はらりと舞い散る02




***

例えば、腹が立つというのはこういうことでしょうか。
私の恋人だと自称する男と今夜待ち合わせています。
今ここで重要なのは男が私の恋人だと自称している事ではなく、待ち合わせているという事でもなく、
ネイルの一部が剥げてしまったという事。
待ち合わせに遅れそうでなければ塗りなおしています。
しかし、それはできません。
人と約束をしているからです。

別段、男は待たせておけます。
放っておけば勝手に見切りをつけてメールで連絡してから帰り、私の帰宅を確認した後で電話をしてきます。
だから、大丈夫なのです。
そうは分かっていても他人を待たせるのは良心が痛みます。

春が近いとはいえ夜は冷えます。
冷えた空気が張りつめて、履いているハイヒールの音がよく響きます。

反響するハイヒールの音でリズムを取りながら、私は少しだけ遅れる旨をメールに託しました。
少しだけ安心していると、曲がり角で指示器もなしにオレンジ色の車が私の方に右折してきました。
鋭い音を立てて立ち止まると車は驚いたように一旦停止し、運転手は恐る恐る左右を確認してから私に小さく手を上げました。

そしてゆっくりと右折をして私が来た方向へと走っていきました。

何気なくその後ろ姿を見送ると、靴音がしました。
私が歩き出すと同時に靴音は私の歩幅に合わせてついてきました。
眉を寄せて、それでも先ほどと同じリズムで歩いていきました。

ついてこられるのも嫌だったので足の長さを生かして歩幅を広げてリズムを刻むと、靴音も同じリズムを刻み始めました。

一体どこの誰が私についてきているのか気になって電灯の下で私は立ち止まりました。
靴音は先ほどよりも早いリズムを刻んでいます。
電灯の影に身を潜め、私はもしもの時のために待たせている相手へメールを送信する準備をしました。
そうしていると靴音の主がやってきました。

***

パーカーのフードで顔のほとんどは見えないのに、気味の悪い表情が見えた。
携帯電話の小さな画面では見えなかった厭らしい口元が揺れた。

「大変だったね、悠里ちゃん。えらいなぁ」

おじさんは何故か名前を呼んだ。
頭の中はグルグル回って、心臓は飛び跳ね、手から携帯電話が滑り落ちた。
音を立てて携帯電話がアスファルトの上でバウンドしてから足に当たった。
当たったことに驚き、足を上げて、声が出た。

「ひぁあ」

どこからこんな声が出たのか、どうしてもっと大きな声を出さなかったのか後悔した。
おじさんは卑猥な表情を浮かべて足元の携帯電話を拾い上げようとしながら喋り出した。

「駄目じゃないか。二年目の携帯電話なんだろう? 今日だって三回も落として。
このストラップだってお友達から誕生日に貰ったんだろう? 大切にしなきゃぁ」

背筋が凍りついた、そんな気がした。
携帯電話におじさんの指が触れる瞬間、思わず携帯電話を蹴飛ばしていた。
膨れ上がったミミズのような脂ぎった指が持ち物に触れる、それが許せなかった。

携帯電話を蹴飛ばした拍子におじさんの手も蹴っていた。
声も上げず、黙って体を上げる様子を見ていた。
先ほどの表情と打って変わって、怒っていた。
厭らしい顔から憤怒の顔に変わっていた。

やってしまった事に狼狽えながら、蹴飛ばした携帯電話を拾おうと倒れこみながら動いた。
携帯電話を拾い上げると、上から影が覆いかぶさってきた。
訳も分からず、転がって逃げるとおじさんが両手を広げて立っていた。

「んふ、んふふふっ。可愛いなぁ」

「や、来ないで。来ないでよ」

携帯電話を掴んだまま這って進み、背後を振り返る。
おじさんが締まらない顔を寄せてきた。

**

空の上には満月に近い月が浮かんでいる。
しかし、その下では欲望に任せた行為が行われようとしていた。

「悠里ちゃん、俺の部屋においでよ。悠里ちゃんの家よりずっと近いから」

悪臭がした。
あまりの臭いに顔を背けると、ハイヒールが一組、アスファルトに置いてあった。
違った、ハイヒールの上に長い足が乗っていた。

「ちょっと、何やってんのよ」

悪臭が遠ざかり、代わりに甘い花のような匂いがした。
シャンプーのような、香水のような、どちらにしても女の人の香りだ。
転がるようにしてハイヒールの後ろに逃げ込んだ。

丁度、電灯の明かりが逆光となり女の人の長い髪が煌めいた。
長い髪にコート、白いシフォンのスカートから延びるのはこの寒空の下なのにストッキングとハイヒール。

「どけよ、ブス」

ハイヒールの女の人におじさんが低い声で威圧するように言い放った。
先ほどまで「可愛い」と言っていた口から出たのかと思うほど低い声だった。
前にいる女の人がいなければ怖くて震えているしかなかっただろう声だ。

「誰がブスだ、このブ男!」

流星のように走ったハイヒールがおじさんの鳩尾に食い込んだ。
ハイヒールが引き抜かれるとおじさんは悶え、その場に跪いた。
頭を下げた途端に、おじさんの後頭部にハイヒールが突き刺さった。

「ほら、言い訳するならさっさとしろ。
この変態がっ。言えるもんなら早く言え!」

ハイヒールを引っ込めると、今度は持っていた鞄を振り回してぶつけた。
鈍い音がしておじさんの頭が揺れて、先ほどと立場が逆転して逃げ出した。
おじさんの逃げ出した先に自転車の電灯が光り、おじさんはその人に助けを求めた。

「助けてください」

助けを求めた人が警察官だったのは盲点だったらしい。