勇者様と魔王様

13.あんたらは、あいつの味方か





 エクサは今まで以上に速度を上げ、途中で馬車を乗り換え、更に馬を増やした。カンデラが再び剣を手に襲ってくると考えていた。

「エクサ、この森を抜けると草原だ。そこから西へ抜けて、海に出る。その方が早い」

 荷台から這いだすようにして、セルシウスがエクサに叫んだ。

 耳を横切る風が途切れ途切れにセルシウスの声を伝える。馬車の揺れと共にエクサは大きく頷き、小さく折り曲げた地図に目を落とした。陸路だけなら国を出るまでの最短経路だった。逆に言えば、海路の距離が長くなる。

 海、という単語にアルゴンが顔色を悪くしたが、今は好き嫌いを言える場合ではない。本人が一番自覚していた。

「大丈夫よ。アルゴン、私は船に乗るのは初めてだから楽しみなのよ」

 暗い影を落とすアルゴンの手を握り、テルルは優しく語りかけた。そこで、ようやく顔を上げたアルゴンは苦しそうにテルルへ笑い返した。

 早く、この夫婦の惚気がなんとかならないものか、エクサは眉を寄せた。

「初めてだから、楽しみだけど本当に怖いの。だからアルゴンが私を支えてね」

 赤い薔薇をくすぐったそうに触れ、アルゴンの腕に額を擦り付けるテルルは心底幸せそうだった。テルルの髪を優しく、何度も撫でつけるアルゴンの表情も次第に和らいでいった。まるで、他に誰もいないように二人だけの世界を存分に味わっていた。

 現実はアルゴンとテルルだけではなく、他に三名と一本の剣がいた。そして一本は話したがりで、十数年間寂しい思いをしていた。

「でぇえい。お前らはいつまでデレデレしているつもりだ。鳥肌が立つ」

 言った途端、ジーメンスはアルゴンに放り投げられた。

 ジーメンスの悲鳴が上がる前にセルシウスが受け止め、事なきを得た。危なく馬車から放り出されそうになったジーメンスは喚き散らした。

 突然のジーメンスの声に、エクサは御者台から馬に飛び移りそうになった。飛び上がったエクサの手からケルビンが手綱を引っ手繰り、馬車の暴走は回避されたが、エクサは体を戻した反動で荷台に倒れた。

「ぬぁっ。なんという声を上げるんだ、そいつは」

 したたか背中を打ちつけたエクサは上下が反転した荷台でジーメンスを睨んだ。

 セルシウスの手の中で未だ叫び続けるジーメンスに、アルゴンが手を伸ばした。瞬間、ジーメンスは沈黙し、その手に収まった。

「ね。煩いでしょ、コイツ」

 驚いた表情のテルルを片手で抱きしめ、アルゴンは慣れた手つきでジーメンスを手元に引き寄せた。

 アルゴンがジーメンスのベルトを腰に巻こうとした時、素早く目だけで上下左右を見回し、テルルを抱きしめてアルゴンは荷台から飛び降りた。

「ケルビン、飛べ」

 振り向く一瞬、視界の端に映る光に気付いたケルビンは横に飛んだ。

 叫んだセルシウス、荷台に転がったエクサだけが馬車に残った。エクサを起こそうとしたセルシウスは、逆にエクサに引き倒され、肩から荷台に体を打ちつけた。

 頭上でエクサの息を感じ、背中で心音を聞いた。体の興奮が恐怖からなのか、恥ずかしさからなのかセルシウスには分からなかった。

 次の瞬間、馬車の中にも関わらず横から突風が吹き抜けた。

 エクサが身を上げると、下にいたセルシウスもゆっくりと体を起こしたつもりだった。体を任せていた荷台は崩れ、セルシウスは土と草に塗れながら転がった。

 セルシウスは馬車の残骸の中で今度こそ身を起こした。

 肌に絡みつく髪が鬱陶しい、体の節々が痛い、額が熱い、唇だけが渇いている。鋭い視線を周囲へ巡らせ、エクサの両手剣を見つけた。セルシウスは跳ぶように走り、両手剣を両手で抱きしめ、持ち主のエクサを探した。

「人の子よ。お止めなさい、その武器の持ち主はもういません」

 柔らかい、慈愛に満ちた声はセルシウスの頭上から降ってきた。顔を上げたセルシウスが見たのは白い影に似ていた。

 陽光を背負うように羽を広げ、純白のドレスの上には白銀の鎧が乗っている。金色の髪、その下の穏やかな瞳、口元に浮かぶ微笑、男性のような力強さ、女性のような柔らかさを備えているそれは間違いなく天使だった。

 ただセルシウスを見下げる槍だけは、どこかエクサの両手剣に似ていた。

「人の子よ、人を愛しなさい。慈しみなさい」

 文字通り、降って湧いたような天使は一方的にセルシウスに命じた。

「その恐ろしい武器を手放しなさい、それは人には不相応な存在です。さぁ、こちらに」

 血の通わぬような肌はどこまでも白く、陶器に似ている。出来過ぎた人形の様だとセルシウスは感じた。同時に、そんな者に渡す物など無いとも感じた。

 口調だけは穏やかに、しかし上からセルシウスを見下して、宙から手を差し出した。

 エクサの両手剣をしっかりと抱きしめ、セルシウスは天使と逆方向に駆け出した。重い両手剣を抱えたまま空を飛ぶ天使から逃げ切れるとは思えなかったが、エクサの武器が誰かも知らぬ相手に渡るのは嫌だった。

 ろくに前も見ず、振り返りながら走るセルシウス。その体の疲労は既に限界を超えていた。いつもなら何の問題もない、たった一つの窪みがその先にあった。

 セルシウスが息を飲む間もなく、足が取られ、もつれた。無理に態勢を整えたセルシウスの腕から両手剣は滑り落ちた。その両手剣の柄を、天使が持ち上げる。

 地面の上でセルシウスはもがいた。

 体を跳ね上げ、天使に殴りかかろうと拳を握り込んだ。セルシウスの拳は天使の体を通り抜け、宙を切った。予想していなかった事にセルシウスの体は震えた。エクサには触れられるのに、この天使には触れられない。

 驚愕に目を見開くセルシウスに、天使は優しく槍を向けた。

「人の子よ、人を愛しなさい。種族を越えた愛など実らないのです。ましてや、魔と人の愛など許されるものではありません。時に短き生の中でその身を焦がすような思いもあるでしょう、しかしそれは一時の事。人の子よ、実る愛を得なさい」

 一通り、言い終えた天使は澄ました顔でセルシウスを見下ろし、胸を反らせた。

 反らせた胸の前を一閃の光となったジーメンスが通り過ぎた。

「アルゴン、ちゃんと狙え」

 地面に突き刺さったジーメンスは剣のまま叫んだ。舌打ちをするジーメンスをセルシウスは引き抜き、乱暴に横へと薙ぎ払った。ジーメンスの切っ先は天使を掠めるも届かず、もう一度振りかぶったセルシウスはその場に崩れ落ちた。

「魔剣・ジーメンス。滅すべき剣、悪魔よ。今ここで消滅させる」

 表情を変えず、天使は槍をジーメンスに向けた。

「止めて」

 テルルの悲鳴が上がる。それを横目に天使は槍を振り上げた。

「僕は大分静かになって良いんだけど、ちょっと困るんだよね。それにテルルが可哀想だって言うから、助けようと思うんだ」

 天使の首を捉えたのはジーメンスの鞘だった。

 ただ、ジーメンスの鞘もその体を素通りした。それを特に気にした様子もないアルゴンと天使は位置を変えた。

「セルシウス、走って」

 ケルビンの声と共に幾筋かのナイフが放たれた。その中の一本だけを天使は避け、宙へと舞い上がった。

 その一本をセルシウスは見逃さなかった。

 ジーメンスを天使へ向け放り投げ、セルシウスは天使が投げた一本を掴み、声を上げて力の限りに飛び上がった。

 わずかに体を捻った天使の背中に、ケルビンが放った大小のナイフが突き刺さる。最後に、セルシウスの手にあったナイフがその胸に突き刺さった。直後に、セルシウスは槍で払い落とされ、地面に着地した。

「この、降りて来い。卑怯者め」

 たまらずセルシウスは吠えた。

「あいつが降りてきても、セルシウス触れないだろ」

「止めておけ。お前では俺を扱えん、今のようなナイフ程度では大したダメージは与えられないぞ」

 持ち主の手に落ち着いたジーメンスと、アルゴンは冷静にセルシウスの言葉を指摘した。興奮しているセルシウスはそれでも拳を固く握り、突き上げた。

「あんたらは、あいつの味方か」

 小さく首を傾げて、アルゴンは悪びれた様子もなく答えた。

「うーん、あえて言うなら。魔王の味方かな」

 天使の首から上が消えた。

 次の瞬間、宙からその姿は完全に消え、地面に砂埃が広がり、視界を遮る。再び視界が戻った時、地面に槍が落ちて突き刺さっていた。

 セルシウスの目にも、ケルビンの目にも捉えられなかった。アルゴンが見たのはエクサの気配を持つ影が動いた、それだけだった。ただ、遠くにいたテルルだけが、何かが凄まじい勢いで地面から飛び出して天使にぶつかったのを見た。

 お陰で、まだ作り慣れない顔で憤怒の表情を作り上げたエクサを見ることはなかった。当の天使に至っては、首から上が突然消失した感覚に襲われるまで何も分からなかった。

 突如、遠方から天使の攻撃を受けたエクサは地に伏していた。肉体を持ったばかりに、地面から這いだすのに苦労し、内側に湧き起こった感情が蓄積していった。その上、天使の良く通る声だけはエクサに届き、一方的で理不尽な言い分が沸点を下げた。

 固く握り込んだエクサの拳は天使の頭部にめり込み、地面に突き刺していた。

「今すぐ、貴様を滅してやる。さぁ、覚悟しろ。歯を食いしばれ」

 片手で天使の襟を掴み、残る片手で陽炎が上がる拳を握るエクサがそこにいた。首から背中にかけての布地は削り取られたように破れ、端が燻っており、雰囲気を醸し出すのに一役買っていた。

 エクサに捕えられた天使の顔半分は既に変形しており、掴んでいるエクサの手を両手で必死に解こうとしていた。暴れる天使の体からはナイフが外れて落ちた。

「おのれ、愚かな神の使いが。愛深き神の使いである私を滅す事など、許されると思っているのか」

 エクサの頭が引かれた、直後に火花が散るような頭突きが当たった。

 目を白黒させ、仰け反った天使の顔を寄せ、噛みつくようにしてエクサは捲したてた。

「他者に自分の考えを押し付けるような奴が、愛深きだと。その腐りきった根性を叩き直してくれる。俺は、お前やお前の神の様に、陰湿でねちっこい奴が大嫌いだ」

 手にしていた天使の服を放し、崩れる天使にエクサは続けた。

「お前を消滅させる事は出来る。だが、それは止めだ。帰還して伝えろ。俺は正々堂々と貴様らの勝負を受けて立つ。それも出来ないのなら、今までの様に卑怯で姑息に、他者の後ろに隠れて来るがいい」

 エクサを睨み返し、天使は自らの武器を取ろうと体を伸ばした瞬間、無防備になった顎を下から貫かれた。顔を天に向け、かち上げられた天使は空へと消えた。

「戻って伝えろ、貴様らを叩き直すのは俺だと」

 その日、天上ではリーリアリの高らかな笑い声が響き渡ったという。