勇者様と魔王様

7.身体は束縛されても、心はそう簡単に束縛できるものではありません





 第一陣が引いた直後、馬車を囲むように全方位から少なくない人数が現れた。

 身軽な格好をした者もいれば、重たい鎧を身につけている者もいる。そして、描かれた紋章が追い剥ぎではないことを物語っていた。よく見れば朝食の邪魔をした者も一人混じっていた。

 後方部隊が追いついたのだ。

 アルゴンは後方部隊に追いつかれてもまだ時間があるとふんでいた。後方が探知部隊ならば多くの戦力はない、場所が知れることで数日の内に本格的な討伐部隊が編成されるだろうと高を括っていた。

 しかし、今馬車を襲っているのは明らかに探知部隊にしては多過ぎる戦力だ。まだアルゴンの正体も知れていない、魔王の出現を確認しに来ただけの数ではない。しかも、魔術師らしい者が見えない、未だ探知を担う者が隠れているはずだ。

 エクサは魔王で戦いの女神の天使だ、単独ならばこの局面も切り抜けるだろう。セルシウスは一対一で真価を発揮する性質だ、多人数を相手にし続けるには無理があるはずだ、ケルビンがそれを補うとしてもこれだけの人数相手では長くはもたないだろう。そして何よりもテルルに怪我をさせる訳にはいかない。

 アルゴンだけなら一点突破をするか何も考えずに全てを薙ぎ払う事も出来る、アルゴンはテルル一人なら守り抜いてそれが出来る。

 しかし、今はそのどれでもない。それぞれの背後に仲間がいる。そして、テルルの体を思うなら馬車が要る。

 甘かった、そうと考える他ない。アルゴンはケルビンに手綱を任せ、テルルに笑いかけてから馬車を降りた。

 前方をエクサが、馬車の右側をアルゴンが、背後をセルシウスが守る形をとった。それでも、馬車で逃げ切れるとは到底考えられなかった。こんな時にアルゴンは苦笑してしまった。

 以前は味方だった国が敵に回るとこれ程嫌な存在になるのかと。

「もっと遅く来ればいいのに」

 誰彼ともなく投げかけたアルゴンの言葉に返事があった。

「なら、もっと早く国を抜ければよかったでしょう。我々は別段速くありません。設置していた転移の陣に先回りさせていただいただけですから」

 その声に聞き覚えがあったアルゴンは酷く驚いた。

 声の方向を見ると、やはりアルゴンには見覚えのある顔だった。

「驚いた、モノじゃないか。成程、僕や魔王じゃなくて、この人数は君の為か」

 アルゴンは軽くモノに手を振り、納得した。その場で納得したのはアルゴンとモノだけだった。

 そして、アルゴンは頬を掻いて、誰も傷付けない事を諦めた。

「私は一介のしがない悪魔です。こんな数を充てられるハズないじゃないですか、と言いたい所ですが半分は当たりです。でも、もう半分は私がそこのエクサさんを魔王だと教えた所為だからですね」

 モノの言葉にエクサの目が光った。モノに見覚えが無いわけではない、確かに魔王の元配下達を集める途中で見つけた悪魔、是非配下にと言った悪魔だった。それが何故、人の側に立っているのかエクサには分からなかった。

 もし、エクサを魔王として知らしめようとしての行為ならば、それは知名度をあげようとしているエクサにとっては有難いことだが、モノの表情には別ものがあった。

「どうりで対応が素早いはずだ。人の不安を利用するのは悪魔の十八番だからな」

 褒めているのか皮肉っているのか、曖昧な笑いを口元に浮かべてエクサは肩越しにモノの視線を受けた。何故かモノが謝っているようにエクサは感じた。

「エクサ、それは違う。モノはそういった事は面倒臭くてやらないんだ、悪魔だけど鍛冶屋さん、技術屋さんだから。特に悪魔を材料にした魔剣を造らせたら大陸で一番。試してきた僕が保証する」

 アルゴンが襲撃に加担したモノの弁明をし、エクサは奇妙な胸騒ぎがした。

 どうやら親しい仲らしいが、両者の気配が殺気を含んできた。仲間同士で手を合わせるような殺気ではない。どちらかの生が終わるまで行われる炎のような殺気、燃え尽きるまで消えない気配、表面上は笑っているだけに寒気がした。

 それだけではない。モノ、鍛冶屋、悪魔、それはモノ自身から聞いていた。鍛冶屋の悪魔にアルゴンがこれだけ緊張している理由が分からない、尚且つ、喉まで出かかった答えが渦巻く。エクサは答えが口から吐き出される直前に飲み込まれた。

 エクサ自身は歴代の魔王に興味はなかった、だが仲間の天使が「知っておいて損は無い」と無理に押し付けてきた資料の中にはモノの名前があった。特に、武器を造っていた魔王だけに覚えていた。

 この国に現れた魔王。悪魔を素材とした剣を鍛える鍛冶屋、正確には悪魔に剣の機能を与える。初めてアルゴンが討伐した魔王。アルゴンに魔剣・ジーメンスを譲った当事者。

 討伐されたはずの魔王が何故ここに居る、目的は何だ。

 熱を帯びてきた頭を押さえ、エクサは向かい合う元・魔王と元・勇者を見た。見えない火花を宙で散らせていた。

 しかし、魔王ならば何故探知に引っかからずにいる。その答えもエクサは持っていた。突然出現する魔王の特徴は急激な成長としか云いようのないマナの保持量の急増、討伐後のマナの離散量の激しさ。それは投与による一時的なマナの増加に近かった。

 モノもその類なのだろう。モノ自身は魔王と呼ばれる程のマナを有していないのだ。想像からするにテルルと同様、いやテルルのような角さえ持たない、人に程近い者なのだ。

 エクサは重たい両手剣を肩に引き上げてアルゴンとモノの間に割って入った。エクサは自分がいた位置へ移動するようアルゴンへ示す。

 すると、モノが困ったように目を瞬かせた。

「まさか、片手が封じられた状態で相手をするつもりですか。そんな重たい剣を担いで」

 馬鹿にしているのではなく、心の底から心配したようにモノはエクサへ言葉を掛けた。

 モノの指摘は間違っていない、両手剣は重たいだけに破壊力はあるが、同じ理由で行動が遅れる。

 エクサは黙って馬車の車輪の盾となるように両手剣を地面に突き刺した。ついで鞘も外して落とした。

 術のかかった拳を握りしめ、エクサは軽く持ち上げてモノに突き出した。

「ご不満だろうが、重たい拳でお相手しよう。アルゴン、お前は守るべきものを守れ」

 重たい武器を捨て去り、素手で戦おうというエクサに馬車を囲む兵は驚いた。両手剣に比べれば拳の痛みなど小さく、弱い。片手だけでも両手剣を振り回されれば脅威に違いないが、拳では高が知れている。

 セルシウスとケルビンも周囲の兵と同様に驚いた。肉と骨の拳が、鉄の鎧を相手にどれだけ通用するかを良く知っていただけに剣を棄てる選択は無かった。馬車の荷台でセルシウスとケルビンには見えないが、エクサがモノという者に唆された様子ではない。セルシウスは、アルゴンが無理にでもエクサに剣を持たせるように願った。

 だが、アルゴンはエクサがいた場所へ直ぐに現れた。

「こっちは任された」

 馬車に背中を向けている者同志、見えるはずも無いのにアルゴンはエクサに手を振った。自信ある言葉に周囲の兵は表情を険しくし、逆にセルシウスは安堵した。

 アルゴンは強い、そしてエクサも。エクサは魔王なのだ、何度も頭の中で反芻しセルシウスは二人を信じた。

 木の上からエクサへ放たれた矢を合図にアルゴンが動いた。エクサは降る矢を叩き落とし、その場から動かず迎撃に努めた。

 モノの後ろに隠れていた一人が長い剣を突き出し、上方から二人が剣を振り下ろしつつ落下してくる。

 最初にエクサの射程に入ったのは上方から落下してきた一人だった。頭に剣が触れる直前に刀身を殴り、勢いそのままの反動で持ち手の体へ拳を突き込んだ。鎧の胸部に拳の跡が残り、一部は裂けた。

 上方から落下しているもう一人は、それに一瞬体を固くした。

 エクサはそれを見逃さず、空中で体を固くした一人から剣を奪い取った。剣の柄を握り、持ち主は邪魔だ、とばかりに蹴飛ばす。地面に叩きつけられる直前に仲間に抱きとめられたものの、鎧の肩部分が抉り取られたように裂けていた。

 正面から直線的に来る剣を右手で上から打ち下ろした。刃の破片が散らばり、エクサの足元で光った。ゆっくりと、エクサは奪い取った長い剣を左手で握り直した。

 足の止まった正面の兵に頭突きが入る。よろけ、モノにぶつかったその兵をモノは優しく後ろの兵へ渡した。

 三人で一斉に仕掛けたはずが、二人の武器と鎧だけではなく、自信が素手の相手に打ち砕かれ、一人は手にしていた武器を奪われた。しかも、相手は魔王といえども片手を封じられている状態だ。モノを取り押さえる為に城で指折りの兵を加えているが、実力に歴然の差があった。

「素手だからといって遠慮することはない。お前達の役目だ、役目を果たしてみせろ」

 横目で無傷の兵を眺め、エクサはわざと死角を作った。それでも金属の鎧を一撃のもとに裂いた魔王に怯え、兵は一歩、二歩と下がった。

 まだ来ない。確信したエクサは手に入れた剣の具合を目で確かめた。まだそう使われていない、新しい刃は刃こぼれ一つない、質も悪くない。しかも、魔法を帯びており切れ味が強化されている。反りの無い真っ直ぐな剣は歪みも無かった。

 それをエクサは馬車の向こう側に放り上げた。

「丁度良い品が入った、受け取れアルゴン。俺は使わん」

 宙を舞った剣は地面に突き刺さり、直後にアルゴンが走り抜ける間に引き抜いた。鞘だけで剣と打ち合っていたアルゴンには多少なりとも有難かった。

 重心を確かめ、切れ味を試すように、アルゴンは向かってくる矢を切り落とした。刃の硬さと届く範囲を確かめ、車輪に近づく一人の鎧の隙間に優しく刃を滑り込ませ、皮膚の一部と鎧の繋ぎを切り上げる。独特の光が散った。

 戦意を損失させるのがアルゴンの目的だった。

 敵であろうと可能な限り傷付けたくなかった、それが甘いのだと自覚している。そんな甘さが自分では気に入っていた、そしてテルルも好きだと言ってくれる。ただ嬉しかった。アルゴンはテルルへの気持ちを何度も確かめた。

 だが、その甘さを今許すことは出来なかった。

 今のモノはアルゴンが知っているモノとは姿が違う。しかし直ぐに分かった。角が無くなり、翼が消え失せてもその気配は同じだった。モノ相手に手加減をする余裕は無い。

 今はエクサが対峙しているが、エクサは片手を封じられているとモノは言った。いくら魔王で、戦いの女神の天使だといえ、片手のエクサが剣を持ったモノに勝てるとは限らない。以前に戦った時とは違うが、モノの剣技は侮れない。

 モノとエクサの様子を窺いながら、アルゴンは確実に兵の鎧を剥いでいった。

 徐々に戦意と装備品を失っていく兵達はセルシウスに矛先を向けた。エクサとアルゴンでは相手にならなくともセルシウスならば数で圧倒できるとふんだのだ。

 そして実行に移した。

 最初に矢が放たれた、それをセルシウスも避けつつ、馬車の中へ入らないように打ち落とした。

 その隙に四人が駆けた。馬車の前方にいたケルビンは荷台の中に滑り込み、セルシウスの背後からセルシウスに当たらないようにナイフを投げ、相手の勢いを削ぐ。だが、兵の足は止まらない。

 最初の一人はケルビンが放ったナイフの一本が首に刺さり、よろけた。そこへセルシウスが足払いをし、転がした。二人目はセルシウスの肩に傷をつけたが、渾身の拳が鼻へ当たった。三人目と四人目が荷台へ手を掛けた。

 ケルビンは短剣を腰から引き抜き、構えた。瞬間に三人目に押し倒され、四人目が奥にいたテルルを見つけた。

 兵の険しい顔にテルルは息を呑んだ。

 ケルビンの後ろに隠れていたテルルを見つけ、剣を突きつけようとした瞬間に兵は横から掴まれた。

 馬車の中には他に誰もいないと思っていた兵は少なからず安心していた、しかも見つけた相手はか弱く見える女が一人。守られている状況から考えてこの女を押さえてしまえば現状を制圧できるはずだった。

 兵を掴んだ腕は荷台の幕を突き破っていた。

 兵はそのまま荷台から引きずり出され、地面に頭から叩きつけられた。体が宙を舞っている間、兵が見たのは憤怒を浮かべたアルゴンの顔だった。目が合った瞬間、兵は恐ろしさのあまりに失神した。

 それはアルゴンの正面に立っていた者達にも言えた。掴みだされた兵のように、近くで直視した者はいなかったが、足が竦んで動けなくなった者が大半だった。少数の部隊だ、恐怖が全体に伝播するのに時間はかからなかった。

 唯一、モノを除いて。

 ケルビンが圧し掛かっていた一人を跳ね退け、荷台の外へ放り出した時には殆ど勝負が決まっていた。

 鎧が裂け意識の無い者、武器を砕かれた者、恐怖により体の自由を奪われた者ばかりだった。

 それに溜め息をついて、モノが倒れている一人から無事な武器を借り、曲がり具合を確かめて振った。片手で扱う長い剣だった。

 目の前で腕を組んで立つエクサに、手の平を見せて待つように示し、モノは武器の重心と刃の角度を目で確かめ、指で優しく中心をなぞった。

 エクサは黙ってモノを待った。

「お待たせしました」

 ゆっくりと前に進み出たモノに、エクサも腕を解き、拳を握りしめた。

 対峙するとエクサは心が躍った。剣を持つ前と表面は変わらない、しかしエクサの前に出たモノは異常な雰囲気を纏っていた。剣術を極めた者も少なからず女神の信者にいる、それとは何処か違う乱雑さが含まれ、冷たいとも熱いともつかぬ鋭利さを持っていた。

 知らぬ内にエクサは笑っていた。

 笑みを零すエクサを見て、モノも笑った。

「顔、ニヤけてますよ」

 可笑しそうにモノが指摘するとエクサは慌てて頬を張り、気を引き締め直した。

 その様子があまりにも可笑しく、モノは体を曲げて笑った。顔を上げて目に溜まった涙を指先で取り、気を取り直してモノも頬を張った。

 そして目が変わった。

 振りかぶるではなく、自然に斜めからエクサの腕に刃を這わせた。その日、初めてエクサは血を滴らせた。刃に合わせてエクサは両手の平で押さえていたが、通り抜けていた。押さえた手には一切傷が無い、エクサにとってはまさに刃が通り抜けたようだった。

 エクサは身震いした。

 楽しくて、愉しくてたまらなくなった。

 今日は女神が与えてくれた幸運に感謝した。今朝もセルシウスは楽しませてくれた、そして今は目の前に工夫も無い剣で身体に傷を付けたモノ。エクサの中で今までの鬱積が消し飛んでいた。

 同時に理性の一片も弾け飛んだ、血が熱くなり、肉に巡るのが感じられる。未だに順応しきっていない肉体だが、確かに精神に呼応している。

 滴る血が止まり、風もないのに髪が揺れるエクサは心底笑っていた。

 エクサの変化を静かに観察していたモノの視界からエクサは突然消えた、視線で探すよりも先に肌が感じた。

 目が動くよりも早く体が動き、モノは両足を上げて前へ倒れ込むようにして跳んだ。目がやっと体に追いついた。

 直後に風のような勢いで薙ぐように足が通り過ぎた。

 上下が反転した世界で、モノは口元に笑みを浮かべたまま地面に伏すような形で足を延ばすエクサを見た。次いで、そこから体を無理矢理反転させて起こし、宙で身動きの取れないモノの体に爪先が突き刺ささるのを感じた。

 痛みが背に抜け、モノは荷台のある方向へ飛んだ。馬車にぶつかる直前にエクサが地面に突き立てていた両手剣に背中から当たった。無理に体を捻り、背中から当たったが痛みは貫通していた。

 モノは地面に刺さっていた両手剣の柄を掴み、逆手で体を持ち上げた。直後、両手剣の手前の土が跳ねた。エクサが拳を突き下ろしていた。地面に拳以上が抉れ、広がり、その力を示しているようだった。

 剣の柄で逆立ちをしているような形となったモノは足を振り下ろし、エクサの頭上に落ちるつもりだった。

 それは易々と回避された。

 エクサの両手剣を捨て、持っていた剣を下から振り抜き、避けたはずのエクサの顔には直線が走った。それも腕の傷同様に直ぐ消え去り、モノの僅かな隙に右手を叩きつけた。しかし、それはモノの体を僅かに掠っただけだった。

 効果は劇的だった。

 エクサの右手はモノに触れた部分から重たくなった。反応が一瞬遅れたエクサに、モノは布を素早く巻きつけ、引き倒した。

 思いもよらぬ事にエクサはモノの方へ倒れ込んだ。途端に体が硬直した。抵抗しようとした足もモノを蹴った方が言う事をきかなくなった。

 地面とエクサに挟み込まれる前にモノは横へ抜け、エクサへ巻きつけた布を解いた。伏したエクサを横目に立ち上がり、モノは深く溜め息を吐いた。

 必死に体を起こそうとするエクサは唯一自由に動く目でモノを睨みつけた。

 額の汗を拭うような真似をしてモノは十分に距離をとり、服の下から布を落とした。布にはエクサの左手を重くしている模様があった。

「悪く思わないでくださいね。そもそも勇者と魔王が共闘している方が反則なんですよ、これ位のハンデが無いとどうやって勝負しろっていうんですか。ちなみに、これは転移する前に布にかけてもらいました。触れても大丈夫なように聖衣着てるんですよ、重くって嫌になります」

 そう言いつつ、モノは服を一枚ずつ脱いでいった。上着を一枚、外しきれなかった布、見るからに刺繍が重たそうな聖衣、それらを脱ぐとモノは頭を振って髪を撫でつけた。

 モノが服を脱いでいる間にエクサは肘を使って体を反転させ、かろうじて動かせる片足で上体を起こした。

 一瞬でも気を抜けば全く身動きが取れなくなる体を恨んだ。体を持ったばかりに他の神の術に対して抵抗力も減り、モノが体に巻いた術にすら気付けなかった。今ここで無理にマナを隠すのを止めても良い。それでも術の効果は消えないだろう。一時的に打ち消した所で後から反動が来る、その時は完全に体が動かなくなるだろう。

 神の使い、天使としての性を表せば術の効果は薄れ簡単に術は消えるだろう。しかし、女神との約束、職務の遂行、それを違えるわけにはいかない。

 それに、と思考を繋げるエクサが首を動かすと、身軽になったモノの前にアルゴンが立っていた。

 手の平を向けてモノはアルゴンに待つように示した。

「ちょ、ちょっと待って下さい。さっき蹴られた腹がひっじょうに痛くってですね、血反吐が口から出そうなんですよ。もう吐いちゃいますから待って下さい」

 言うなりモノは屈んで口を開けると真っ赤な液体を吐きだした。指を突っ込んで掻きだし、手の甲で口元を拭った。大きく深呼吸をしてから立ち上がり、自分の血の付いた手で剣を握り直した。

 剣を突き立て、杖代わりにしてアルゴンに向き合うと口をヘの字に曲げた。

「未だ腹痛が激しいのですが、手加減してくれませんよね」

 アルゴンも剣を地面に突き立て、頬を掻いて考え込んだ。暫く考えた挙句に剣を引き抜いて真っ直ぐモノに向けた。

「嗚呼、こんな乙女に向かって非情過ぎます」

 モノの愚痴をアルゴンは素早く否定した。

「いやいや、モノは子供いるから乙女じゃないし。さっきまでエクサ相手にあれだけやっといて、どっちが非情か分かってるから」

 完全に否定されたモノは静かに溜め息を吐いた。と、同時に片手で口を押さえた。

 再び体を曲げて屈み、口から何度も息を吸い込んで吐き出した。押さえた口からではなく、鼻から血が伝わりモノの顔を汚した。

 あまりに苦しそうなモノの姿に思わず背中を擦ってやりたくなったアルゴンだが、我慢した。

 暫くして、落ちつきを取り戻したモノは腹痛で体を曲げたくなる衝動を抑えてアルゴンに向かった。

 剣を両手で持ち、顔を自分の血で汚してモノは一歩前へ踏み出した。一瞬、目を左右に泳がせ、確認した上で大きく後ろへ飛んだ。モノを追おうとしたアルゴンが踏み込む直前、兵達との間を光の壁が走った。

 光に遅れ、ケルビンの放ったナイフはモノへと飛んだ。それは光の壁に当たると硬質な音を立てて跳ね返った。

 四層になる光の壁は円形に馬車ごとアルゴン達を取り囲み、兵達と完全に隔てた。

 アルゴンは顔を顰めて壁へ垂直に切っ先を突き立てたが、壁は難なく刃を弾いた。

 それを見たセルシウスが目の前の壁を力任せに拳で壁を殴った。手に硬いのか柔らかいのか分からない感覚を受け、セルシウスは痺れた拳を引っ込めた。

 光の向こう側でモノがその場に座り込み、口元の血を何度も拭っているのが見えた。モノの向かいで両手剣を背に座り込んでいるエクサは苦々しく口を開いた。口が利けるまでに他の神の術を後退させる事が出来たばかりだった。

「時間を、稼いだな。俺を抑えてからのマナ集束が激しかった」

 エクサは薄々感じていた。転移の術、探知を担った魔術師が攻撃に参加せず、離れた場所で着々と壁を作る準備をしている事を。それでもエクサが身動きの取れる時には未だ時間がかかるように感じられた、それがエクサの動きが取れなくなった途端に術の動きが激しくなった。術に必要とされるマナを集めるのには相応の時間がかかる、それはモノが動き出してから速くなり、エクサが術に絡められてから更に速くなった。

 モノがこの状況で服を脱いだり、腹痛を訴えて血を吐いたり、アルゴンに手加減を頼むような素振りを見せつつも戦う意思を示し、時間を稼いだのは完全に準備が済むまで待ったからだろう。一度剣を交えれば、いつ十分な距離が取れるか分からない。

 この光の壁は容易に崩れない。特に、アルゴンが云う「脳筋」、つまり頭の中まで筋肉で出来たような奴ばかりでは魔術師の術は破れない。力だけではどうにもならないからだ。

 体を傷付けてさえもモノがエクサの自由を奪った理由がエクサにはようやく分かった。

「よく分かったな。流石に魔王とだけでも言っておこうか」

 エクサが横目で声がした方向を見ると、破れた兜を小脇に抱え、肩の無い鎧を着けた男がいた。胸の飾りから探知部隊の隊長らしかった。兜をエクサに破られ、鎧をアルゴンに剥がれたらしかったが、自分の足で立っている。

 四層にもなる光の壁が圧倒的有利だと考えているようだった。そして、それは正しい。

 視線をモノに戻して、エクサは口を閉ざした。エクサは肉体的疲労よりも精神的疲労が激しかった。術を施した者の余程信仰心が強いのか、エクサの女神もしくはエクサ自身に余程恨みがあるのか、効果は簡単に消えてくれない。

 今すぐに術の大本である神を殴りたくてエクサは拳を握った。

「今すぐ術者を殴りたいって顔してるね」

 エクサの視界の端でアルゴンが言った。

「いや、今すぐに術を作った神の澄ました顔を殴りたい」

 大笑いしたのはモノだった。口内の血を撒き散らしながら苦しそうに笑った。腹を抱えて、涙を浮かべて、苦しく笑っていた。一通り笑い終わったモノはその場で転げ回った。笑ってか腹痛か、判断が出来なかった。

「誰か止めてやれ、笑って痛みを誤魔化そうとしているだけだ」

 見るに見かねたエクサが未だアルゴンの恐怖から抜け出せない兵達に命じた。足が震えていた兵達は驚き背筋を伸ばし、エクサの言葉に従い転げまわるモノを止め、後方の衛生兵を呼んだ。現れたのは数人の白い装束に身を包んだ者達だった。

 エクサを苦しめている神に仕える者だと、モノが身に着けていた聖衣と同じ刺繍から見て取れた。

 思わず殴ってやろうかと、拳を無理矢理持ち上げたエクサに衛生兵達は怯え、しかし光の壁の優位性を認めてその場でモノに治療を施した。

 素早い治療を受けてモノの呼吸は落ち着きを取り戻しつつあった。

「エクサ、素朴な疑問だけど悪魔に神の治療を施したらどうなる」

 光の壁に額を当て、アルゴンは後方のエクサに問いかけた。

 アルゴンの声は好奇心に満ちた子供の声のようだった。今まで誰かに聞いただろうに、今ここで聞いている、エクサの口からその答えが聞きたいのだろう。今まで聞いた答えと同じかを確かめたいのだ。

 アルゴンの背中は、エクサから見て心躍っていた。

「信仰する神に依る。当事者が信仰する神なら治療は受けられるし、嫌なら拒絶して傷を受けるだけだ。どちらでもなければ、それなりの治療が受けられる」

 神の治療と言うのは、神頼みの一つで祈りを捧げて早急に治療を行うものだ。それは傷の治療から死者の復活まで幅が広く、信仰心と願った者の実力、何よりも当事者の生命力が治療の要だ。神の力のみで治療する神もいれば、肉体を活性化させて体に治療の手助けをさせる神もいる。エクサの女神は後者だ。

 エクサの答えに戸惑ったのはモノの治療をしていた衛生兵だった。彼らは包帯を巻いたり、薬を飲ませたり、と祈りを持つ者が重症者へ緊急に行うべき処置をしていなかった。それは、モノが悪魔だと知り、祈りによる治療が出来ないと信じていたからだった。そうでなければ、今ここでモノの息の根を止めようとしている。

 衛生兵の一人が口を開く前にアルゴンが更にエクサへ訊ねた。

「昔、仲間に聞いた話とは違う」

 額を赤くしたアルゴン、心配してか様子を見に来たセルシウス、がエクサの両隣に座った。それを狭く感じながらエクサは答えた。

「お互いに信仰する神の仲が悪ければ殆ど、確実に怪我する。特に人が悪魔と呼ぶ存在の神と人が信仰する神がそれだ。だから怪我をする。アルゴンもテルルが嫌う相手から手当てされたくないだろう、それと同じだ」

 アルゴンは大きく、激しく頷いた。

 体に力を入れて、エクサは身を起こしたが直ぐに力尽きた。

 術の元となっている神はエクサ自身もしくは女神に恨みがあるらしい、それだけは分かった。そうでなければエクサと女神に恨みがあるのだ、術の力が段々と強くなっているのがその証拠だった。術者の力だけなら力は弱くなる一方だが、余計な者が手を出すと力は加えられる。

 エクサが苦々しく溜め息を吐くと、セルシウスが目を細めて覗き込んだ。その眼は心配しているというよりもエクサの実力を疑っているという方が正しかった。

 弟子にすると言ったのはエクサだが、その日、入念に仕込まれていたとはいえ自由を奪われているのが現状だった。セルシウスに見限られても仕方がない、エクサは弁解をするつもりはなかった。

「何故、エクサの心は折れないんだ。手足の自由を奪われ、身動きが取れない状況で」

 セルシウスが問いかけたのはエクサには思いもよらぬ事だった。何故、そんなことをセルシウスが問うのかさえエクサには理解の範囲外だった。

「手足が自由でないと心は自由でないのか。それは、とてつもない不自由だな」

 驚き、何度も瞬きをしながらエクサはセルシウスへ逆に問いかけた。エクサにとっての自由は常に女神の下にあり、同時に全てだった。昼間は空に太陽があり、夜は月や星があるのと同じだった。太陽や月の下で何をしようと自由だった。

 エクサの答えにセルシウスは胸を貫かれた気分になった。そして急激に自分が言った言葉がどれだけ自分の器を小さくしていたのかが分かり、恥ずかしくなって顔を伏せた。体の自由を奪われようとも心が自由ならば折れないのは当然、何故あんな質問を投げかけたのかセルシウスは足を引き寄せて膝に顔を埋めた。

 急に小さくなったセルシウス、その肩をエクサは叩いた。勢いをつけて押したに近いそれは確かにセルシウスに届き、顔を上げさせた。

「そうですよ。身体は束縛されても、心はそう簡単に束縛できるものではありません」

 顔を上げたのはセルシウスだけではなかった、衛生兵に囲まれているモノもゆっくりと上体を起こしていた。吐血はなくなったようだが、肉体の内側がどうなっているか分からなかった。

 モノだけではなく、今や自由に身動きが取れる者など殆どいなかった。エクサを襲った者はモノと同じ状態で、アルゴンを襲った者は戦意の損失が激しい、後方から術を発動させた魔術師達も体力の消耗が激しい。

 壁も内側も外側も、動けない事には変わりがなかった。むしろ、壁の内側の方が活力と余裕に満ちていた。

 光の壁の中から出られないアルゴンは動き回り、落ちた破片を足で端に押しやり、剥いだ鎧の一部を山に集めて片付けを済ませた。そして荷台に上り、隠れていたテルルの手を取り荷台から降りた。

 アルゴンが片付けまでして連れ出すのは一体どんな輩か、胆の座った者はさり気なく見た。目に映ったテルルは髪に薔薇を挿した人の女性にしか見えなかった。

 息を呑むような美人ではない、村に一人位はいるような可愛らしいお嬢さんに見えた。この者こそアルゴン達が守り続けた存在なのだと兵達は感じた。確かに、守られる、守りたくなるように見えた。

 テルルは光の壁が何なのか、自分はどうすればいいのか、アルゴンの袖を掴んで身を寄せて訊ねた。

 アルゴンはくすぐったそうにテルルの髪を掴み、手触りを十分楽しみ、離した。そして何事も無かったようにこう言った。

「僕はお腹すいちゃった、朝も早かったからご飯が食べたい」

 ほんの一瞬、テルルは目を丸くしたが、にこやかに笑い、頷いて昼食の準備に取り掛かった。