勇者様と魔王様

8.お前だ、お前。そこで首を傾げてるお前だ





 光の壁に囲まれ、壁の向こう側には倒れた兵達がいる中で、テルルは着々と昼食の準備をしていった。

 金属の輪にくの字に曲がった三つ金属片の付けた物を取り出し、金属片が付いた方を上に、輪の中に燃料と火を入れ、水の入った鍋を金属片に乗せた。荷台から野菜を選び出し、水で洗い皮を剥いで小さく切った物を鍋に落としていった。最後にアルゴンが味付けをすると夫婦のスープは出来あがった。

 スープの匂いは壁の向こう側にも届き、手当てをしている兵達の鼻孔をくすぐった。今は魔王の見張りをしているが、その実、部隊として移動したくても移動できなかった。

 馬に乗れない程の者が大半を占めていた。アルゴン達に立ち向かったが、本来の役目は魔王の探知と確認だった。

 先陣の部隊からの知らせ、モノの時間稼ぎ、なによりも幸運だったのが馬車の先回りができる位置に転移の陣が仕掛けられていた事。どれ一つでも欠けていたら今の成果はなかった。

 だが、魔王とその一団の移動を封じられただけで、魔王のエクサを除いて殆ど無傷だった。対して部隊は死者がいないだけで、部隊として重傷だった。

 まだ軽症の兵達は持っている携帯食料を口に運んで体力の回復に努めているが、食料は旨く無い。口の中で鉄を食んだような味が充満している。それでも詰め込めば腹は膨れ、満腹感は得られた。

 それが、アルゴン達はどうだ。兵達は一方的に匂ってくるスープの香りが憎たらしくてならなかった。懐かしいような、それでいて誘うような匂い。壁と兵に包囲されていながらの余裕、心底旨そうに食されていくスープ。そして零れる笑顔と飛び交う会話。

 兵達の目を余所に、テルルはアルゴンが味付けをしたスープに下鼓を打った。

 テルルはどうしても味付けだけが出来ずアルゴンに頼んでしまうが、それ以外で料理は得意だった。食感も大きさも文句は無い。アルゴンも美味しそうに口に運んでいる。セルシウスとケルビンも楽しそうに食べている。ただ、エクサだけが少々食べにくそうに体を強張らせながら食べていた。

 エクサも食事だという事で一気に力を込めて両手の術の呪縛を振り解き、食器を手に取った。食べなくても構わないが、今は少しでも疲労回復に努めようとしていた。

 しかし、周囲の視線が思った以上に気になった。正面から見据えるのではなく、斜めから横目で恨めしそうに見られる。嫉妬をされているのではない、羨ましがられているという点においては同じだが、食欲に恨まれている気分だった。目を動かすと、視線を外すのだが直ぐまた戻す。それを繰り返した。唯一、正面から見据え、目を合わせても逸らさない者がいた。体に太い包帯を巻いたモノだった。

 壁の直ぐ近くで座り込み、食事の様子を見ていた。

「美味しそうですね」

 エクサと目を合わせたまま、モノは言った。本当の事を言うと更に羨ましがらせるだけだと思い、エクサは黙って食事を続けたが、アルゴンが満面の笑みでスプーンを振りかざした。

「美味しいよ。世界一美味しい、テルルが作ってるんだから当り前だけど」

 それを聞いたテルルは髪に挿した薔薇と同じ色に頬を染めた。

 今までエクサはアルゴンの惚気を聞き流し、水はささなかった。セルシウスも口を挟まなかった。ケルビンは聞かなかった事にして自分の理性を保とうと、惚気を頭の中から追いだした。しかし、今日は違った。

「そうですか、勇者の妻は世界一か」

 携帯食料を齧りながら探知部隊の隊長は忌々しげに吐いた。眠りこけていた最速部隊の一人を文字通り叩き起こし、聞き出した情報の一つが魔王と行動している一人が勇者だという事だった。

 エクサは隊長の発言に恐怖を覚えた。隊長の言葉はある意味テルルを貶しているように聞こえたからだ。アルゴンがそれを許すとは思えず、無謀な行動に出ないかと心配した。

 アルゴンは首を傾げ、不思議そうに辺りを見回してから隊長を見返した。

「僕の妻は世界一だけど、どこに勇者がいる」

 左右を見回し、上空にも視線を向け、食事の終わった暇を持て余したアルゴンは勇者を探した。地面すれすれに頭を下げて馬車の下も覗きこんだが、アルゴンは勇者を発見できなかった。仕舞いにはエクサに目が留まったものの、軽く首を捻って考えた後に手を振って否定を示した。

「当り前だ。俺は魔王だろうが」

 アルゴンの行動の意味が分かり、エクサは吠えた。

 同じようにアルゴンはモノを肩越しに見たが、モノも否定した。

「私が奥さんですから。私に奥さんは要りません」

 アルゴンの視界の中には勇者はいなかった。問いただすように、隊長を黙って見つめると、隊長は怒りを込めて叫んだ。

「お前だ、お前。そこで首を傾げてるお前だ」

 首を傾げていたアルゴンは隊長が指差す先を振り向いた。そこにはセルシウスがいた。モノと同じ理由でアルゴンは首を戻して手を振った。当然セルシウスも手を振った。

 未だに勇者を探すアルゴンの袖をテルルが引っ張った。テルルは恥ずかしそうに顔を赤らめ、アルゴンの腕を抱き締め、顔を近づけて囁くように言った。

「アルゴンは、私の勇者だから」

 言い終わるとテルルは顔を伏せ、アルゴンも視線を下に向けて笑った。

「そっか。そうだよね、言われると何だか恥ずかしい」

 周囲の目など全く気にした様子は無く、アルゴンとテルルは惚気をばら撒いた。それには壁の内外を含め、手を振って否定した。それでもテルルは顔を伏せ、アルゴンは笑っていた。見ている方が恥ずかしくなるような、十数年連れ添った夫婦とは思えない反応だった。

 誰か止めてくれないだろうか、エクサは必死にアルゴンとテルルの惚気を振り払おうとしていた。アルゴンの笑いを遮ったのはモノだった。

「今更、魔王を討伐していた勇者だと否定するのは止めてくれませんか、アルゴン」

 冷えた視線をアルゴンに向けて、モノは有無を許さぬように吐き出した。

 急激にその場が冷えた。実際に冷えたわけではなく、肌がそう感じただけだった。ただそれだけの事に、怒りを撒き散らしそうになっていた探知部隊の隊長は口を開けたまま硬直し、セルシウスは無意識に拳を握りしめていた。

 モノの変化に驚いたテルルはアルゴンの体にしがみついた。テルルを背中に隠しアルゴンはモノに向き直った。

「他人の空似だって。それに勇者・アルゴンは死んだんだろう。なら此処にいるのは顔が良く似た、同じ名前の男、僕はテルル以外の勇者になったつもりはないから」

 胸を張ってアルゴンは空々しいことを言った。少なくともエクサにはそう聞こえた。エクサはアルゴンがテルル以外からも勇者だと呼ばれていた事は知っている、そして今に至るまでの経緯も聞いている。しかも、元・魔王・モノと顔見知りで、互いに知り合いだと会話から知れている。

 兵達がモノを魔王だったと知っているのかはエクサには分からない。悪魔だとは知っているようだが、元・魔王だと知っているなら、モノはエクサ以上に自由が無いはずだ。

 アルゴンもモノもどこまで正体を隠し続けるつもりか、少なくともアルゴンの正体は知れていた。モノも魔王のエクサに対抗して自由を奪ってのけた、元・魔王だと知られなくとも今後は厳重な監視をされるだろう。囚われる危険に身をさらしてさえ、モノが望む物は何なのか、それはエクサに蹴られる以上の物なのか、誰も予想出来なかった。

「言いますね。私も言われてみたい台詞ではあります」

 尚冷たい目でアルゴンを見据えながらモノは腕を組んだ。同じくアルゴンも腕を組んだ。

「僕は聞きたいな、モノがここに来た理由を。まさか剣を返せなんて言わないで欲しい」

 一瞬、モノの双眸が異常な光を放った。そして直立不動のまま怒ったように笑い始めた。周囲に響き渡る女性特有の高い笑い声は段々と低くなり、急に止まった。

「私が、アルゴンに差し上げた物です、返せとは言いません。しかしね、私が認められないような者の手にあるのは我慢がならない」

 初めて感情らしい感情を露わにしたモノの背後には陽炎が揺らいでいるように見えた。陽炎は幻覚なのだが、周囲の兵達だけでなく、セルシウスもケルビンも確かに見た。背中を向けていたエクサとアルゴンの背中に隠れていたテルルだけは見えなかった。

 正面を向いているアルゴンにはそれは陽炎に見えず、何故か懐かしい気持ちになった。

 時間錯誤をしそうになっていたアルゴンの手を、テルルが握った。モノの様子が恐ろしい。それ以上にアルゴンの変化を感じ取り、自分と会っていない頃に戻られる方がテルルにとっては怖かった。

 現実に引き戻されたアルゴンは握られた手を見、振り返って震えるテルルに笑って見せた。それだけでテルルは全ての不安が消え去ってしまった。

「アルゴン、何故力の無い俗物に剣を渡したのかは知りませんが、私は決して認めませんよ。いつまでも自由を奪われた剣の嘆きを聞きたくないですからね」

 激しい剣幕でモノはアルゴンに訴えた。

 モノとアルゴンが言う剣にテルルは覚えがあった。それは大分前、アルゴンと出会ったその日にしか見なかったものだ。それでもテルルは覚えていた。

「アルゴン、もしかして彼女が言っているのはアルゴンと初めて会った日に持っていた剣かしら。俗物って、渡してしまった男性の人かしら」

 テルルを見返してアルゴンは考え込んだ。テルルの潤んだ目を見つめていると段々とアルゴンは何もかもが良くなってきた。この時間がずっと続けば良いと思い始め、何を悩んでいたのか分からなくなった。

 そしてアルゴンの結論が出た。

「そうだっけ」

 思わずモノは足を上げて光の壁を蹴っていた。それに伴って激しく体が痛み、直後に悲鳴を抑えて震えた。

 分かり切っていた答えだった、それでもモノは動いていた。届くならば、モノは間違いなくアルゴン自身を蹴っていただろう。

「止めておけ、腹痛どころじゃなくなるぞ」

 エクサが食べ終わった昼食に一礼して頭を上げた。

 エクサの言葉が届いているのかいないのか、もんどりうつモノは低く唸りながら蹴った片足を抱えている。慰めの言葉もなければ、怪我人を押さえようという者もいなかった。それだけの元気と気力を残している者が壁の外にいなかったのだ。

 深く溜め息を吐いて、エクサはゆっくりと立ち上がった。食器を片付け、刺していた両手剣を引き抜いた。土を払い、鞘を拾い上げ、剣を収めた。

 驚いたのはモノに頼まれて神の術を施した術者だった。五人がかりで出来得る最高の祈りを捧げたのだ、これ程の短時間で滑らかな動きが出来るはずは無い。今日一日は立ち上がる事さえ難しい、はずだった。

 それが今、エクサはゆっくりと立ち上がり、重たい両手剣を鞘に収めた。

 魔王とはいえ、未だ時間が稼げると考えていた兵達は齧っていた携帯食料を置き、武器を引き寄せた。体の痛みを抑えて立ち上がり、エクサの動きを見守った。

 鞘に収めた両手剣を馬車に立てかけ、エクサは荷台に上がって自分の荷物を探した。激しく揺れた所為か荷物は置いてあった場所と反対側にあった。自分の荷物の中から、買っておいた酒瓶を取り出してエクサは荷台から降りた。

 酒瓶を持って降りてきたエクサにセルシウスとケルビンは驚いた。激しい運動直後に酒類は体の巡りが良く、酔いが回る。今は酔っている場合ではないというのに、セルシウスとケルビンは食器を片付けてエクサに駆け寄った。

 セルシウス達の制止を聞き流し、エクサは酒瓶の封を切った。それと同時に匂いが辺りに流れ、酒に弱い者はむせ返った。

 エクサは匂いを美味そうに嗅ぎ、酒瓶に口をつけて含んだ。一度口を離してから息を吐き、瓶を逆さにして嚥下した。急激に減っていく瓶の中身、それを最後の一滴まで吸い取ると瓶から口を離した。

 満足した顔でエクサは空になった酒瓶を両手剣の傍に置き、揺れる足で光の壁に向かった。両手を握り、開き、具合を確かめてから予備動作もなく光の壁を殴った。

 光の壁から一部の光が離散し、壁全体が揺れた。揺れた壁は僅かに歪んだ後、元の形に戻ったかのように振る舞った。

 壁の変化を感じたのは壁を作りだした術者の一人だった。それはほんの僅かな変化だった。壁が薄くなったように感じたのだ。肌で感じただけの客観性に乏しい物を口にするには術者が年を取り過ぎていた。

「こんなモンはな、こうすりゃ無くなるんだよ」

 真面目な顔でエクサは拳を握り、素早く、激しく壁を殴った。その度に壁は薄くなった。遂に、最初に壁の変化を感じた術者以外にも壁が薄くなっているのが分かった。エクサが殴る度に壁が薄くなっている、今度は確信しても口に出すのが恐ろしかった。