんな奴なんていいのに」

 こんな奴呼ばわりされたジーメンスは機嫌が良くないが、今のアルゴンには伝わりはしない。そしてテルルの言葉が更にジーメンスの機嫌を悪くした。

「そんな、私の所為でアルゴン様の物が痛んでしまうなんて、駄目です」

 両手で頬を押さえてテルルはアルゴンを見上げた。

 アルゴンはテルルの言葉に首を振った。

「様なんて止めて欲しい。アルゴンと呼んでほしい、駄目かな、テルル」

 覗きこむようにしてアルゴンはテルルに訊ねた。

 大きな目を瞬かせ、テルルは大きく何度も首を縦に振った。

 アルゴンとテルルが水から上がったのは少ししてからだった。冷たい水が体温を奪い始めていた。

 アルゴンは荷物から布を取り出してテルルに足を拭いて今度こそ履物を履くようにと言った。それに従いテルルは白い足をアルゴンに隠れて拭い、大きさの合わない履物を紐で絞った。

 アルゴンも足を拭いて靴を履き、不貞腐れたジーメンスを小突いた。悪かったという合図のつもりだったが許してくれた気配はなかった。

 アルゴンとジーメンスの無言のやり取りを黙って見ていたテルルだが、アルゴンの準備が出来たと見ると駆け寄った。

「アルゴン、私からお願いがあります」

 見上げるテルルの目には先程までの笑顔にはない真剣さがあった。その表情に少しだけ驚いて、しかしアルゴンは何も言わずに頷いた。テルルは短く伝えた。

「私の父に会って下さい。アルゴン、貴方なら父も分かってくれる」

 突然、父に会ってくれと言われ戸惑ったがそれ以上に嬉しかった。出会ったその日だが親に紹介されるというのはアルゴンにとって早過ぎる判断ではなかった。むしろテルルが時間をかけず、回り道をせずに自分を確かめなかった事が心配だった。

 あまりにも短すぎる出会いで、もしもテルルを幻滅させてしまうのではという不安がアルゴンにはあった。

 アルゴンが思いをそのまま口にするとテルルは首を横に振った。

「そんなことありません。それに、父は私の結婚を急いでいます。きっと私の力の無さがそうさせているのです、だから先ほどのような強い者と一緒になれば父は安心なのです」

 先程アルゴンが帰還させた三本角は婚約者候補の一人だとテルルは告げた。

「でも、そんな事より私はアルゴンを紹介したくって」

 自分の言葉にテルルは顔を赤くした。父を説得したい以上に、アルゴンを自慢したがっている自分に気付いたからだった。

 アルゴンに無理を言っているのは承知の上だった。今日会ったばかりの女の言葉を、しかも悪魔の言葉を人のアルゴンにどこまで信じて受け入れてもらえるか、嫌われはしないか気が気ではなかった。それでもテルルは焦っていた。

 何度か瞬いた後にアルゴンはテルルの手を引いた。

 アルゴンに手を引かれた事と、何も言わない事の両方にテルルの心臓が跳ね上がった。全く違う二つの意味で緊張している。

「僕もテルルのお父さんに会ってみたい。連れて行って欲しい」

 少しだけアルゴンも顔を赤くした。どんな理由であろうとテルルの親が生きているなら挨拶をしたかった。それが早過ぎた所でアルゴン自身なんら問題はなかった。むしろ出来る事は早く済ませておきたかった。生き急いでいる訳ではない、だがテルルが他の誰かに取られる可能性は必ず潰しておかなければならなかった。

 自分だけが望んでいるのではなく、テルルも望んでいるとあってアルゴンは浮足立っていた。分かっているものの理性ではどうしようもない感情をアルゴンは心地良く感じた。

 そこに水を差す者がいないわけではなかった。

「アルゴン、お前は馬鹿だ」

 それまで黙って聞いていたジーメンスが喋った。静かで低い声にテルルは怯えた。

 まだ言葉を続けようとしているジーメンスをアルゴンは拳で強打し、強制的に黙らせた。

 激しい音にテルルは更に驚いたが、アルゴンの笑顔に少しだけ安心した。しかし、低い唸り声を上げるジーメンスを心配しつつ、テルルは表情を暗くした。

「ジーメンスさんの伝えたいことは分かります。そうです、私の父は人が魔王と呼びます」

 テルルの声は沈んでいた。出来れば言いたくなかったのだ。出会って間もない悪魔の女の父に会ってくれというのでさえ無茶だというのに、その父が魔王ならば無理難題を押し付けている事に他ならない。

「そんな事か。テルル、何も心配しなくていい」

 苦笑しながらアルゴンは笑った。

 その笑顔の意味がテルルには分からなかった。アルゴンが勇気づけようと笑ってくれたようにしか見えなかった。

「魔王なら何度も会っている。冷静に話し合えると思う」

 冷静に話し合えるというのは静かに会話が出来るという意味ではない、単に会話らしきものが成り立つという意味だとテルルが知るのは後だ。この時のテルルは露知らず、アルゴンの言葉がただ嬉しかった。

「アルゴン、有難う」

 瞳を潤ませてテルルは目を伏せる、瞬きをすると涙が零れ落ちた。頬を伝うそれをアルゴンの指がそっと拭った。アルゴンを見上げた拍子に再び涙が零れた。

 引かれた手を握り返し、テルルは跳ねるようにアルゴンを引いた。逃がさぬようにとしっかりと手を握り締め、木漏れ日の中を駆けていった。

 唸り声を上げているジーメンスをそのままに、アルゴンとテルルは森の奥、テルルの父親が居る場所へと向かった。

 テルルは道すがら父と自分の事を、アルゴンに語りかけ続けた。会えば否応なく争いになることは目に見えていたからだ。

 もしかすると、どちらかを失う結果になるかもしれない。テルルはそれだけは絶対に回避したかった。何度も魔王と会っているというアルゴンなら父もアルゴンも失わずに済ませる事ができるのではないかという希望的観測がテルルの内にあった。

 そうでなくとも父親に差し向けられた人間達が迫っていることは知っていた。今のままならいずれ父親は人間に討伐されてしまう、テルルがアルゴンと何処かに逃げれば、追いかけて居場所が分からなくなって逃げ切れるのではないかという考えがあった。

 しかし、アルゴンがそれを否定した。

「多分、テルルが思うように追いかけてはくれない。突然現れた魔王は共通して人を侵略するように仕組まれていた、自分でもどうしようもないと言っていた」

 アルゴンはテルル以上に魔王という存在を理解していた。何度も会っているだけあり冷静に分析することが出来ていた、それだけに何故出現し人を侵略しようとしているのかが分からなかった。

「父は優しく、無為に誰かを害するような者ではありませんでした。それがある日、様子が一変し、それこそ姿すら変わってしまい他の魔王の残党が集まる形で魔王へと押し上げられました」

 歩幅を小さくして勢いをなくしたテルルに合わせてアルゴンも隣を歩く。

 身近にいた父親がある日、突如として魔王に豹変してしまいテルルはどれだけ戸惑ったのだろう、そして差し向けられる人の恐怖に日々過ごしてきたのだろうか。自分達の行いにアルゴンは胸を痛めた。

 あの日、式場を逃げ出さなければテルルの父親に刃を向けていたのは自分かもしれない、そう思うと現状から抜け出したあの時の自分にアルゴンは感謝した。

 悪魔も姿形、少しだけ性質が異なるだけで同じ世界に生きているものなのだ。人以外の種とも敵対しているがそれは悪魔の一部、勝手に押し付けた想像で傷付けるべきではない。隣を歩くテルルを見ているとそう感じられる。

「テルル、もしかしたらテルルのお父さんと喧嘩することになるかもしれない」

 アルゴンの言葉にテルルは震えた。耳を塞ぎたくなる手でアルゴンの手を握り締め、顔を伏せるのを必死に我慢した。分かっている事だと言い聞かせても、他者の口から出た言葉に体は正直に怖がり竦んだ。

 強く握られた手を柔らかく握り返し、アルゴンは続けた。

「でも安心して、怪我をしても死んだりはしない。大丈夫、僕を信じて欲しい」

 変わらぬ笑顔にテルルは心が少しだけ軽くなった。

 アルゴンもはにかんだテルルの顔に心が弾んだ。初めての心躍る魔王との対峙だった。



 魔王・テトラは苛立っていた。

 人間達が勢いづいて自分の居城に迫っていたからだ。入って来た人間達を駆逐するために配下は出払い近くには誰もいない。いつもなら娘のテルルを呼び愛おしい声で歌でも歌ってもらうか、話し相手になってもらうのだが、今日に限って出掛けていた。広い部屋が更に広く感じられた。

 妻は昔にこの世を去っていた。もし生きていたならテルルの将来を共に語れただろう、時折そんな思いに駆られていた。

 しかし、テトラは今それ以上に抵抗し続ける人間をどうやって駆除するかに思いを馳せていた。人に虐げられた事は無い、ただ本能が汚らしい人間を殺せと命令する。

 破壊衝動に駆られ、本能のままに行動することに快楽を覚えた、同時に起こる罪悪感が最高の背徳感となり更なる快楽を与えた。

 どんな生贄がここまで辿り着くのか、殺意を温めながら待っていると背後から声がした。

「お父さん」

 テルルがやっと帰って来た。振り向くと、娘の隣に角も牙も羽も無い男が立っていた。

 まるで人のような男に今まで気付かなかった事に多少は驚いたが、気配を隠すのが得意な悪魔も多い、それに娘にまで気がつかぬほどだったとテトラは自分に言い訳をした。

 テルルは恥ずかしそうに服の袖を掴んで顔を隠し、もう片方の手で男の手を握り、愛おしい声で囁いた。

「好きな人を連れて来たの」

 耳まで赤く染め上げ、口を閉ざしたテルルにテトラは戸惑った。自分が選んだ強い者達からは嫌だと逃げ回っていた娘が、男を連れて来た。

 嬉しいが、まるで人のような男、決して猛者には見えない。そして娘を誰かに取られる損失感が父親であるテトラの身体を巡っている。

 見たこともない人のような男をテトラは睨みつけた。それに男は黙って、笑った。

「テルル、今までそんな奴の話なんてしなかったじゃないか。それにまるで人間のようだ」

 テトラの本能はこの男が人間だと叫んでいた。それを否定してほしいのか、肯定してほしいのか分からずとも確かめずにはいられなかった。娘が選んだ相手を確かめずにいられなかった。そして、テルルの答えはテトラの最も欲しくない答えだった。

「アルゴンはさっき私が襲われそうになった所を助けてくれた人、人間よ」

 躊躇いなくテルルは答えた。

 それに一歩前に出て人間の男は不躾に叫んだ。

「率直に言います、テルルを僕に下さい」

 テトラの殺意は瞬時に沸騰した。



 先程まで人間全般に向けられていた殺意、それとは比べ物にならない殺意がテトラの頭から爪の先まで駆け抜けた。

 怒号が広い部屋を包み込み、組み上げられた石が浮き、壁という壁が揺れた。テトラの身体も揺れ、膨れ上がり、怒りがそのまま形をとったような姿に変貌していた。小さな悲鳴を上げる娘すら目に入らぬほどテトラは興奮していた。その目にはアルゴンしか見えていない。

「テルル、安全な所に身を隠していて」

 嬉しそうなジーメンスを解放しアルゴンはテルルに促した。アルゴンの言葉に、揺れる壁に足を取られながらもテルルは入って来た路へと逃げ込んだ。

 動かないアルゴンへと猛然とテトラは襲いかかり床の一部を破壊していく。

 テトラの一撃をジーメンスと鞘で受け流し、その反動でアルゴンは自分から吹き飛び、天井を蹴った。勢いをそのままにテトラの左肩に剣を振りおろす。間髪おかずに左足を切り上げ、背後に回り込んだ。

「テルルを、お嬢さんを僕に下さい」

 再び叫ぶアルゴン、テトラは抜ける血の寒さ以上に沸き上がる熱さを感じた。それは憤怒に他ならなかった。本能は人間を壊したい、だけではなく、目の前のこいつを殺したい理性と一致していた。

 切られて重たくなった腕や足に構わずアルゴンを捕えようと全身を突き動かした。

「人間なんぞにやれるかああぁぁ」

 振り回した腕がアルゴンのいた場所を捉える、背中が切られるのと同時に床が波打ち、石が飛び跳ねる。石の中を跳ぶアルゴンに爪が及んだ。

 しかし、上着を引き裂いたものの肉には届かなかった。そして伸ばした手が切り上げられた。石と共に血飛沫が辺りに散らばる。それでもテトラは動く、圧倒的な力の差を見せつけられても諦めずに怒りを込めた技を手にアルゴンを追う。

 応えるようにアルゴンは訴えた。

「人だとか悪魔だとか心には関係無い」

 剣を鞘に収め、アルゴンはテトラの頭を殴りつけた。

 意識が吹き飛んだテトラはほんの一瞬だけアルゴンを掴もうと手を泳がせたが、届かなかった。

 倒れ伏したテトラを認めアルゴンはテルルを呼んだ。

 震えるテルルの肩を抱き、気絶しているだけだと呟いた。それでもテルルは土色の顔で震え続け、歯の根が合わず今にも気を失ってしまいそうだった。

 アルゴンが倒れそうになるテルルを支えていると、扉があったのだろう崩壊した壁の向こう側から息を切らして走ってくる者の気配があった。アルゴンは鞘からジーメンスを引き抜きそちらへ向けた。

 瓦礫を抜けてやって来たのは一人の男だった。服の端々が千切れ、重たい鎧には幾つもの傷があった。

 一瞬倒れたテトラと現れた人間の男を見比べ、アルゴンはテルルを無事な壁にもたれさせ男に歩み寄った。

 剣を構える男に魔王の血で濡れたジーメンスの柄を向けた。

「はい。魔王討伐おめでとう」

 頭の中が真っ白になった男にジーメンスを握らせ、代わりに腰にあった剣を引き抜いて鎧の胸当てを蹴った。男は来た方向にジーメンスを握ったまま転がり倒れた。

 事態が飲み込めない男をよそにアルゴンは脆くなっていた壁を殴りつけた。すると壁は音を立てて崩れ始め、通路の天井へと連鎖していく。それに慌てた男は急いで来た道を走り戻って行った。

「さぁ、これであの男が魔王討伐を成し遂げたんだ。テルルのお父さんはもう人間を差し向けられたりしない」

 呆然としているテルルはアルゴンが何を言っているのか分からなかった。

 男から抜き取った剣を瓦礫の中に放り、テトラの怪我の様子を確かめアルゴンは安堵の溜め息をついた。

「あの男がジーメンスを持って帰るだけで魔王を倒したのが自分だと言える。例え自分が倒したのでなくても魔王が倒されたその剣を持って帰れば十分な証拠だから。安心して、この程度の傷は魔王にとって大した怪我じゃない。暫くすれば怪我も治る」

 危うい足取りでテルルは倒れた父にしがみ付き、目に涙を湛えた。涙は目尻から、目頭から、頬を伝いテトラの上に幾つも落ちた。

「本当に、本当にもう父は人に襲われなくてもいいのね。また昔のように戻ってくれるかしら、昔のように笑ってくれるかしら」

 黙ってアルゴンは頷き、テルルの頭を抱いた。血の滲んだ服でテルルは抱きつき、嗚咽を漏らし、顔を埋めた。そんなテルルを名残惜しく感じながらもアルゴンは離した。

「今の内に逃げよう。テルルのお父さんは許してくれそうにないし、誰かに見つかると厄介だ」

 少し考えた後、テルルは頭の薔薇を手折り、テトラの手に握らせた。そしてアルゴンに強く頷きその手を握りしめた。

 アルゴンとテルルは互いを離さぬようにしっかりと手を握り、崩れかけた部屋から出た。



 去っていくテルルとアルゴンの存在を感じ取り、夢現の中でテトラはもがいた。身体は微動だにしない、閉じているはずの目にはテルルの薔薇が映っている。暗闇の中、その赤い薔薇だけが分かる。そして長いのか短いのか分からぬ時間の暗中で、人間の侵略などどうでもよくなっていった。今までの行為が虚しく、つまらないものだった。

 それに比例してテルルと逃げた男への感情は積もっていく。

「お前なんぞにテルルをくれてやるものかあぁ」

 怒りに身体を奮わせてテトラが起き上ったのはテルル達が去ってから数日が経っていた。傷も殆ど癒え、軽くなった体は瓦礫を跳ねのけてどこへともなく駆け出していた。



 ツァコから聞いた二人の純愛物語は、テルルとアルゴンが懐かしそうに語る昔話と同じ話だった。しかし、二人の惚気を挟んだ昔話より、ツァコの詩人のような語りの方が要領を得た。そしてツァコの話を聞いていなければ要領を得られなかっただろう。

 アルゴンとエクサの会話はあまりにも熟年夫婦には不釣り合いだった。