勇者様と魔王様

5.それって、一生がどうにかならないか





 その日もエクサは重たい体で両手剣を背負ったまま霧が立ち込める森の朝を走っていた。途中、どこかで見たような一人の女を見つけた。大柄ではないがそれなりの肩幅もあり、筋肉の質も悪くない、胸の豊かな脂肪のみが勿体ない。もう少し全体に脂肪があった方が持続力もあるだろうに。そこでエクサは気付いた、ヴァスティスと会った酒場で自分たちに賭けていた女。

 どこで女を見たのか思い出したエクサはそれで満足し、そのまま近くを通り過ぎようとした。

 しかし、威嚇するように女は石をエクサへ向けて放った。

 それを易々とかわし、そのまま走り去るエクサを女は追いかけ始めた。

 一体何が目的なのか、問いただしてもいいが連れの女が見当たらない事と黙って石を投げてきた事に用心し、エクサはそのまま振り切るつもりで走る速度を上げた。

 いくら慣れない体に疲労があろうともそう簡単に追いつかれるつもりはなかった。時々後ろを確認しつつ森を走っていると足元に一筋光る糸が張られていた。それを大きく飛び越えると着地した地点にナイフが幾つも突き刺さった。更に跳躍して避けると追って来ていた女が追いつき、足を止めた。

「どういうつもりだ、俺に何の用だ」

 髪を一つにまとめた女に聞くと、女は腕を組み逆に問いかけた。

「貴様こそアルゴン様の何だ、何故同じ馬車にいる。お前の目的は何だ」

 質問に質問で返され、エクサは眉を顰めた。

 この女の目的が自分ではなくアルゴンにあると知った以上テルルに危害を加えさせない事が重要だった。アルゴンには危害を加えようとしても、この女の腕では加えられないだろう。しかし、万が一にテルルに危害を加えようものならアルゴンは容赦しないだろう。それが数日間共に過ごしてきた結論だった。

 以前は勇者であっただけに、その強さは確かで、テルルに対する愛情が合わさればアルゴンは暴風に他ならない、テルルを守る中心以外の全てを破壊するだろう。

 アルゴンの腕力を見込んで女神の信者にならないかと一度誘ってみたが、「僕の女神はここにいるから」と簡単に断られた。それならば仕方がないとエクサも簡単に納得した。

 アルゴンの女神であるテルルを傷付けるかもしれない者を近づけたくなかった。

 その上、目の前にいる女はアルゴンから聞いていた女と当てはまった。会いたくない、苦手な相手だとも聞いている。

 なぜならアルゴンに求婚を迫っている者の一人だ。

「俺は単なる同行者だ。俺は答えたのだから答えろ」

 一歩踏み出して声を張り上げると、またナイフが足元に刺さった。ナイフは女とエクサの間に割って入るように飛んできた。

 刺さったナイフを見下ろし、飛んできた方向に目をやると連れの女が木陰に隠れていた。

「私はアルゴン様の婚約者だ。貴様に聞きたいことがある、答えてもらうからな」

 聞いていた通りの反応にエクサは口をヘの字に曲げた。この女はアルゴンの婚約者だと勝手に思い込んでいるらしかった、そして執拗にアルゴンを追っているのだという。

「アルゴンは既婚者だ。諦めて帰れ」

 エクサが教えてやると女は腕を解き、さり気なく構えた。

「妻が何人いようとも男には関係ない。それに、アルゴン様は仰ったのだ」

 何を、とエクサが問う前に女は勝手にアルゴンと出会ってからの一部始終を語り始めた。

 最初は自分が泥棒と勘違いして襲い、返り討ちにあった。話してみると自分の勘違いだった。しかし、アルゴンのその強さに惹かれて再び勝負を申し込み、再び負けた。その時にアルゴンが女に掛けた言葉が女の心を決めた。

「僕には絶対勝てないから、と仰られたのだ」

 どこが心ときめかせる台詞なのか、エクサには理解不能だった。しかしアルゴンのその言葉で女はアルゴンの妻になると決めたと言う。

 少しだけ照れて言う女に、確かにアルゴンも嫌気が差すとエクサも分かった。

 この女が追いかけて来ては苦手にもなるだろう、どうやって振り切ろうかエクサは呆れ返った頭で考えた。呆れている様子が顔に出たのか、女は怒った。

「貴様、分かったのなら協力してもらうからな。なんだ、その顔は」

 理不尽に怒る女はエクサを指差し、力ずくでも協力をさせようと大股で歩み寄った。近づいてエクサの胸倉を掴み上げると同時にエクサに顔を寄せた。

「何か文句があるのか」

 無茶苦茶な事を言っていると分かっていない様子の女に、エクサは慣れた手つきで女の肩に手を置いた。

 そして頭を少しだけ後ろに振って、勢いをつけて前に突き出した。見事に目から火花が散るような頭突きが当たり、女は体を反らした。その間に女の肩から手を離し、突き飛ばした。女は一瞬よろけたものの持ち直し頭を押さえて歯を食いしばった。

「文句だと、あるに決まっているだろう。このじゃじゃ馬が、アルゴンも迷惑だ」

 他にお前より強い男ならいるだろう、そう付け加えると女は手を振った。

「馬鹿が、アルゴン様以外にいる訳がない」

 そう開き直る女に詰め寄り、エクサは額を擦りつけるような距離まで迫った。それに怯まず、女は額を突き出して押し返してくる。

 女の言葉には嘘が無い。それだけに厄介だった。エクサは思案した。

「なんだ」

 エクサも決心した。

 押し黙り、険しい顔で額を擦りつけているエクサに痺れを切らした女が手を僅かに引いた。その瞬間を見逃さず、エクサは突き出された手を捉えそのまま放り投げた。大きく宙を舞った女だったが、着地すると同時に駆け出していた。

 下から突き上げるように振り上げられた腕、その肘を更に引き上げて女を上に押し上げた。エクサに腹を見せる形になった女は足を払われ仰向けに倒された。エクサは背にしていた両手剣を抜いた。そして地面を背にした女に黒い影が覆いかぶさった。

 重たい刃が唸りを上げて女の首に至る直前、止められた。

 一瞬にして死を覚悟した女は、自分の頭と首が繋がっている事が分からず動きを止めた。次に、心臓が動いていると知ったのは黒い影が自分の視界から消えてからだ。

 女が急激に動き出した心臓の所為で痛みを感じていると、連れの女が顔を覗き込んでいた。女は大丈夫だと手を上げた。

 未だ自覚はないが、女にとってはアルゴン以来の敗北だった。辺りを見回すとエクサの姿は無かった。既に立ち去ったのだと連れが説明した。

「私は、負けたんだな。そうか」

 ゆっくりと体を起して呆然としたまま女は呟いた。そして目を見開き、腕を振り上げ、馬車がある方向へと猛烈な勢いで走って行った。

 女が到着した時、丁度テルルとアルゴンが料理を器に盛っていた。土埃を上げて走って来た女を認めるとアルゴンはテルルを背中に隠し、止まるようにと声を掛けた。

 それでも女は走り、アルゴンの目の前で膝をつき、頭を下げた。

「今までのご無礼、お許しください」

 手の平に拳を叩きつけ、許しを乞う女にアルゴンは驚いた。

 一体何があったのか、何がそうさせているのか、皆目見当がつかなかった。アルゴンは驚き、目を白黒させた。

 女の声に驚いたのはアルゴンとテルルだけではない、馬車の中で荷物を探していたエクサも慌てて外に飛び出した。先程の女が膝をついている、理由は分からないが謝っている。ともあれ護衛役を買って出たエクサは間に割って入った。

 エクサを見て取った女は声を上げ、立ち上がった。

「私は決めました、アルゴン様は諦めます。本当は分かっていたんです。奥方様もいらっしゃるし、この一年間を見ていてその愛情の深さは良く分かりました」

 安堵の溜め息を漏らしたのはアルゴンだった。

 テルルはアルゴンの背中で訳も分からず首を傾げた。

「それは良かった」

 エクサは言葉を掛けて、女の肩を叩いた。

 その手を取り、女は片方の手でエクサに掴みかかった。それを表情そのままに内側から払いのけ、女が払おうとした足を浮かせて流した。女は確信した。

 額を突きだして、女はエクサに顔を寄せた。

「あなたを捕まえます。覚悟してください」

 女は挑戦的な笑みをエクサに向けた。

「よろしい。俺は魔王だ、それでも良ければお前の挑戦を受けよう」

 エクサは女の言葉を挑戦と取り、一歩だけ下がり、女が準備するのを待った。それに驚いたのは女の連れと夫妻だった。

「あの、エクサさん。多分、彼女はあなたを旦那さんとして捕まえると言っているのだと」

 アルゴンの服の袖を掴んだままテルルがエクサに伝えると、エクサは酷く驚いた。

 エクサの様子に女の連れも女の手を引いて呟いた。真意は伝わっていないと。

「魔王、私の夫には相応しい称号だ。魔王の妻の座をかけて勝負だ」

 逆にやる気が出た女は連れの女を下がらせ、腰に手を当ててエクサの正面に立った。

「勝てるものなら、やってみろ」

 女が素手で挑んでくるとみたエクサは背負っていた両手剣を鞘ごと外し、身を軽くした。拳を握りしめ、アルゴンとテルルから離れた。

 先程のテルルの言葉も忘れたのか、その表情は実に楽しげだった。久しく、消化不良を起こさずに済みそうな相手に、エクサは嬉しかったのだ。

 アルゴンはテルルと一緒に下がり、周囲が見えていない女とエクサから距離をとった。

「俺はエクサ、お前の名前は」

 拳を突きだすエクサに、女は腰に当てていた手を振り、握りこんだ手を見せて言った。

「魔王・エクサ、私の名はセルシウス。いざ」

 身を低くして女・セルシウスは一歩踏み込んだ。応えるようにエクサが走った。

 セルシウスの目の前で拳が唸りを上げていた。脇をしめて狙い澄まし腕の軌道をずらしつつ、エクサの顔を僅かにセルシウスの拳が掠った。

 未だ朝靄が消えぬ森の中、突然暴れだしたエクサとセルシウスを放置して、アルゴンとテルルは朝食の準備を再開した。

 セルシウスの連れも呼んで朝食の準備を進めていると、エクサが身体をのけ反らせた。次にセルシウスの体が高く宙を舞った。

 エクサがセルシウスを放り投げていた。

 空中で体勢を整え、セルシウスは着地したものの足が痺れた。無理に立ち上がろうと足腰に力を入れて勢いをつけたが、セルシウスの体は揺れ、途端に足を払われエクサの腕に落ちた。

 セルシウスが顔を上げると、エクサの余裕の笑みがあった。

「その足ではろくに動けない。セルシウス、お前の負けだ」

 足元が危ないセルシウスを小脇に抱え、丁度支度の終わった朝食へと向かった。抵抗を殆どしないセルシウスを連れの女に渡して、エクサは両手剣を拾い装着し直した。

 急遽朝食を五人分用意したテルルは嬉しかった。アルゴンと二人きりも好きだったが、それとは別に大勢で食べるのは好きだった。足早に旅を続けていた為に大勢で食べるという事は殆ど無かった、それだけに嬉しさは一入だった。

 自分達の分が用意されているとは思わなかったセルシウスはテルルから渡された食器を取るべきか迷った。

「テルルさんの御好意だ、受け取っておけ」

 エクサの言葉に、セルシウスは食器を手に取った。三人分を無理に五人分に分けた為か器が大きく見えた。

 口に含むと優しい味がした。

「美味しい」

 セルシウスの感嘆にテルルがはにかんだ。喜ぶテルルを見てアルゴンも頬を緩めた。

 エクサは先に水で口内を潤した。それから朝食を口に運び、素早く済ませた。

「お前は見所がある。妻は無理だが弟子にはしてやる、どうだセルシウス」

 そもそも俺は男でも女でもないし、そうエクサは付け加えた。

 エクサの言葉に喜んだセルシウスは口の中の物を慌てて飲み込み、水で押し込んだ。

 身を乗り出して目を輝かせ、セルシウスは訊ねた。

「本当か、嘘はないな。その言葉に偽りないな」

 黙ってエクサは何度も頷く。

 エクサの言葉にセルシウスは胸を高鳴らせた。何度も拳をエクサに突き出し、それをエクサは手の平で受け止めた。

 嬉しさを拳で表現するセルシウス、それを当然のように受け止めるエクサの行動はアルゴンの理解の範疇を越えていた。

「弟子は師匠を越えるものだ。必ず、必ず、越えてみせる。その暁には妻の座を貰うからな、エクサしっかりと空けておけ」

 顔を赤らめて告白するセルシウス。

 何故それで顔が赤くなるのかテルルは分からなかった。他人から見ると告白するっていうのは、こんな感じなのかしら、とテルルは急に恥ずかしくなった。

 あの時はアルゴンとジーメンスしかいなくて良かった、と今更ながら思った。

 突然顔を赤くしたテルルの髪を掻き上げ、その顔を覗き込むアルゴンの耳に蹄の音が届いた。





 馬の蹄の音だ、しかも一頭や二頭ではない。

 テルルの髪を名残惜しそうに放し、アルゴンは立ち上がり耳を澄ませた。こんな早朝に一体何があるのだろうか、しかも馬の脚が随分と速く、自分達が来た方向と同じ方向から来ている。

 アルゴンは自分を見上げるテルルに笑いかけ、様子を見てこようと歩き出した所で足音とぶつかりそうになった。

 数頭の馬がアルゴンの目の前を駆け抜け、速度を落としながら馬車を囲った。

 馬にはそれぞれ騎手が乗っており、殆どが軽い鎧を身に着けていた。その鎧に描かれた紋章にアルゴンは見覚えがあった。

 昔、その紋章の下で式を挙げかけた、忘れるには印象深過ぎる出来事だった。今はアルゴンの思惑通り、アルゴンが結婚するはずだった王女が女王となり国を治めている、そしてアルゴンは死んだ事になっている。

 どうしてその紋章を背負った兵達が馬車を囲むのか、注意深く様子を窺いつつアルゴンはその場で待った。

 馬車を囲む一人がアルゴンの前に進み出た。胸の飾りが隊長である事を示していた。

「突然で済まぬが、朝餉を邪魔するつもりはない。我々の質問に答えてもらえば立ち去る」

 馬上から息も荒く隊長らしき男はが訊ねた。

 それに頷くと、隊長は小さく息を吐き、呼吸を整えた。

「今現在、我々はある男を探している」

 続いて男の容姿を伝えるとエクサが当てはまった。しかし、探せばいくらでもある容姿で、囲んでいる兵らしき者達からも溜め息が漏れた。今まで何度か同じ事を繰り返したのだろうか、隊長が手を小さく上げただけで鎧を身に着けていない者が馬から降りた。

 馬の手綱を掴んだまま何やら呟き、手を後ろに回して砂のような物を取り出した。口を閉ざすと手の中の砂は赤く変色し、馬に下げた袋に砂を回収した。隊長に小さく頷き、素早く馬に跨った。

「朝餉の時間を邪魔して済まなかった。失礼する」

 隊長が手を上げ、引き返すように合図をした。それに馬車を囲っていた全員が動き出そうとした時、アルゴンが隊長の乗る馬の鼻先に鞘を振り下ろした。怯えた馬は身を翻し、乗っていた隊長を振り下ろさんばかりに上体を持ち上げた。

 驚くセルシウスにテルルを任せ、エクサは砂を取りだした者へ突進した。

「エクサ、逃がすな」

 必死に手綱を引く隊長の横っ面を鞘で殴りつけ、アルゴンは隊長を馬から落とした。そして腰に差していた抜けかけの剣を奪い取り、駆け抜けようとした一人の手綱を切った。それでも鬣にしがみついた兵は馬を急かせ、アルゴンの脇を抜けた。

 舌打ちと共にアルゴンは身を返して追い、馬ごと蹴り上げた。

 思わぬアルゴンの行動に、兵達は散り散りになって逃げ惑った。

 逃げる兵達の中から、エクサは砂を取りだした者を素早く馬から蹴落とし、次いで判断が遅れた隣の兵を掴んで引きずり下ろした。

 アルゴンとエクサの隙間を逃げた者をセルシウスは追おうとしたが、連れの女が止めた。

 馬が相手では追いつけない。

 アルゴンは諦め、捕まえた数人をロープで縛り上げた。

「アルゴン、どうしたの」

 テルルが怯えた様子でアルゴンの袖を掴んだ。その手を優しく包み、怪我が無い事を確かめてアルゴンは手を離した。

「困った事になった。多分、こいつらはエクサを探していたんだ」

 苦々しく顔を顰めてアルゴンは縛り上げた隊長を見下ろした。

「そしてバレた。確か砂の色をマナの量に反応させる術だった。マナの量から俺だとバレただろうな、魔王をするにはそれ相応のマナが必要だからな。いくらマナの量より肉体の鍛錬を目指すとはいえ、地上ではマナの多い方だ」

 済まなそうにエクサは項垂れた。

 それにアルゴンは首を振って肩に手を掛けた。

「それなら何とか誤魔化せるだろうけど、僕の顔がバレた。この顔には覚えがある、確かルーメンとかいう国一番の騎手だ」

 隊長の兜を外し、アルゴンは同意を求めるように首を傾げた。

 暫く沈黙した後、隊長は頷き頭を下げた。年齢に相応しくない白髪混じりの髪が苦労を物語る、隊長・ルーメンはアルゴンを見上げて喋りだした。

「お久しぶりで御座いますアルゴン様。王女、いえ今の女王陛下との結婚式から姿を消された以来ですか。よく、私なんぞを覚えておりましたな」

 アルゴンは困ったように頬を掻いた。

 縛られ、セルシウスの連れに刃を突き付けられ、下からアルゴンを見上げるルーメンは自分達が来た真意を語った。

 それはアルゴンが指摘した通り、魔王を探すものだった。そして、もしも見つけたなら必要以上に干渉せずに後方の部隊に連絡をし、本当に魔王かどうかを確認させる。魔王で無いならば振り出しに戻る。だが、魔王ならば見張りと連絡の部隊に分かれて指示を仰ぐ予定だった。

「しかし、部隊は我々を除いて二人。後方の部隊でアルゴン様達を監視しつつ連絡に走るのは無理でしょうな」

 冷笑を含めてルーメンは続けた。

「魔王が同行している勇者などありえない。アルゴン様、貴方は後方部隊も消すでしょう」

 身を屈め、ルーメンと目線を合わせ、アルゴンは黙ってルーメンの両耳を引っ張った。意外なほどに伸びるその耳を伸びるだけ伸ばすと離し、目の奥を見入った。

 それにルーメンは顔を顰めた。

「こうやって話をして時間稼ぎをするのが得意なんだ、こいつ」

 テルル達を振り返ったアルゴンは袖を掴んでいるテルル以外を見失った。エクサ達は馬車に戻り、朝食の続きを始めていた。

 それに頬を掻いて、アルゴンはテルルと一緒にエクサ達と朝食の続きを摂る事にした。

「うん、朝食前に終わった。朝飯前だって言える、よね」

 無理矢理話題を作ろうとアルゴンが片付けを済ませたエクサに喋りかける。

 まさにそれだ、とエクサは手を叩いた。残念ながら、答えようにもエクサの口には含んだばかりの水があった。セルシウスもアルゴンに激しく同意し、笑って何度も頷いた。

 満足気に笑ってアルゴンは少ない朝食をかき込んだ。

 その間にルーメンは誰も見ていない事を祈りつつ、腕を捻り、靴に仕込んであるナイフを取ろうともがいた。

 指先に目的の物が触れ、心の内で安堵の溜め息を零す。

 ルーメンはロープを切った後をどうするか迷った。走って逃げれば何人か逃げ切れるだろうか、いや相手は魔王と勇者。初手で間違えば誰も逃げ切れない。

 もう少しでロープが切れる時、ルーメンの足元にナイフが突き刺さった。

「どうした、ケルビン」

 セルシウスがナイフを投げた当人に問いかけた。

 ナイフを拾いに歩いたケルビンはルーメンの顔にナイフを這わせた。そしてルーメンの耳元で甘く囁いた、貴方の命はいくらだったんでしょうね、と。

「逃げそうだったので」

 それにはアルゴンが溜め息をつき、テルルと目を合わせた。テルルが手を出し、アルゴンは食器を渡し朝食の片付けを任せた。

 冷や汗で濡れた手の平からナイフをケルビンに奪われ、ルーメンはアルゴンが近寄る度に焦った。これから自分に対してどういった処理が行われるのか想像するだけでも身震いがした。

 近寄ったアルゴンはケルビンからナイフを受け取り、視線を上下させた後、ケルビンに渡した。

 アルゴンはルーメンの目の前で膝を曲げ、視線を合わせた。

 それを睨むことで、ルーメンは必死に視線を合わせまいとした。目が泳いでいることは自覚している。覗きこんでくるアルゴンの目からは何も感じ取れなかった。

 以前からこの男はそうだった、ルーメンの頭の中では走馬灯のように過去が巡っていた。

 初めて会った時、アルゴンは魔王・モノを討伐した直後で手に入れたばかりの剣の手入れをしていた。その時、未だ部隊に配属もされていなかった。初めて見た勇者はとてつもなく恰好良く、憧れとなった。

 二度目は今の女王、王女に春色の手紙を渡すように命じられた時だった。

 魔王討伐の二度目、戦地に赴いていたアルゴンに手紙を渡すのはとても大変だった。戦場で開封された手紙は返信もされぬままだ。文章は読めても書くのが難しい、とアルゴンは次に会った時に伝えておくとだけ言った。それでどれ程王女に泣きつかれたか、今となっては懐かしい。

 何度も王女の伝令に走り、その度にアルゴンと会った。そうこうしている内に最速の称号を手に入れ、国一番の部隊に配属された。それをアルゴンは祝ってくれた。

 いつでも、相手を見る時は必ず正面から目を覗き込む。その何も感じさせない目は純粋に違いなかった、しかし逆に何もかもを見抜かれているようで恐ろしかった。

 アルゴンは今もそうしている。

「ねぇ、エクサ。魔王なんだから都合の悪い記憶を消したり出来ない」

 ルーメンに向かったままアルゴンは後方のエクサに問いかけた。アルゴンの問いに口をヘの字に曲げてエクサはアルゴンの直ぐ後ろに歩み寄った。振り向いたアルゴンに、否定の意を示し、エクサは腕を組んだ。

「俺はそんな器用な事は出来ない。さっきも言っただろ、マナの鍛錬より肉体の鍛錬だ。記憶を飛ばしたいだけなら、殴ればどうにかなるんじゃないか。昔は成功したぞ」

 エクサの意見にアルゴンは表情をそのまま、悩んだ。

「それって、一生がどうにかならないか」

 軽く拳の握り締めをしていたエクサは沈黙した。そして目を反らした。

 記憶を消される画策をされているルーメンは慌てた。エクサの行動がアルゴンの指摘を肯定しているように見えたのだ、少なくとも否定をしているようには見えなかった。

 エクサが魔王だということは同じく捕まっている魔術師の術で確信している、その魔王に記憶を消される勢いで殴られれば容易に身体から生命は抜け落ちるだろう。死は覚悟しているつもりだった、しかし記憶を消されるついでに残る生を消されるのは嫌だった。

 他に誰かいないのか、アルゴンは視線をセルシウスとケルビンに向けるが、セルシウスは拳を握り、エクサと同じように殴って済ませようと笑っているように見えた。ケルビンは否定の意を静かに示した。

 視線をルーメンに戻し、アルゴンは溜め息交じりに謝った。

「ごめん、脳筋ばっかりだった。今すぐ僕の事を忘れてって言っても無理だから」

 あえて言葉を切り、アルゴンは立ち上がった。

 ルーメンは心臓に冷や水を掛けられた気分だった、アルゴンが自分の首を落としにかかると思ったのだ。

 しかし、その時は訪れなかった。

 アルゴンは片付けを終えたテルルを呼び、何事かを呟いてルーメンを指差した。テルルは頷き、ルーメンの目の前で人差し指を回し始めた。

 ルーメンを含め、捕まった者達にそこから先の記憶が無い。